「描き残したい昭和(新見 睦)」から 社会 1 面白い大道行商人
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- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 社会 11 火の見やぐらの消防士 (編集者, 2016/5/13 9:53)
- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 社会 12 銭湯 (編集者, 2016/5/14 6:48)
- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 社会 13 バナナの叩き売り (編集者, 2016/5/15 6:32)
- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 社会 14 山手通り 車を飽かずながめる (編集者, 2016/5/20 6:53)
- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 社会 15 超満員の西武電車 (編集者, 2016/5/21 6:55)
- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 社会 16 羅宇屋、昭和の名残 (編集者, 2016/5/22 6:25)
- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 社会 17 おばけ煙突の変化(へんげ)」 (編集者, 2016/5/24 6:12)
- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 社会 18 ドカーン、爆発おじさん (編集者, 2016/5/25 8:40)
- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 社会 19 “キューポラのある街”川口 (編集者, 2016/5/26 6:37)
- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 社会 20 鋳掛屋さんが来た (編集者, 2016/5/27 8:40)
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「火の見やぐらの消防士」 1953年
墨田区向島消防署の火の見やぐらに消防士が立つ。東西南北にそれぞれの方角を10秒監視して、規則正しく鐘楼を回り続ける。火事はないか、異常な煙はないか。火災報知機も電話も普及していない時代、火事の発見は唯一火の見やぐらが頼りだった。真面目な消防士の動作を飽きず眺めていた。高いビルで囲まれると火の見やぐらはその役を退いた。
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「銭湯の大正湯は刺青のお兄さんでいっぱい」 1952年
「ちょっとにいちゃん、背中流してくれ」。頼まれてしまう。墨田区寺島町五丁目大正通りの大正湯は、とび職、大工、左官屋さんなど日が暮れると仕事が終わる職人さんたちがやってくる。刺青をしたお兄さんたちが多い。刺青をしていてもよく働く人たち。とびきり熱い湯が大好き。「旅イイ行けばアア駿河の国のオ茶の香りイイ」気持ちよく浪曲森の石松を唸るおじさん。一日の出来事を語るおじいさん。下町の銭湯は楽しい社交場でした。
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「バナナの叩き売り、手練の口上」 1954年
椎名町駅前商店街。「エーイ、今日は特別記念日だ、500円!」威勢のいいお兄さんが枹で台を叩く。叩き売りの真骨頂は、客の心をくすぐること。客との暗黙の駆け引きがとてもおもしろい。左手は新聞紙にかかる。ぐるりと見廻す。「じゃ、いってしまおう、300円!」「おやー?きょうの客はシケてるなア」 このころのバナナは高級品だった。当時の物価はモリ・カケそばが18円、きつねうどんが30円、たばこの憩が40円、新生30円の時代だった。300円はとても高いものだったが、誰か後ろのほうから声がかかる。
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「山手通り 車を飽かずながめる」 1955年
描き残したい昭和 「山手通り 車を飽かずながめる」
昭和30年(1955年)西武池袋線の椎名町駅上を通る環状6号線山手通り。最新型の自動車が通る。眞和中学校の二年生だった僕らは、学校が終わると、車の好きな仲間と一緒に下校、ちょっと寄り道してこの山手通りの陸橋に登る。知っている車、好きな車が来ると得意になって自慢する。絵に描いたのはトヨペットクラウンRS20、ダットサン112、キャディラック60SP、日産オースチンA40、日野コンテッサPC20などです。自動車は一般人には到底手の届かないものだった。私の知る限り、当時同級生では電気屋の家だけがクラウンを持っていた。車の魅力はうまく説明ができない。その全部が魅力だった。まず、恰好。走りっぷり。顔の形とその表情。色。そしてその匂いまでも好きだった。車はその後次々と新しいものが現れる。トヨペットクラウンや日産セドリックの改良型、日野ルノー、外車のシボレー、ダッチ、ナッシュ。中学生の夢でした。
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「超満員の西武電車」 1956年
満員電車描き残したい昭和「超満員の西武電車」昭和31年(1956年)到着した電車は超満員。一両目の扉は開かない。無理に開くと人が飛び出してくる。次は終点の池袋。各駅停車の最後の駅、椎名町の朝のラッシュアワー。ジリジリジリ。けたたましく鳴る発車のベル。「次にしてくださーい」駅員は悲痛な叫び。それでも汗だくで押し込む。今はどうなっているのでしょう。
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「羅宇屋、昭和の名残」 1954年
子どもらはラオ屋と呼んでいた。小型のボイラを車に積んで「ピイー」と蒸気で汽笛を鳴らし、「ラオイー・ラオイー」と客を呼んでいた。キセルの吸い口と雁首をつなぐ竹の「やに」を、蒸気を使って取ったり、交換したりすることを生業とする掃除屋で、羅宇はラオスの黒竹を使ったことが語源となった。紺の装束、頭には菅笠をかぶり、黒の股引に地下足袋といういでたち。このころはまだキセルを使って刻みタバコを吸う人が多かった。しかしキセルはやがて廃れ、羅宇屋も廃業に追いやられた。わたしは「この羅宇屋っていったい何をするのだろう」と不思議でなりませんでした。
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おばけ煙突の変化(へんげ) 1963年
「おばけ煙突の変化(へんげ)」昭和38年(1963年)
山手線日暮里から常磐線で学校に通った私は、毎日この変化を見ていた。きまってそうなるとわかっていても、煙突が重なって一本になると喜んだ。煙突の周りを三河島ー南千住ー北千住と、円を描くように電車は走った。東電千住火力発電所は石炭を焚いた。大正15年創業の、名物4本煙突です。4本の煙突は見る角度で2本、3本、1本、4本と刻々と変わる。人はこれをお化け煙突と呼んだ。周りに遮るものはないので遠くからも煙突を眺めることができた。昭和39年(1964年)東京オリンピックの年、その役目を終えて取り壊され東京の名所は消えた。
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「ドカーン、爆発おじさん」 1953年
高木保幸さんからいただいた思い出話を絵にしました。
いつ爆発するか。胸高鳴る子供らは、耳を抑えてその時を待つ。銘々が持ってきたトウモロコシやお米を手回し式の回転加熱機に入れる。フイゴが手回しになっていて、同時に容器を回転させる仕組みになっていた。5、6分も加熱し続けた後、フタの留め金に鉄製の棒を差し込み、てこの原理でロックを外すと、爆ぜたコーンが生きよいよく飛び出してくる。「ドカーン」耳をつんざく大きな爆発音。ポップコーン、米はざしの出来上がり。
それを金盥(だらい)に移して手回し中、本体上部に乗せてあった溶けたザラメを糸のように細く垂らしながらからませ、甘いお菓子に仕上げた。私の町にも「おじさん」が来ました。「爆弾あられ」と呼んでいましたが、「爆発おじさん」がぴったりです。
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“キューポラのある街”川口 1959年
昭和34年、日活映画浜田光夫と吉永小百合の“キューポラのある街”川口。同じころ私は川口でアルバイトをしていた。埼玉県川口市には鋳物工場のキューポラの煙突が立ち並んでいた。インゴットという銑鉄の塊がトラックで運ばれる。手押し車でそのインゴットを溶銑炉の上まで運び上げる。日当350円のアルバイトだった。真っ赤に煮えたぎる溶銑炉にインゴットを投げ込んで溶かす。中は1800度の温度。上から見るとおそろしい。係りの人が言う。「人が落ちるといい鉄ができるんだよ」「エーッ」びっくり。
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鋳掛屋さんが来た 1951年
描き残したい昭和「鋳掛屋さんが来た」 昭和26年(1951年)
「ハサッミー トギヤーイ イカケヤーイ」という売り声。椎名町商店街に響く。
鍋ややかんの底に穴が開いて困っていた人、持って出てくる。鋳掛屋さんが来るのを待っていた。アセチレンガスの炎を吹き付けてハンダや銅板を溶かし、穴の開いたところに溶接する。
モノが大切な時代、修理して使えるだけ使った。鋳掛屋さんはみんなからありがたがられた。また鋳掛屋さんはついでに挟みや庖丁を研いで呉れもした。