運動会・遠足・学芸会・展覧会 
(期間:2013.11.1 - 2013.12.31)

今回は、運動会・遠足・学芸会・展覧会など
小学校時代の懐かしい思い出、少し苦い思い出など書いてください。
中学校(女学校)時代のことでもいいです。
戦中・戦後、いろいろな事情で学校行事が開催できなかったこともあったと思います。
そんなことも書いてください。


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  • [No.169] Re: 心に灯をともす教育 投稿者:男爵  投稿日:2013/12/03(Tue) 04:55
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    > > 白井重行:心に灯をともす教育


    自律=人間らしい行為

    掃除当番の時の四つのタイプ
     A すっぽかして、帰ってしまう。
     B 掃除の間、便所などに逃げている。
     C 叱られるのがいやだから、一応は掃除する。
     D 自覚をもって、素直に掃除する。(幸せな人)

    人間は、心も、体も、頭も、使わなかったら、必ずダメになる。
      (自分の心で自分の体で実際にやること)

    骨折のギブスで動かなくなる腕。病臥で歩けなくなる脚。読書しない人の空虚な頭。

    「情は人のためならず」の真意。


    習慣
     習慣のもつ大きな力。  毎日の生活は、ほとんど習慣によっている。言葉、歩き方、食事の仕方、文字....
     よい習慣をつくる努力  人のふりみてわがふりなおせ


    [No.168] Re: 私の昭和史 投稿者:男爵  投稿日:2013/12/02(Mon) 05:15
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    これは別の人の書いたものです。

    書いた人は女性です。

    私の昭和史

    楽しかった小学校時代
    著者は昭和24年生まれ。

    小学校高学年の頃、住んでいた町営住宅には小学生が8,9人いたし、赤ちゃんもいて大変にぎやかであった。
    石けり、ゴムとび、かん蹴り、かくれんぼ、どれもなつかしい遊びであるが、かくれんぼをしていたとき、なわだと思ってつかんだら蛇だった。

    住宅には大きな桜の木が2本あり、毛虫が洗面器にいっぱいとれたり、真夏になると蛾の天国で、朝になると大小さまざまの蛾が洗面器いっぱいということがよくあった。
    この頃から毛虫とか蛾は大嫌いで、思い出してもぞっとしてしまう。

    幼児も混えて、よくままごと遊びをした。ござをしき、スカンポやタンポポ、ツユクサ等でごはんや汁をつくった。

    冬になると、坂でよくそり遊びをした。坂の下は県道であったが、車はあまり通らず、それでも一人交代で見張りをし、すべって遊んだ。
    坂には次の朝まで必ず灰がまかれてあった。

    テレビが近所の家に入ったのは、昭和34,5年頃だったろうか。
    それまではラジオの子供向けの連続放送があると、遊びをやめて、どこかの家でラジオの前に座り聞いた。
    それがテレビに変わると、皆で最初に買った家に押しかけ、ラジオ同様の格好で眺めたものだった。

    キャラメルやチョコレートを持っていける遠足は楽しみであった。それとともに楽しみなのはバナナであった。今は果物の中で一番安いけれども、その当時は高級品であり、食べられる時は誕生日とか遠足のときだけだった。

    小学5,6年のとき、学校給食が始まった。もちろん今のようにセンター方式でなく、学校で、しかも調理には父兄が交代で手伝いにきた。
    大豆が入ったのをよく食べさせられた。
    小学校卒業の離散会のときのごちそうは給食であった。
    卒業時まであの脱脂粉乳にはなじめっず、小学校最後の脱脂粉乳も鼻をつまんで息もつかずに一気に飲んだ。
    それ以来牛乳は大嫌いな食品となった。脱脂粉乳がアメリカでは家畜の飼料だったということを知ったのは、十年以上もたってからであった。


    [No.167] Re: ちびまる子の遠足 投稿者:男爵  投稿日:2013/12/01(Sun) 06:12
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    > > その原書を探してきました。   第5巻
    >
    > 櫻桃小丸子
    >
    > 香港のセブンイレブンには中国の新聞や本が売っていたが
    > 漫画「ちびまる子ちゃん」が売っていたのには驚いた。

    > 櫻桃小丸子    ちびまる子ちゃん

    さてこの本には
    まるこが熱を出して学校を休む話があります。

    朝起きると37度2分、すこし熱がある。

    母に「今日はお休みだね」と言われて
    喜ぶまるこ。

    おばあちゃんの年よりの知恵で
    まるこは、うめぼしのつぶしたものをおでこにはることになる。

    学校では
    まるこが休んだから給食があまる。
    とくに人気のプリンが一個あまったので
    希望者男子が5人、じゃんけん3回勝負をする。

    勝者は、まるこに感謝せよ。

    酸梅乾      うめぼし
    布丁       プリン
    三局両勝制    3回勝負

    > 香港は台湾の漢字と同じで、戦前の難しい漢字。
    > でも、北京の簡体字はJISにないから
    > ここで表示はできない。
    > (北京版の漫画の本もあるが、紹介できないのが残念)


    [No.166] Re: 小学生の作文 投稿者:男爵  投稿日:2013/11/30(Sat) 07:06
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    > > > > >>図書館で小学生の作文集を見つけました。
    > > > > >
    > > > > > >>この中から、比較的今回のテーマにあう、学校行事に参加した子どもの作文を
    > > > > > >>何度か紹介したいと思います。
    > > > > >
    > > > > > 今度は2011年のものから紹介します。

       ☆    ☆

    いろいろ学んだぼうさいくんれん

    小学二年の作文

    8月土曜日のぼうさいくんれん

    ・ひなんくんれん  副校長先生の放送を机の下にもぐりこんで聞く。

    ・ヒケスンジャーショー これを見て火のあぶないことがよくわかった。

    ・地しん体けん 本物の家みたいに床には畳がしいてある。最初は震度1、それから震度2震度3とどんどん数字が上がる。 震度7ではガタガタとゆれて立てないくらい。「本当にこんな地震があったらこわいな」と思った。

    ・けむり体けん 口にハンカチをあてて、テントの中に入る。中のにおいはプリンみたいなにおい。煙で全然見えなかった。これでは逃げられないと思った。

    さいごに、地いきの人たちが作った、くんれんようのおにぎりとおやつを食べた。

    -------

    今の子どもの体験学習は、昔と違う。
    いろいろなことがある。


    [No.165] Re: 私の昭和史 投稿者:男爵  投稿日:2013/11/29(Fri) 09:44
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    > > > > 昭和18年に小学校に入学した。
    > > > > 入学式には姉に連れて行ってもらった。 母は農作業が忙しくそれどころではなかった。

    当時、学生服を着ている者は少なく、ほとんどが、自家製の袷(あわせ)等であった。
    服も靴も配給で数が問題にならないほど少なく、くじ引きで分けられた。
    生徒の服装は、粗末な上下一枚をまとっている位なもので肌着はほとんどなく、靴下をはく者はいなかった。
    寒い冬も、これで耐えてきたのである。寝具にしても藁を敷きゴザを敷いたのが敷布団である。

    また当時は、大切な布の原料となる麻を、どこの農家でも栽培して、その麻で糸をつむぎ、糸を撚り、布を作る機織りが盛んに行われた。

    その頃の農家の栽培作物は、稲、稗、粟、麦、大豆、小豆、ソバ、キビ、トウキビ(とうもろこし)、ジャガイモ、カボチャ、ゴマ、その他野菜若干である。

    家畜では、馬、山羊、兎、鶏等であり、現代とは大きくちがう。

    たまに村に来る自動車はめずらしかった。その車は、木炭車といって、木炭を燃料として走る車だった。
    戦時中、私の部落には、自転車二台、ラジオ二台位のものであった。

    昭和一桁から二桁前半の人たちは多少の差こそあっても、あの戦争のどさくさを体験したはずである。
    そうした時代を経て、子供たちは大きくなり、大人は食うために働き、共に苦労して生き延びてきたのである。
    今この恵まれた社会にあって、最高に幸せな生活を送っていることに、深く感謝しなければならないと思う。
    直接戦地に行って不幸にあった多くの人たち、気の毒にもとうとい犠牲となってしまった人々、そういう人々のことは忘れてはならないと思う。


    この文章の中で「部落」という言葉があるが
    関西や西日本から来た人が聞く「部落」から連想するものとは違う。
    東北・北海道で部落というのは、村よりも小さい単位で、地域の集落のひとまとまりをさす言葉です。
      藤村の「破戒」や住井すゑの「橋のない川」の部落ではありません。


    [No.164] Re: 雪国はなったらし風土記 投稿者:男爵  投稿日:2013/11/29(Fri) 05:25
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    > > > > > 写真集「雪国はなったらし風土記」  無明舎出版編  1988
    > > > >
    > > > > > ちょっと写真を紹介しましょう。

    (今日この本を返却します)

    ・スカーフの少女が受ける街頭録音、この街頭録音はどこへいったのか。

    ・町の食堂の食品サンプルを見る男の子たち。

    ・敷物の上に座って商品を並べているオモチャ屋のおじさん、女の子たちもしゃがんで見ている。

     ・横の梁にまたがって窓ガラス拭きをする子どもたち。

     ・学校の体育館の床をぞうきんがけする子どもたち。

    ・雪の中を大きなかくまきを着て歩くこまち娘たち。

    > ・男の子のかぶっている帽子にゾウの耳のような大きいカバーがついている。
    これは、鶴田浩二などが特攻隊のパイロットになって乗るときかぶる帽子みたい。


    [No.163] Re: 私の昭和史 投稿者:男爵  投稿日:2013/11/28(Thu) 14:22
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    > > > 昭和18年に小学校に入学した。
    > > > 入学式には姉に連れて行ってもらった。 母は農作業が忙しくそれどころではなかった。

    小学校の高学年の生徒は、中学生と一緒になって
    勤労作業をしなければならなくなった。

    この著者の作業は、山からの木出し作業であった。
    太さ20センチ前後、長さ6メートルくらいの長木を両脇に抱えて運搬するのである。

    5キロもの山道、晩秋で薄氷がはっている。
    ぬかる道を、穴あき靴をはいての作業は大変苦しいことだった。

    この作業を行う生徒の行列の様子を思い出してみると悪夢だったのかと思われて感慨無量である。


    [No.162] Re: 雪国はなったらし風土記 投稿者:男爵  投稿日:2013/11/28(Thu) 13:56
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    > > > > 写真集「雪国はなったらし風土記」  無明舎出版編  1988
    > > >
    > > > > ちょっと写真を紹介しましょう。

    (明日この本を返却します)

    ・ツギハギだらけのダブダブのズボン。今はファッションだけど、当時は生活の必然だった。

    ・男の子のかぶっている帽子にゾウの耳のような大きいカバーがついている。

    ・紙芝居のおじさんの熱弁に聴き入る子どもたち。

     ・”カスリの着物””白いネルの前かけ”南方の島を守る兄の慰問袋に入れるため一家で写した写真。

     ・川の中の馬や牛のヒモを陸で持つ子どもは裸足。

    ・民家の前にござを敷いてママゴトをする女の子たち。


    [No.161] Re: 私の昭和史 投稿者:男爵  投稿日:2013/11/28(Thu) 13:04
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    > > 昭和18年に小学校に入学した。
    > > 入学式には姉に連れて行ってもらった。 母は農作業が忙しくそれどころではなかった。

    学校には疎開していた生徒が数人いた。
    私たちも食べ物に困ったが、疎開者はもっとひどく、学校へ弁当を持ってこられず
    いつもボンヤリして青白い顔をしていた。
    今でも、疎開してきた生徒のことが思い出される。

    いつかの正月、餅を学校へ持って行き、机に入れて置いたが
    それがなくなり騒いだことがあった。

    食糧難は厳しさを加え、白飯に増量材が利用された。
    大根、大豆、麦、山菜、海草等であるが、この増量材は糧(かて)と呼ばれ
    これを加えた糧飯を食べた。

    来る日も来る日も、夕飯は米粒無しである。

    小麦粉とカボチャのひっつみ(すいとん)を食べ続けた。
    それでも不思議と身体は丈夫だったように思う。

    小作百姓が多かったが、農家でも配給を受けなければ食べられなかった。
    農業生産力は今とは比較にならない程低かった。

    戦時は、学校のグランドが全部畑にされ、大根、ソバ、ジャガイモ等が栽培された。


    [No.160] Re: 私の昭和史 投稿者:男爵  投稿日:2013/11/28(Thu) 12:31
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    > 昭和18年に小学校に入学した。
    > 入学式には姉に連れて行ってもらった。 母は農作業が忙しくそれどころではなかった。
    >
    > 初めて学校に行った著者はびっくりして、なぜか泣いてしまった。
    > 自分の下駄箱と机を見つけるのがやっとだった。
    >
    > 自分の名前も書けず、読めずだったが
    > 当時はそういう子供はほかにもいた。

    いつかの朝、女の先生が遅刻して、学校の玄関で校長先生にさんざん叱られ
    泣いていたのを見た。
    女の先生も若かったが、当時は校長の権力は絶対だった、

    小学校五年生の頃、図工と小説のお話の得意な先生がいて大変面白かった。
    この先生が、いつかの朝、教室のストーブでハンゴウを使って白米を炊き
    サンマを焼いて、すごくうまそうに食べていたのを見た。
    うまそうにと思ったのは、著者の家でも米だけの白飯が食べられない時だったから。

    その頃、学校の暖房は全部ストーブで、薪を燃料にしていた。

    北海道では石炭ストーブだったが、やはりストーブでアルミの弁当箱を載せて
    暖めたりした。
    ちょうど津軽鉄道のストーブ列車でするめをあぶるようなものである。


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