硝煙の海 菊池 金雄
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投稿日時 2013/2/3 8:17
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
はじめに
スタッフより
この投稿(含・第二回以降の投稿)は
http://www.geocities.jp/kaneojp/
より作者様のご承諾を得て転載させて頂いております。
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作者自己紹介
氏 名: 菊池 金雄
趣 味: 謡、行政投書、インターネット
略 歴:
大正九年(一九二〇) 岩手県に生まれる
昭和十四年(一九三九) 無線電信講習所
(現電気通信大学)修了
十五年(一九四〇) 大同海運入社
二十六年(一九五一) 同社退社
同年 (一九五一) 海上保安庁入庁
五十六年(一九八一) 退職
五十九年(一九八四) 保護司委嘱
平成十二年(二〇〇〇) 退任
現在: 宮城県在住
いつの間にか八十歳を越え九十路に迫った。この平和な時代にふと自分の半生を省みると、戦前の平穏な北米、東南アジア航路体験から一転。悲惨な太平洋戦争下の戦火の海を挺身。スルー海で爆沈~必死に移乗した救命艇を米機に機銃掃射された苦い体験。
戦争末期の日号作戦中、北鮮でソ連参戦に遭遇。追撃するソ連雷撃機と必死に交戦。敵の弾雨を辛くもくぐり抜けた記憶が、時におぼろに、時に鮮烈に浮かび上がる。青い空、青い海、叩きつけるスコール。対敵潜、空爆、機雷源突破の薄氷の海。静かな波間、木っ端の上の鶏。すべてが一瞬で、すべてが永遠の時間。
本編でお名前をあげた方々やご遺族、ならびに関係船舶の消息につき、掲示板にご連絡いただければ幸いです。 特に巻末にある、 向日丸(むかひまる)に関わる尋ね人について、お心当たりの向きは、お知らせ下さるようお願い申し上げます。
平成二十一年
菊池金雄
編集者
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硝煙の海 菊池 金雄 写真集 1
荷役中の恵昭丸(昭和15年/名古屋港)
昭和16年元旦をボルネオ北部で迎えた恵昭丸乗組員、その1
前3列目左から久木原局長、原田機関長、○二運、○三運。
4列目門広一運、辻川一機、藤田電機士、著者、○四機、小野二機。
前1列3人目○三機。(中司船長撮影)
昭和16年元旦をボルネオ北部で迎えた恵昭丸乗組員、その2
恵昭丸にて折り詰め料理の前に座る門広チーフオフサー
北米から大平洋を上海に向け航行中の恵昭丸(昭和16年夏)
中司船長と久木原局長(昭和17年元旦東京港にて)
船員手帳
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硝煙の海 菊池 金雄 写真集 2
従軍唯一の証、暁第二九四〇部隊長から賜与(しよ)された木杯(昭和20年)
昭和20年暁第二九四〇部隊長から賜与(しよ)された
高和丸船上にて(昭和25年)著者
神戸からアルゼンチンのブエノスアイレスへ出帆直前の高栄丸訪船(昭和25年)
左から久木原通信長、山平機関長、著者、長嶋次席通信士
釜石入港の高和丸訪船(昭和28年)
左から田中船長(元向日丸[むかひまる]一航士)、○操機長、徳永通信長、内田一航士、著者
神戸無線会館、昭和20年(1945年)の戦災で焼失
高和丸の無線室(昭和25年)
最新型の無線機。当時としてはハイグレードなものであった。
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硝煙の海 菊池 金雄 写真集 3
高瑞丸 林局長(昭和17年) 関門海峡にて
恵昭丸の通信室(昭和14年)
日捲りカレンダーが9日を指している。
恵昭丸の機関室(昭和14年)
小野二等機関士。船底に近く位置しすさまじい騒音である。
高瑞丸 所有船主:高千穂商船、運航船会社:大同海運
貨物船の構造
当時の一般的な貨物船の構造(出典:堀木與三著「新訂 海事概要」成山堂書店)
編集者
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硝煙の海 菊池 金雄 写真集 4
高瑞丸新造記念巻煙草箱
昭和12年6月30日、高瑞丸新造記念として作成配布された巻莨(煙草)箱です。
大変貴重なものです。大きさの目安として箱の左下に五百円硬貨が置いてあります。
大同海運による高千穂商船設立と高瑞丸進水の経緯は「日本商船・船名考」に詳細があります。
(船好きのRF様に写真をご提供いただきました。大変感謝いたします。)
これは筆者が入手した絵葉書です。
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まえがき
居間の地球儀は、いつも西南太平洋を向いている。私はそこのある一点を注視することが多い。
「海」それは戦前~戦中~戦後十年間にわたり生死をかけた私の職場であった。
一九二〇年(大正九年)代生まれの青春は否応なく戦争の渦に巻き込まれた。私はたまたま船員なるが故に軍の召集は免除されたが、陸・海軍徴用船の乗組員として戦場に臨み、祖国のため挺身したことは軍人と何ら差がなかったと思っている。
つらつら思うに、過酷な戦火をくぐりぬけ今日生きているのは、奇跡としか言えようがない。
その悲惨な戦時体験については、船員仲間でもほとんど話題にすることもなく、みな忘れたように戦後の生活に追われていた。
私は昭和二十六年に海上保安庁に転職、三十年間勤め同五十六年に退職した。
その後時間的な余裕がでてきたので、昔日の記録を残しておきたい気持ちが徐々にわいてきた。
退職数年後に所用で上京の折り、元の船会社から当時の記録を入手しようと考え立ち寄ったところ、うかつにも土曜日で無駄だった。
以来雑事にかこつけ中断のまま今日に至ってしまった。
しかるところ相次ぐ同輩の訃報を耳にするにつけ、早急に自身の生きざまを遺言代わりに子孫に書き残すことを決意し、八十の手習いで自分史に挑戦してみた。
だが、手元には船員手帳二冊(他の一冊は海没)以外は何も記録がなく、図書館や合併した系列船会社にも求める資料がなく途方にくれるばかりだった。
そこで一縷の望をかけ全日本海員組合塩釜支部を訪れ事情を話したところ、書架の海事関係図書を快く見せてくれた。
その中に、昭和六十年出版の元東京商船大学学長、浅井栄資先生の「慟哭の海」があり、やっと探し求めた名著に出会い、むさぼるようにページを繰った。
内容は全五章からなり、武器なき海で日本商戦隊壊滅の実相を詳述した労作に感動しきりであった。
しかも先生は八十六才で出版されていることを知り、私も愚作えの意欲がでてきた。だが全くの白紙を前に、半世紀前の記憶を呼びもどすことは並大抵のことではなかった。
とにかく元船友から情報を聞きだしたり、OB会で出会った元上司から同航した海防艦名等貴重な資料のご提供いただき、辛うじて点と点をつなげることができた。
テーマは戦時体験にしぼりたかったが、禿筆のため戦前戦後の朧気な残像なども折り込んだ老船員のくりごとにすぎず冷汗三斗の思いである。
願わくば半世紀前にタイムスリップしてお読みいただければ幸いである。
編集者
居住地: メロウ倶楽部
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海事用語豆知識
船の大きさをあらわすトン数の区分
総トン数: 船の容積により算出したもの。
総トン数: 船の容積により算出したもの。
重量トン数: 船が積める貨物の総重量をあらわす。
排水量: 船が水に浮かんだ時、船体の重量によって排水(押しのけた)した重量を表す。主に軍艦に使われる。
船の速力
ノットで表される。一ノットの時速は一海里(1852メートル)である。
スピード比較例(時速/Km)
ボーイング747型機 910
新幹線のぞみ 270
乗用車 80
大形コンテナ船 43(約23ノット)
乗組員の職名/呼称例
船長 キャプテン
一等航海士 チーフオフィサー(旧職名=一等運転士)
機関長 チーフエンジニア
一等機関士 ファーストエンジニア
通信長 チーフオペレーター
(旧職名=主任通信士 通称=無線局長)
事務長 パーサー
トリム
船体の前と後ろへの傾斜を船首と船尾の喫水差で表したもの。
バラスト
空船のときの喫水を増やして船の安定を図るため船底に積載する重量物。通常海水を利用する。
付記
「われら海族」Webに詳しい解説がありますのでご参照ください。
編集者
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戦時用語集
船舶運営会
戦時海運管理令(昭和十七年三月二十五日公布)により、昭和十七年四月に設立された。 陸海軍及び官庁船を除く百総トン以上の汽船と一五〇トン以上の機帆船を一元的運営・船舶と乗組員の国家管理機関。
徴用船、扱い船の略称
A船 陸軍徴用船
B船 海軍徴用船
C船 船舶運営会扱い船
戦標船
戦時計画造船で急造された「戦時標準船」の略称。
暁部隊
陸軍船舶部隊の通称で、暁○○○○部隊と称した。
警戒隊
海軍船舶警戒隊の略称。船舶装備の対空、対潜兵器操作のため海軍船舶警戒部より派遣された。開戦当初隊長は下士官で隊員は十名足らずだったが、戦局後半の大型船には学卒の少尉が隊長で隊員は二十名位。中には機関科下士官兵若干名が機関部指導で派遣された船もあった。
船砲隊
陸軍船舶砲兵隊の略称。陸軍の徴用船装備の各種火器操作のため、陸軍船舶砲兵連隊から派遣の隊員。なかには警戒隊と混乗の船もあった。
警乗隊員の居住区
一般貨物船等には乗組員以外の居住設備が少ないため、隊員の居住区は適所に仮設したもので不自由を余儀なくした。
之字運動
戦時下の航海は絶えず敵の潜水艦からの雷撃に脅かされ、これを回避するため短時間毎にジグザグに針路を変化する航法(詳細下記Web参照)のこと。運航を司る航海部門にとっては厳重な見張り(早期雷跡発見)と共に、極めて心労大なるものがあった。
之字運動程式(日本海軍)Web
船団会報
船団会議のこと。船団編成の際、海軍側と各船幹部が参集して、船団の航路・航行隊形、速力・敵潜水艦対策等の指示を受ける会議。
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I 戦前の海
海外航路の恵昭丸[けいしょうまる]
フィリピンへ処女航海
無線通信士国家試験を目指し、二年余り東京に遊学して親にさんざん迷惑をかけていた私は、やっと昭和十四年十月、試験に合格することが出来た。
早速就職するため、東京の某無線機器メーカーの面接試験を受けたが失敗してしまった。
そこで芝浦の船舶通信士組合に就職の斡旋を依頼したところ、神戸の方が船会社からの求人が多いとの助言があったので昭和十五年一月下旬、生まれて初めて西下し、無線技師会館(船舶通信士組合の福利厚生施設、神戸無線会館)で待機していた。
幸い数日後の二十二日、神戸市に本社がある大同海運株式会社所属の貨物船、恵昭丸[けいしょうまる](五八〇〇総トン、乗組員五十二名)の次席通信士に採用が決まり、すぐ会社に出頭した。そしてちょうど業務連絡で来社中の同船二等運転士の案内で、尼崎港に停泊中の恵昭丸に無事乗船できた。
初航海はフィリピンのミンダナオ島で、ここからラワン材を搭載して清水港に帰港することになっていた。
荷役終了後直ちに出航。土佐沖では早々に船酔いに見舞われ、ボーイがパンに砂糖を添えてベットまで届けてくれたが食欲がなかった。
しかし当直時刻には勤務しなければならないので、いつのまにか船酔いは霧散した。
各科の先輩士官は新参者には親切だった。その中の一人から「なぜ船乗りになったか」と船内生活のむなしさを語りかけられたが、初体験のことばかりで、その真意など窺い知るすべもなかった。
時々、辻川一等機関士が、久木原無線局長と談笑していた。彼は船乗りを退職したら「大きな地球儀に、外国の寄港地をマークして往時を懐かしむ」と言っていたのは印象的だった。
この船の局長室は通信室の奥にあり、航海中尾崎船長が一升瓶を下げて局長室を訪ねることもあった。新米の私は直観的に「酒と船長像」を感じとったが、噂によれば、ご子息の非業の死から酒量が増えたと言う。その後まもなく中司(なかつかさ)船長と交代した。
局長から、通信室の無線信号がうるさいので、スピーカーでなくヘッドフォーンでの受信を命じられた。長時間(四時間)これを使うと耳が痛くなるので、バネを弱めようとしてバンドを折損してしまった。局長は私の苦痛を察したのか、怒らなかった。
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近づく椰子の島
船の南下とともに気温が上がり、夏服に衣替えするなど船内生活にも慣れてきた。
日本を発って数日後、椰子の繁る緑の島が近づき、やっと常夏の国にきた実感がわく。私は岩手の山国育ちであったので、海上から陸影を見るのは生まれて初めてで、その鮮烈な感動は今でも瞼に刻まれている。
思えば小学生のころ、夏休みに父に連れられて、五葉山(標高一三四一米)に登り、山頂から荘厳な御来光を拝み太平洋を遠望したのが、初めての海との出会いだった。
船はルソン島とミンダナオ島の間の多島海を航過して、セブ島に寄港。税関係官を乗せ、ミンダナオ島の積み込み地に回航した。
ラワン材は岸辺から丸太のまま、沖がかりの本船まで筏にして運び、船のデリックで吊り上げ、船倉に積み込んだ。
付近は山林だけで人家もなく、現地作業員は文化の香がする乗組員との物々交換がお目当てらしく、私に化粧品をねだるので石鹸一個渡したら、バナナひと房の返礼にびっくりした。