硝煙の海 菊池 金雄 9
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編集者
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I 戦前の海
海外航路の恵昭丸[けいしょうまる]
フィリピンへ処女航海
無線通信士国家試験を目指し、二年余り東京に遊学して親にさんざん迷惑をかけていた私は、やっと昭和十四年十月、試験に合格することが出来た。
早速就職するため、東京の某無線機器メーカーの面接試験を受けたが失敗してしまった。
そこで芝浦の船舶通信士組合に就職の斡旋を依頼したところ、神戸の方が船会社からの求人が多いとの助言があったので昭和十五年一月下旬、生まれて初めて西下し、無線技師会館(船舶通信士組合の福利厚生施設、神戸無線会館)で待機していた。
幸い数日後の二十二日、神戸市に本社がある大同海運株式会社所属の貨物船、恵昭丸[けいしょうまる](五八〇〇総トン、乗組員五十二名)の次席通信士に採用が決まり、すぐ会社に出頭した。そしてちょうど業務連絡で来社中の同船二等運転士の案内で、尼崎港に停泊中の恵昭丸に無事乗船できた。
初航海はフィリピンのミンダナオ島で、ここからラワン材を搭載して清水港に帰港することになっていた。
荷役終了後直ちに出航。土佐沖では早々に船酔いに見舞われ、ボーイがパンに砂糖を添えてベットまで届けてくれたが食欲がなかった。
しかし当直時刻には勤務しなければならないので、いつのまにか船酔いは霧散した。
各科の先輩士官は新参者には親切だった。その中の一人から「なぜ船乗りになったか」と船内生活のむなしさを語りかけられたが、初体験のことばかりで、その真意など窺い知るすべもなかった。
時々、辻川一等機関士が、久木原無線局長と談笑していた。彼は船乗りを退職したら「大きな地球儀に、外国の寄港地をマークして往時を懐かしむ」と言っていたのは印象的だった。
この船の局長室は通信室の奥にあり、航海中尾崎船長が一升瓶を下げて局長室を訪ねることもあった。新米の私は直観的に「酒と船長像」を感じとったが、噂によれば、ご子息の非業の死から酒量が増えたと言う。その後まもなく中司(なかつかさ)船長と交代した。
局長から、通信室の無線信号がうるさいので、スピーカーでなくヘッドフォーンでの受信を命じられた。長時間(四時間)これを使うと耳が痛くなるので、バネを弱めようとしてバンドを折損してしまった。局長は私の苦痛を察したのか、怒らなかった。