我が軍隊的自叙伝 緒方 惟隆
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- 我が軍隊的自叙伝 緒方 惟隆 21 (編集者, 2013/4/30 6:51)
- 我が軍隊的自叙伝 緒方 惟隆 22 (編集者, 2013/5/1 8:08)
- 我が軍隊的自叙伝 緒方 惟隆 23 (編集者, 2013/5/4 7:35)
- 我が軍隊的自叙伝 緒方 惟隆 24 (編集者, 2013/5/5 6:54)
編集者
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中隊長の章 3
八月六日。広島に「新型爆弾」が落ちて被害は甚大であるという。陸軍船舶練習部や山本旅館、富士見荘などもやられたのではないか。(事実、山本旅館のあった大手町は爆心地であったし、富士見荘もあまり離れていなかったので、共に被害にあった)。
八月九日。長崎が同じ「新型爆弾」で壊滅したという。本当かデマか私等には確かめるスベもなかった。もう此の頃は、制空権は完全に米軍に奪われ、B29は勿論のこと艦載機のグラマンまで、我物顔に飛び廻っていた。
私は熊本県の宇土半島の突端三角に船舶部隊があったので、そこへ舟艇受領に出張することになった。
「本職儀、舟艇受領ノ為三泊四日ノ予定ヲ以テ、熊本県三角二出張ス。云々」中隊日々命令に、一度は書いて見たかった「本職儀」を書いたが、これが最初にして最後の「本職儀」となった。
八月十三日朝唐津を出発。長崎本線の久保田駅で早速グラマンの機銃掃射を喰らった。あわてて列車を飛び降り機銃弾が跳ね上げる土煙の中を、傍らの防空壕に飛び込んだ。危うい処であった。その日は宇土半島の付根の長浜の旅館に一泊した。
旅館の二階に沢山の若い女の子がゴロゴロと寝ていた。聞いて見ると皆、前線へ行く慰安婦で、乗る船が無いので待機中ということであった。三階を私一人が占領して蚊帳を吊って寝ていたのだが、退屈しのぎに、二階の女の子を一人呼び込んで色々と話をしているうち、なる様になってしまった。
翌十四日。三角に着いて海岸に面した旅館に落ち着き、唐津から私の後を追って来る筈の部下を待った。正午前、下士官一名と兵隊二名が汗ダクで到着した。(実に残念ながら、この時来て呉れた三名の部下が誰々だったのか、未だに判らない)
「オー、よく来た。暑かったろう。皆服を脱いで褌一丁になれ」私も褌一つになって、これからの予定を打ち合わせているとき、空襲警報のサイレンが鳴った。私等は毎日のことなので「また定期便か」と知らん顔をしていた処、港に有った海軍の舟艇がグラマッを目がけて機関砲を撃つたらしい。あたれば良かったのだがあたらなかった。それでそのグラマンの奴が海軍の舟艇に向かって急降下銃撃をした。その異様な爆音に、私はすかさず「伏せろ。」と叫んで畳の上に突っ伏した。
間髪を入れず機銃弾が部屋の中に飛び込んで来て、壁土をパラパラ。と浴びせられた。爆音が過ぎ去って、周囲を見回して思わず吹き出してしまった。四人とも褌一つの姿で、一人は横の壁にへばりついていたし、他の二人は押入れの地袋に頭を突っ込んで、おまけに毛布をちゃんと被っていた。その格好が面白くて笑ったのだったが、後であの一瞬の間によく遮蔽物に身をひそめたものだと感心したことであった。その晩あまり暑いので旅館の前の浜で海水浴をした。あたり一面が真っ暗なので、一掻きすると体の廻りに、夜光虫がギラギラ″と光って気味が悪かった。早々に引き上げて、寝間に入ったが中々寝付かれない。フト過去を振り返って見た。幸い今日まで生命を保って来たけれど、それは色々な幸運が重なったからだと思ったので、その幸運の一つ一つを数え上げてみた。
編集者
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中隊長の章 4
一、先づ幹部候補生に合格したこと。
若し合格していなければ、「安」師団の捜索第五十三聯隊に所属し、ビルマに派遣されて戦死しているかも知れない。
一、 甲種幹部候補生五名中五番であったこと。
一、幹部候補生集合教育のため習志野の騎兵学校に派遣されたこと。
そのため捜索第五十三聯隊から補充隊に転属した。
一、騎兵学校から帰隊するときの序列が一番であったこと。
若し二番だったら、川口君と交代で航空通信に転属して戦死していたであろう。
一、陸軍船舶練習部での成績がビリかビリに近か、たこと。
若し成績が良かったら、とっくの昔にSB艇に乗船して戦死していたであろう。事実SB艇は殆ど沈められた。
一、三月十三日の大阪大空襲に、その日だけ大阪を離れていたこと。
若し当日大阪にいたら果たして無事であったかどうか。
一、 新部隊編成の為の釜山往復の航海が無事であったこと。
一、 広島の「新型爆弾」を逃れたこと。
一、 ソ聯が不可侵条約を破棄し、参戦して北朝鮮に侵入して来たが、一瞬早く内地に移動したこと。
一、 昨日の長崎本線久保田駅での機銃掃射に無事であったこと。
一、 今日の三角での機銃掃射も危うく逃れられたこと。
あれやこれやを考えたとき、私には幸運が付いている。恐らく今後もこの戦争で命を落とすことはあるまい。「いや、俺は絶対に死なんゾ」と妙な自信を待った。
その通り翌日には終戦となるのだが、前日の晩に死なないことを予見してその翌日だから拍子抜けしてしまった。
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終戦復員の章 1
翌八月十五日は、朝からイヤに静かであった。警戒警報も、空襲警報も鳴らない。船舶部隊へ行くと、正午に天皇陛下の放送があるので、全員営庭に集合するようにと達示があった。正午。船舶部隊の全員がラジオの前に集合した。初めて聞く陛下の玉音なので、一言も聞き洩らすまいと耳を傾けたものの、雑音がひどく全然聞き取れなかった。「時局が重大なので国民に対し奮起を促された」のではないかと思ったが、何か周囲の雰囲気が変なのである。どうも戦争が終わったらしいという声も聞こえる。何れにしてもハッキリしたことは唐津の部隊へ帰ったら判ることだ。兎も角、舟艇を受領する任務を帯びて出張して来ているのだから、一刻も早く任務を遂行して帰隊したかったので、混乱している部隊幹部の尻を叩いて舟艇を受け取った。しかし航海に必要な海図はないという。ない筈はないのだが、混乱の中でそれどころではないのであろう。
ままよ、適当に行こう。舟艇は十五噸位のポンポン船である。最初は私が舵輪を握り、宇土半島と大矢野島の間の海峡を北に進んだ。海峡を出てそのまま真っすぐに進めば、長崎県の島原半島に突き当たる筈だ。突き当たったら海岸線に沿って右へ廻れば有明海に入る筈だ。有明海に入ったら適当な港を見付けて接岸し、陸路を唐津まで帰れば良い。いい加減なものである。それでも筈だ、筈だがその通りになって、何処かの港に入港した。そして十六日に唐津に帰り着いたと思うのだが入港した港が何処だったのか、この辺りは全く記憶にない。
帰隊して見ると私達の部隊も混乱しているようであった。副官に聞き質すとやはり戦争は負けたらしいという。しばらくの間呆然自失の状態が続いた。どうすれば良いのか全く判断が付かない。敗戦なんて信じられるものか。我が大日本帝国に敗戦はない。戦えば必ず勝ち、攻むれば必ず取るのが帝国陸軍である。何かの間違いに違いない。確かに今は戦況は不利であるが、我が部隊はまだ一兵たりとも傷ついてはいない。現に我々はこうして本土決戦の為に、一意専心戦闘の準備をしているではないか。最後の勝利は絶対に我が軍にあると思ったが、心の空白は如何ともし難かった。
大隊長の香川大尉が第十六方面軍司令部から帰隊して中隊長集合となった。ここで初めて、天皇陛下の命令に依り戦争が終わったこと。我が大日本帝国が連合国のポツダム宣言を受諾したこと。つまり戦争に負けたこと等を知らされた。そして隊内に暴動などの起こらないように厳重に警戒すること。別命があるまで待機すること等を命令された。私は小隊長二名を呼び、大隊長命令をそのまま伝えて、改めて警戒を厳重にすることを命令した。(殊に百二十名以上の朝鮮籍の兵隊の取り扱いには注意すること)。中隊長室の椅子に腰を下ろした途端、ボロボロと涙が流れて、それからはもう涙が止まらない。
口惜しくて情けなくて腹が立ってどうしようもない。外へ出ると、やはり同じ気持ちなのであろう。材料廠長の城戸少尉や二、三名の将校連中が、目に一杯涙を溜めて、校舎と校舎の間に立っている桐の木を、軍刀で斬り倒している。私も仲間に加わって、この憤憑やる方ない気持ちを叩き付けた。その日と翌日は一日中泣き通し、切腹して死のうと思つたが(実際にその時切腹していれば、通常の精神状態ではないので、訳なく死ねた筈であるが…)しかし、私は中隊長の職にあったので、部下全員を無事復員させねばならない責任かあった。その責任を果たし、中隊全員の復員を見届けてからでも遅くはないと、踏みとどまったのである。その中、第二小隊長の草野傅曹長が吉田三成当番兵とともに、行方不明になってしまった。彼の行きそうな処を、八方探し廻。た結果、石川伍長と小林候補生の組が、熊本県の山奥の草野曹長の実家に、帰っていたのを見つけて連れて帰って来た。その理由は分からないが、草野曹長には重謹慎何日かを言い渡し、吉田当番兵には重営倉何日かを命じてこの件は決着した。(この逃亡事件は、私の記憶には全く無かったのだが、最近その関係者達から真相を知らされて、記憶を呼び戻したことである)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
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終戦復員の章 2
唐津の街に灯が戻り、朝鮮人部落のドンチャン騒ぎの嬌声が梢々下火になった頃、復員下令となった。
九月十六日。「軍令陸甲第一一六号二依り復員下令」
九月二十三日。「復員完結。同月同日。召集解除」
この頃から体に変調を覚えるようになった。立っいるのがしんどいのである。軍隊の食事がひどく高梁飯ばかりだったので、ロクに栄養が取れなかったせいであろう。栄養失調から黄疸になっていた。復員は別府から船で、瀬戸内海を尾道に上陸し、汽車で山科まで(京都に下車すると進駐軍にひっぱられるという噂があったので)帰ったがその間は寝っぱなしで山科の姉の嫁ぎ先へ転がり込むなり寝込んでしまった。一ヶ月程養生をしてようやく頭が上がるようになって、持ち帰ったものを調べると、梱包しておいた軍刀が見当たらない。次兄に買って貰った愛着のある軍刀だったので、山科駅に降りた時車内に置き忘れたのかも知れないと思って、国鉄の遺失物係に頼んで、方々探して貰ったが、遂に判らずじまいであった。
残念極まりない。
昭和五十年前後あたりから、深草の旧騎兵聯隊の戦友会(騎兵二十連合会)に出席するようになり、又最終の船舶部隊の戦友会(唐睦会)を組織したりして、会合には出来る限り出席している。又京都護国神社等で挙行される戦没者慰霊祭には必ず出席し、現在の平和が彼等戦没者の犠牲によって齎されたことに思いを致し、感謝の気持ちを新たにしている。
愚妻も、こと戦友会に関する限り、積極的に協力して呉れているので、有り難く感謝してその厚意に甘えている。
「我が軍隊的自叙伝」を終わるにあたって、武運つたなく戦陣に斃れられた先輩、同輩、後輩の各氏の霊に謹んで哀悼の意を表するものである。
広石一郎海軍少佐。湯川勇少佐。野田稔少佐。福山正通海軍少佐。広瀬敏博大尉。川口五郎中尉。横山義一少尉。
沢井常和曹長。山本定勝伍長。山室勝美伍長。津田武雄伍長。青地直彦伍長。河村道也伍長。遠塚誠治伍長。
乙坂峰龍伍長。鳥居善七伍長。中野喜代蔵伍長。永井隆一伍長。
山本旅館の親戚のおばさん。富士見荘の御夫婦。
ー完ー