日ソ海空戦秘録 菊池金雄
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投稿日時 2013/1/24 8:54
編集者
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はじめに
スタッフより
この投稿(含・第二回以降の投稿)は
「http://www.geocities.jp/kaneojp/03/0384.html」より作者様のご承諾を得て転載させて頂いております。
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日ソ海空戦秘録
―日号作戦下 商船隊の苦闘―
元大同海運(株) 向日丸通信長 菊池金雄
平成二十年十月二十六日
(於;同友会第39回総会;第34回物故者追悼法要)
まえがき
あの戦争が終わってから六十三年経ちました。私はたまたま戦時徴用船の一員として戦火の海をくぐりぬけ、九死一生で生き残ったひとりでもありますので、六年ほど前に八十の手習いで拙い戦争体験記「硝煙の海」を自費出版するとともに、併せてインターネットでも公開しています。
この秘録は終戦間際、突如ソ連機編隊から猛烈な爆撃に晒された北鮮の羅津港を必死に脱出した向日丸と、救援に駆けつけた海防艦とが、清津沖で追撃してきたソ連雷撃機編隊との激烈な海空戦闘を展開。護衛してくれた海防艦が被雷轟沈したため、向日丸が奇跡的に生き残こったので、該海防艦(第八十二号海防艦)の乗員を懸命に救出して、城津まで送り届けるという攻守逆転の戦記で、今回その生き残り代表者が同友会(大同海運㈱OB会)の物故者追悼法要に参列くださって、すでに亡くなった西船長以下の乗組員に「追悼のことば」を奉納するに当り、当時の戦局ならびに両艦船の軌跡を回顧してみるものです。
実は私はこの海防艦の艦名不詳のため色々探求した結果、呉の海軍墓地に同艦の慰霊碑があることと、毎年八月十日慰霊祭を催すとの情報に接し、平成十四年八月十日同艦有志とともに同慰霊碑に参拝し、武運拙く戦死された多くの同艦将兵に対し、鎮魂の意を奉げた経緯もありました。
日号作戦発動
昭和二十年六月二十八日、日本海ルートで大陸からの物資(主に大豆・豆かす・穀類・岩塩等)を 内地へ緊急輸送するために日号作戦が発令された。
日号作戦兵力
海軍
港湾と船舶護衛
飛行機 第901航空隊 130機 第903航空隊 66機
海防艦 62隻 その他20隻
駆逐艦 4隻
掃海兵力 26隊
陸軍
掃海兵力 21隊
飛行機 52機(夜間 12機)
高射砲 224門
照空灯 155基
(出典;公刊戦史叢書 海上護衛戦)
日号作戦の実態
この作戦は「特攻朝輸送」とも称された。当時の本土近海は敵の制圧下に入り、折しも米軍による機雷投下作戦 が同年三月から八月十四日にかけて行われ、B29爆撃機が約1500回出撃。関門海峡、周防灘、瀬戸内海、日本海側の重要港湾に計約1万2000個の機雷を投下したようで、その目的は大陸からの物資輸送を絶ち、日本軍の艦隊出動をも抑制することにあったようである。
したがって、この輸送の成否は本土の生活危機回生を左右するものであり、これが任務の商隊の大半は急造の戦時標準型船で、船員及び警乗の警戒隊(海軍)、船砲隊(陸軍)の責務が極めて大であった。
かくして八月九日、ソ連参戦によって朝鮮北東部各港で諸物資搭載中の大型商船隊は、ソ連機編隊からの猛烈な波状爆・雷撃に曝され、甚大な被害を蒙ったのである。(別紙、朝鮮北東岸海域戦没商船一覧参照)
羅津港周辺では本海空戦闘で、味方兵力が敵と対戦した形跡はほとんど目撃されず。商船隊だけが貧弱な装備火器で敵機と果敢に交戦したが、衆寡適せず次々と被弾~炎上~沈没~乗り組み兵員・船員の戦死傷者が続出し、悲惨極まりないものがあった。
他方、これら一連の戦闘経過は、間もなく終戦となり、ほとんど報道されなかったことは遺憾に耐えない。
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2A型戦標船 向日丸(むかひまる・6800トン)戦記要約
西豊船長以下七十名 警戒隊○海軍少尉以下二十名 海軍機関科下士官兵三名 陸軍通信連絡将校那和少尉 計九十四名乗組
当時、羅津港には十七隻の大型船が荷役中で、辛うじて脱出したのは三隻(向日丸、さまらん丸、辰春丸)だけである。向日丸は南鮮へ必死に避航中、清津沖付近で羅津脱出船救援に駆けつけた第八十二号海防艦と合流。追撃してきたソ連雷撃機編隊と両艦船で対海空戦闘中、該海防艦が不運にも被雷~轟沈。本船が同艦の生存者を懸命に救出するなど薄氷の海を突破して無事舞鶴に帰還した知られざる秘話を公開するものである。
本船は五月下旬岡山県玉野ドックから処女航海の途につき、バンカー(燃料石炭)積み込みのため福岡県若松に向かったが、当時瀬戸内海は米軍投下機雷のため、航路の掃海作業の指示待ちを繰り返し、先航船の触雷現場を再々目撃しながら無事若松に入港。バンカー搭載後の翌朝、離岸直前に時限機雷が爆発。危機一髪で本船は難をのがれる幸運にめぐまれ、幸先よく釜山に向かったのであるが、六連島沖を通過中、先航船数隻の触雷を目撃した。(親友長嶋保令氏が乗り組んだ僚船「白日丸」が同年六月十九日この海域で触雷沈没している)
「羅津港」ソ連軍爆撃機・雷撃機編隊の奇襲に曝される
釜山で高粱と大豆を搭載し、門司に帰港。門司から羅津に回航し、八月六日羅津に入港して大豆、高粱等の積み込み荷役を行っていた。夜間にはB29が港外に機雷投下作戦を行ったが、陸上は爆撃しなかった。ところが、八月八日午後十一時五十五分(この時刻は富士書苑「秘録・大東亜戦史 朝鮮編」12頁参照)突如ソ連爆撃機編隊の奇襲で在港船団が空爆の標的となり、最悪の戦禍に巻き込まれ、翌九日にかけ終日波状爆撃が続行されたが、所在味方部隊からの反撃や、港外への避難指令も無く、まさか軍に無断で脱出することもできず、警乗の警戒隊員・船砲隊員が必死に応戦するのが精一杯で、在港船隊が次々と被弾~炎上~沈没等悲惨な修羅場となり、警乗隊員や船員の負傷者が続出しため近傍の病院に次々と搬送された。
小野三席通信士証言 欠員となった隊員支援のため若手船員が機銃弾運びをしたが、当時船員には防弾ヘルメットの配分も無く、船員達は素手で弾雨下を挺身していた。
野口甲板員(当時15歳)の証言 敵は雷撃機も混じり、その一発は向日丸の船尾側に接岸中の船に命中して浸水~沈没(着底)。次の魚雷は向日丸と、この船の間の岸壁に当たり爆発。岸壁部材が向日丸船尾の十五センチ短砲に落下、同砲が使用不能となった
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西船長・小川通信士緊急入院
船橋で陣頭指揮中の西豊船長(当時六十歳)は激しい空爆を避けるため船橋の下部通路で船員数人と避難していたとき、後部から飛来の弾片で頚部を負傷し「駄目だ 駄目だ」と叫びながら急遽、埠頭近傍の満鉄病院に搬送されるなど、自船被弾が必死となったので、船室で病臥中の小川次席通信士も急遽、小野三席通信士が付き添って同病院に緊急入院させ、安全策をとった。
彼は門司から羅津に回航途次、喀血したため船務を免除して自室で静養させ、帰国次第交代することになっていた。(発病時、同室の小野通信士が洗面器で喀血を受たり、汚れた衣服を洗う等、甲斐甲斐しく介護したことを最近になって聞き取った)また、当時本船には船医不在であった。
敵機編隊の波状爆撃は夜間も続いたので、本船の各科長が船長不在後の保船策を協議し、各科長・警戒隊・保船要員以外の乗組員を陸上に退避させ、犠牲者の抑止策を図った。ところが埠頭付近の防空壕に避難した乗組員の証言によると、暁部隊の兵員がいちはやく防空壕に避難していて、空爆に曝されている商船隊に対する緊急避難措置放置と、戦意欠如に唖然たるものがあったという。
名和陸軍少尉・野口甲板員の証言 午後八時頃の空爆のときサーチライトが敵機を補足。豆粒のような爆弾がパラパラと本船方向に落下してきた。その一発が目前の岸壁倉庫に命中、大音と同時に甲板に火の粉が降りそそぎ、倉庫保管の大豆が火炎に包まれ猛火となり、向日丸の甲板部員が船から懸命に放水して鎮火させた。なお当日の本船警戒隊の戦果は敵機一機撃墜であった。
須永機関員の証言 機関部員への避難伝達が遅れたため、何処の防空壕も兵隊が満員で断られ、止むを得ず同僚と二人で防空壕より上方の山の中腹で野宿を余儀なくし、眼下の悲惨な埠頭の空爆を望見しながら仮眠。翌朝、海軍兵の呼集をうけ、タラップ(舷梯)揚収寸前の本船に戻った。
羅津脱出
一夜、幸い致命的な被弾もなく、無線設備も正常で、十日早朝になって、やっと軍から南鮮への避航指令があり、急遽、田中晴一 一等航海士が入院中の西船長の復船を求め、頸部を応急治療した船長が陣頭指揮をとり、午前六時ころ全員在船を確認のうえ離岸作業を開始するも、船尾側の沈没船が邪魔で難儀したが、老練な西船長は見事な後進操作で離岸に成功。多数の沈没船をかきわけ微速で港外へ向かう。
須永機関員の証言 その直後・・・直近の船が触雷(船名不詳)・・・本船はその横をスローで過ぎるとき、該船の船員達が手旗信号または大声で「貴船の安全航海を祈る」と涙して手を振り・・・我々も「皆さん無事帰られんことを祈る」と答えた。
七時半頃やっと港口にさしかかったとき、三機編隊のソ連機が急降下して本船に爆弾を投下。向日丸の反撃を恐れ、すぐ港外に飛び去った。この爆撃現場を見ていた 那和陸軍少尉の証言「着弾地点は本船より四~五十メートル前方に集中したのは、敵機は船速を誤算したからと思う。本船はまだ微速だったのが幸いしたようだった。」
彼は官立無線校(現電気通信大学)出の予備士官で、暁部隊から通信連絡将校として派遣されていたが、小川次席通士が入院のため弱体した通信科を自ら支援。急迫場面で的確に即応した決断を評価したい。同少尉の後日談・・・若し上官に知れたら懲罰だった、とのこと。
かくして本船は首尾よく空爆や触雷にも遭わず、濛々たる火炎の羅津港を後にした。港外には味方艦船は見えず、敵潜の魚雷回避のため、之字運動しながら極力接岸コースをとり、ひたすら南鮮へと全速で逃れた。
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那和陸軍少尉の証言
十日十二時半頃、朝食抜きで腹ぺこ、もう敵機も来ないと見て昼食とる。平素高粱入りのご飯だが今日は白米にする。午後一時頃になって機関故障のため船底がザザザザと砂地に乗り上げたような音がして座礁してしまった。錨を降ろしてこれ以上岸の方へ流されない様にして機関部員が必死に修理に当る。この間、海防艦一隻が沖を南下しているのを見て救難信号を送るも無視してそのまま通過、やがて地平線の彼方に消える。甲板には家財道具らしき物を積んでいるのが見えた。
次に北上して来た第八十二号海防艦が近寄り、ロープで本船を引っ張ったが動かず、満潮を待って、やっとエンジンが復旧。午後三時頃船が少しずつ動き出し、海防艦がやっと本船を沖の方へ曳航して航行が可能となった。同艦の任務は羅津脱出船の護衛で、本船が最後の脱出船であることを確認の上、本船の護衛体制に入り、南方への沿岸航行を再開した。(私は、この時間帯は終夜の激務のため仮眠中で記憶欠落)
第八十二号海防艦被雷~轟沈
正直なところ、私は「若し本船がやられても、同航の海防艦が救助してくれる」との安心感が去来した。ところが、清津沖付近に達したとき、ソ連雷撃機編隊が追撃してきたので、両艦船で激しく海、空戦闘を展開。本船は敵機二機撃墜したが、同海防艦が敵機三機撃墜後、不運にも、あっという間に被弾轟沈したため、向日丸が生存者を救出するなど波乱万丈な避航を余儀なくした。
那和陸軍少尉の海防艦轟沈目撃証言
午後四時頃ソ連雷撃機九機の空襲があり、私はこの生々しい戦闘を甲板で終始観察していたので、今でもはっきり脳裏に焼きついている。
敵の指揮官機が海上に煙幕を張って 横一列に並んで飛んでくる雷撃機編隊が一瞬見えなくなったと思うと その煙幕の中から出た雷撃機は すでに魚雷を発射した後で、向日丸のマストをかすめるように 陸地の方向に飛び去って行った。 間もなくドカンという音がして 目の前の海防艦が轟沈。 その様は 70~80メートルもあるかと思うほどの水柱が上がって 一瞬、艦が見えなくなり
水柱が滝のように落下した後には艦首を上にして垂直に立った艦の姿が現れ、ぐんぐんと海に没した。(この場面は那和少尉イラスト参照)艦影が見えなくなると同時に脳裏にはしったものは 間もなく向日丸も同じ運命を辿るとの思いだった。 ところが海岸のほうで魚雷の爆発するのが3箇所位見えたが、向日丸の船底をくぐり抜たり 当たり外れたものかと思った。何故かと考えたら、向日丸はソ連機の来襲で、積荷を中断のまま緊急出港したため喫水が浅いのが幸いしたのではなかったかと思う。
(私菊池は、この時間帯は通信室での当直中で、敵機との交戦場面は見ていないが、船橋から終始対戦状況や、海防艦の轟沈情報も入手し、内心被弾時の脱出を考えていたが、被弾のショックが無いので再三船橋に状況確認結果・・・敵機の退散情報もキャッチしていた)
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第八十二号海防艦生存者救出ドラマ
向日丸 野口甲板員・須永機関員の証言
向日丸はカッターと伝馬船で救助活動をおこない、野口甲板員は伝馬船で一人ひとり救助・・・その中に長髪者がいたので、てっきり敵兵と思って接近したら「おれは艦長だ・・・負傷した部下から先に救出してくれ」とのことで、非常に感銘をうけたという。
須永機関員はカッターで救助作業を行い。泳いでいる兵隊たちは重油の油膜で目が痛いと、しきりに訴えていたという。
第八十二号海防艦 森武艦長(海軍少佐 神戸高等商船卒)手記抜粋
向日丸に上がろうとしても、自力ではどうしても上がれない・・・本船の乗組員に引っ張りあげてもらって、やっとタラップに立った・・・どうやら甲板まで上がったものの、もう一歩も足が動かない。甲板のあちこちに助かった部下が居るので、そちらに行こうと思っても全然歩けない・・・私はデッキに尻をついた。
空も次第に暮れなずみ辺りが次第に見えなくなってきた・・・私が助かったことを知り、兵隊が迎えにきたので、彼らに両肩をかかえられながら、皆が集まって暖をとっている後部の缶室の上に行ったら、間もなく向日丸の船長から迎えが来たので私は船橋に赴き、船長に厚く礼を述べた。同船の船長は非常にご老体で(当時六十歳)、首に巻いた包帯には血がにじんでいた。(向日丸の西豊船長は九日ソ連機空爆下、弾片で頸部負傷のため入院中であったが、自船出港のため復船して指揮をとっていた)
この老船長は私に向かって「艦長! 貴方は向日丸の犠牲になってやられたので、艦長の納得がゆくまで生存者の救助をします・・・見ていてください」と船員を督励し、伝馬船とカッターで懸命に救出作業を続行・・・やがて視界内に一人の生存者も見当たらなくなった・・・吾々一同向日丸幹部に感謝の意を表したのであった。 午後八時半、先任将校の調査で、本艦乗組員215名中、生存者は98名で、戦死者は117名と確認された。
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両艦船幹部で事後のことを協議
私は向日丸船長に「多数の負傷者を一刻も早く最寄りの港で手当てを受けさせたい」と述べたら、船長は「本船は船速も遅いし、明日になれば又もや敵機に襲われるだろう。昼間の航海はとても無理だから、一応城津に寄港して貴艦生存者を揚陸させ、夜間航海で元山に行きたい」と、意見が一致した。
また、臨席した向日丸側士官の証言によれば、森艦長から「何か要望でもあれば申し出てほしい」と提案があったので「本船は敵機三機撃墜したので証明を求めた」ら、すぐ応諾したとのことである。(向日丸はソ連雷撃機の追撃時には機銃の残弾を撃ち尽くして、二機を撃墜したので合計三機撃墜の戦果を挙げ、船橋前に撃墜マークを掲げたが、終戦となり何らの恩賞も無かったのは無念であった)
(サロンでの両艦船幹部会合には小職菊池も参加している)
船団で元山から舞鶴へ
かくして向日丸は十一日未明城津に寄港し、海防艦の生存者を下船させ、直ちに元山まで南下。ここから残存船団で舞鶴に帰還したのは終戦二日後の八月十七日であった。
須永機関員証言 元山出港の際機関が故障したため漂流・・・岩盤にプロペラが接触・・・幸い満潮で離礁し、間もなく機関が復旧したので船団に追いつき、舞鶴向け航海中の八月十五日正午、戦争終結の放送を聞く。八月十六日舞鶴港外の伊根沖で仮泊。翌十七日の正午頃?舞鶴港に向かう。後方から辰馬汽船の辰春丸が本船を追い越して先に入港するので、本船はその後につく。ところが港の入り口付近でドーンと辰春丸が触雷、停止して蒸気を噴出・・・本船はその横をスローにて通過し、無事舞鶴に入港した。
なお、港口より少し入った左側に偽装の軍艦(事後、新造軽巡「酒匂[さかわ]」と判明)が隠れているのを目撃した。
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向日丸船長・警戒隊の功績
この、奇跡的向日丸の生還劇は、自身の戦傷にもひるまず、敢然と敵と対戦し、自船を守り通した西豊船長の闘魂を讃えたい。(船長が負傷したとき、私も船長の左隣にいて“駄目だ 駄目だ”を耳にしたが、その真意を考察すると、「船が接岸のままでは被弾必死なので離岸しないと駄目だ」、と解すべきで、その背景は、「船長が事前に軍の事務所に離岸許可方の伝令を出したが事務所が空っぽで」、止むを得ず着岸を余儀なくしていたからである。
また、警戒隊員の犠牲者数は不詳であるが、十名ちかい戦傷者があったと思う。向日丸防護に勇戦した隊員各位に深謝の念大であった。
向日丸戦死傷者
向日丸乗組員には船長以外に戦傷者が無かったものの、羅津で入院させた小川肇次席通信士は、事後の調査によると八月十日羅津で戦没していたことが確認され、誠に慙愧にたえないものがある。それは、あの苛烈な空爆下での最善の選択が、結果的に仇になったことについて自責の念に堪えないものがあったが、かねてインターネットで、当時羅津の中学生であったF氏から、羅津埠頭近傍の病院は羅津満鉄病院であることと、同病院の元看護師Kさんが仙台近郊に住まいしているとの情報を得ていたので、平成十八年九月せんだいメディアテーク(仙台市)で開催された「戦時徴用船遭難の記録画展」会場でKさんと初対面して、往時の同病院入院患者の動向などを聴取した要点は以下のとおりであった。
「八月十日の状況は、ソ連機が埠頭に接岸中の商船隊を集中爆撃していて、病院には来襲がないので戦死するような場面はなかった。当時、負傷した兵士・船員が相次いで病院に搬入され、これが対応に忙殺のため地元入院患者を退院させ、残留一般患者の診察までは手がまわらなかった。小川さんは一度船内で喀血した患者のようであるが、症状から推察すると再喀血などで亡くなられたのではないでしょうか。十一日には暁部隊から看護師にも避難勧告があったが、患者を介護するのが職務であるからと拒否したが、軍命をたてに、追い立てられるように最小限の見回り品とおにぎり二個だけ携行して、夕刻病院を出発。徒歩で満州方向に、筆舌に尽くしがたい逃避行を余儀なくした。」
以上の聞き取りから、当時の空爆下での緊急避難入院先病院内の様子を確認。彼は戦死ではなく戦病死と推定され、若し船に連れ戻しても同様の事態に至ったかとも思量されるところでもある。
他面、彼の乗船経緯については、つまびらかでないが、何故このような羅病者を乗船させたのか、往時の通信科責任者として、配乗部門への疑念を払拭できないものがある。
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あとがき
この秘録は、平成十四年に上梓した拙著「硝煙の海」と、事後インターネットなどで入手した情報の要約で、当時大同海運㈱には自社船の戦時記録は単なる一覧表だけのため、向日丸と関わった海防艦の艦名なども判らず、様々探索の結果、第八十二号艦と判明。しかも森武艦長が、かつて私が勤めた海上保安庁の要職歴の方とのことで、八方追跡してみましたが残念ながら平成四年に物故なされて対面が叶いませんでした。ところが同艦長の手記「葉隠れに生きる」を同艦生き残りの横見さんから拝借して、拙著の一部を補完することができたことは感謝に堪えません。
向日丸がなぜ再三雷撃されながら被弾しなかったのか疑問でしたが、那和少尉や本船甲板部員ならびに海防艦生存将兵の証言によると、敵機の魚雷は船底を素通りして陸岸で爆発したとのことで、これは積荷作業半ばで脱出したために、本船の喫水が浅かったのが幸いしたためと推察されます。
特記したいことは、粗製乱造戦標船のエンジントラブルには辟易たるものがあったことです。
舞鶴入港直前、新造の軽巡洋艦(酒匂)が左方岸辺に偽装して隠れていた現場を目撃していますが、命からがら帰還した商船側としては疑念少なからざるものがありました。
後年、親友に同艦乗員がいたので事情を聞き取ったところ、燃料不足で戦列を離れ、舞鶴湾佐波賀に接岸して、艦全体をネットで覆い、その上に山から成木を伐採してカムフラージしていて、幸い敵機に発見されなかったとのことでした。
また、向日丸を追い越した辰春丸触雷現場にも遭遇。辰春丸は在来の優秀船で速力が速やかったので触雷に遭ったものと考えられます。
若し向日丸が先なら・・・と思うと、最後まで強運の船であったことを記録にとどめたいと思います。
本手記の所々でふれていますが、当時、各港湾周辺は米軍投下機雷が散在していて、薄氷の海そのもので、舞鶴湾周辺でも、入港船は伊根沖で機雷掃海待ちを余儀なくしていました。
実は、事後、羅津で乗組員一名が本船に乗り遅れていたことが判明。私が向日丸在任中本人から聞き取った要旨は「避難民と一緒に陸路南鮮方向へ必死に徒歩で逃げ、一度元山でソ連軍に捕まったが、収容所裏門から首尾よく脱走して釜山経由で帰国できた。」とのことでした。
追記
①本稿に貴重な証言をいただいた次の船友が相次ぎ物故なされたことは痛恨に耐えず、謹んでご冥福を念じます。
元陸軍通信連絡将校 那和正夫陸軍少尉 平成十六年十二月十三日
元甲板員 野口留蔵 平成十九年二月二十日
元機関員 須永政司 平成二十年三月
元三席通信士 小野明 平成二十年十一月十五日
②この向日丸関係の戦記は上記文庫本の第六章に収録され、平成二十一年一月発売されます。
土井全二郎著「戦時船員たちの墓場」 出版社;光人社NF文庫
引用WEB「硝煙の海」URL http://www.geocities.jp/kaneojp/ (戦没船・脱出船戦記を含む)
参考資料WEB「朝鮮北東岸海域戦没商船一覧
http://www.geocities.jp/kaneojp/03/032410.html