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 昭和の部屋   2014.8.19更新

   平成も四半世紀を過ごしました、懐かしきは昭和の時代です
 輝かしい青春時代 バリバリの仕事人間だった時。
 国の内外を問わず企業出向の経験もおありですか?
 お話し下さい・・・貴方の昭和
 ※ ご投稿は「メロウ伝承館」へ転載させていただくことがあります


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  • [No.3062] 丹毒 投稿者:Pan  投稿日:2016/09/14(Wed) 11:15
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    みなさん こんにちは。 

     今となっては随分マイナーなテーマですが、母の生涯で唯一入院
    したのはこの時です。

     当時は入院と言えばもう最後の手段の実感でした。
     後で聞きましたが、母はこれが見納めと覚悟したそうです。

     幸い、生きて帰って来ました。

     私が幼稚園に入る遥か前のことで、室戸台風の頃かな。

     今では違った病名で呼ばれるそうですね。

        ***** Pan *****


    [No.3061] Re: 練炭・豆炭/亜炭 投稿者:まや  投稿日:2016/09/12(Mon) 16:10
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    ザックスさん、今日は!

    > 仙台ではよく亜炭を焚いていました。独特の匂いでした。
    >
    > もう今は使ってないんでしょうね。

     もうとっくに使わなくなっていると思いますよ。

     石炭産地では亜炭はほとんど知られていなかったと思います。
     いずれにしても、石炭の産地でも燃料は石油にとってかわられ、続いて、
    プロパンガスに代わられました。使い勝手のよさには敵いませんからね。

     それに石炭を掘るにも限度があります。
     九州の産炭地の建造物もすでに歴史的建造物ということになり、炭坑節に
    も登場するお月さんを煙たがらせた二本の煙突は歴史的遺産として残されて
    います。

    まや


    [No.3060] Re: 練炭・豆炭/亜炭 投稿者:ザックス  投稿日:2016/09/11(Sun) 09:31
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    仙台ではよく亜炭を焚いていました。独特の匂いでした。

    もう今は使ってないんでしょうね。


    [No.3059] Re: 紙芝居 投稿者:あや  投稿日:2016/09/11(Sun) 09:20
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    楽しいお話をありがとうございます。

    私の紙芝居の思い出はというと!
    家のあった所が、路地の突き当りでした。金網の塀の向こうには池が、広場が広
    がっていました。横は大家さんの大きな大きな畑が広がって、住むのにいいとこ
    ろでした。

    なぜはその狭い路地の突き当りに、紙芝居屋さんがくるのです。
    私家は貧乏で、何も買うことができず、紙芝居も見ることができず、後ろのほう
    に離れて立っているのです。

    いつからのことか、紙芝居のおじちゃんが、「前にきて見てみてもいいよ」と
    言ってくれたので、うれしかったです。
    また、なんのことからか、私に紙芝居をやらせてくれたことは忘れられない
    思い出です。やったのは何だったか忘れました。

    小学校4年生くらいからでしょうか?

    今は時々、大きな紙芝居を障害児たちにやろことはありますが、これもおしまい
    になりそうですね。


    [No.3058] Re: 紙芝居 投稿者:まや  投稿日:2016/09/10(Sat) 15:01
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    男爵さん & みなさん、今日は!

     紙芝居は戦後しばらくは復活しなかったような記憶があります。
     すきな紙芝居のオジサンが出征したという話を聴いたのは小学校高学年の
    ころした。そして終戦が中学校二年の夏・・・ずっと紙芝居など見られたか
    どうか? 

     戦後の余裕のない時期を過ごして、私が自分たちで紙芝居を作って児童施
    設などを巡回するようになったのはそれから数年後の大学2、3年のころで
    した。
     でも、フランネル・グラフや幻燈が多く使われるようになって、紙芝居は
    しばらく、影を潜めていたように思います。その後しばらくしてから、また
    紙芝居が子供会や学校行事の中で復活してきたように記憶していますが、
    昔のように広場や公園の片隅で・・・ということはもうありませんね。

    まや


    [No.3057] Re: 紙芝居 投稿者:男爵  投稿日:2016/09/10(Sat) 10:51
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    めぐみさん Panさん、まやさん、KENさん  こんにちは。

    > > 紙芝居が回って来ましたね。 親が反対だったのかどうか知りませんが、あまり見た記
    > > 憶がありません。


    一度だけ、空き地で見たことがあります。

    私の育ったところは、あまり紙芝居屋さんが歩いていないところでした。

    見たのは「黄金バッド」ですね。(「黄金バッド」は映画かもしれません)

    学校で見たので記憶の残っているのが
     「蜘蛛の糸」
    そのうちに、頼まれて低学年の子供らに紙芝居を読み聞かせしたことがあります。
      (裏に)ここで、次に移る なんて書かれてあったりしました。

    そういうわけで
    今でも図書館の子供コーナーには
    紙芝居はおいてあります。

    母親が読み聞かせしていますね。

    ネットでも販売。  昔話やアンパンマンも。
    http://www.ehonnavi.net/ehon10_top.asp


    [No.3056] Re: 電気パン焼き器 投稿者:Pan  投稿日:2016/09/09(Fri) 18:40
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     マサちゃん、みなさん こんにちは。

    >  終戦直後、何もない頃に電気パン焼き器なるものが流行りました。
    > 大きめの弁当箱様な木の箱の内側の左右にブリキが張ってあって、それに電気コードが付いている。

     思い出しました。☆  やりましたよ。(^-^)

     自作したのは箱では無く、蒲鉾板のような板の両側端に、缶詰の缶を切り
    開いたブリキ板を釘付けしました。

    > 重曹などを入れて練ったメリケン粉を入れて電源に繋ぐと、電気が通ってパンが焼けてくる。
    > ほどよく焼き上がると、メリケン粉の水分が無くなるので、電気は通らなくなって焼き上がり。

     焼くと言うよりも蒸した感じで出来たのは蒸しパンでしたが、それも部分
    的には生のママ残っていました。

     やり方が拙かったのか、飢えていた時代でしたが美味しいと思ったことがありません。 本当の蒸しパンは100%成功していました。

     何かコツがあったら教えて下さい。

    > これをやると、最初はものすごく電気が流れるので、ヒューズが切れることが間々ありました。

     食塩を混ぜる割合で、電気の流れる量が大きく変わることも学びました。(^^)


          ***** Pan *****


    [No.3055] 電気パン焼き器 投稿者:マサちゃん  投稿日:2016/09/09(Fri) 06:55
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     みなさん おはようございます

     終戦直後、何もない頃に電気パン焼き器なるものが流行りました。
    大きめの弁当箱様な木の箱の内側の左右にブリキが張ってあって、それに電気コードが付いている。
    重曹などを入れて練ったメリケン粉を入れて電源に繋ぐと、電気が通ってパンが焼けてくる。
    ほどよく焼き上がると、メリケン粉の水分が無くなるので、電気は通らなくなって焼き上がり。
    これをやると、最初はものすごく電気が流れるので、ヒューズが切れることが間々ありました。


    [No.3054] Re: 名誉の戦死 投稿者:男爵  投稿日:2016/09/09(Fri) 05:05
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    Panさん、みなさん、こんにちは。

    >  正確な年は覚えていませんが、小学生の時です。

    >  その兄の方が、ビルマ戦線だったかと思うのですが戦死し
    > ました。

    インパール作戦では
    戦場で死んだ兵士よりも餓死した兵士のほうがはるかに多かったそうです。

    食糧補給のめどもなく現地に送り込まれた兵士たちは悲惨。

    その作戦を立てたトップは何も責任をとらず内地に栄転とか。

    太平洋戦争の際に、アメリカに(事前に)最後通牒を知らせるべきだった外務省と日本大使館は
    へまをして真珠湾攻撃のあとに最後通牒を送った。

    彼らも何の責任も問われず。

    いっぽう、ユダヤ人たちにビザを発給し続けた杉原は
    政府の命令に背いたということで、戦後に職を失います。

    歴史をふりかえると、やりきれなくなります。

    責任を問われないトップの姿は現代もあちこちに見られるようです。


    [No.3052] 計画停電 投稿者:Pan  投稿日:2016/09/08(Thu) 15:17
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    みなさん、こんんにちは。

     戦後のある期間、電力不足による停電は日課のようなものでしたね。

     突然停電する事もありましたが、その様な不意打ちを喰らわさないよう
    に前もって通報があり、準備をして待っ事も多かったお思います。
     今から思えばその期間は1年以内で短かったです。

     当時ロウソクは入手不能の状態でしたから、夕食は早いに済ませました。

     幸い、当時住んでいた田舎には、大阪から軍需工場が疎開して、移転作
    業中でもあったので、あちこちの山間部に大型の変圧器が置かれていまし
    た。

     変圧器の一番下に小さなコックが付いていて、それを捻ると冷却油が出
    るので、一升瓶を持って山間部の施設へ行きました。

     単純に言うと倒産会社への「白昼泥棒」です。
     他にもフローリングのラワン材なども毎日少しづつ担いで運び、竈の焚
    き付け使いました。

     近くの叔母さんなんか夕方に大八車を引いて行っていましたから、子供
    の仕事とは桁が違いました。

     本来、変圧器の冷却油は燃料用では無いのですが、灯油に近いらしく、
    靴墨の空瓶の蓋に穴を開け、灯心代わりの布をねじ込むと灯油ランプにな
    りました。

     炎の先端は薄黒い煤になって、天井近くの棚に置くと天井が真っ黒にな
    るので、缶詰の空き缶を切って蔽いもつけました。

     元々田舎では家の中に竈が据え付けてあり、それで煮炊きの全てを賄っ
    ていましたから、何の抵抗もなく、これでも充分安心して夕べの団欒時間
    を過ごせました。(^-^)


         ***** Pan *****


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