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思い出の釜山府外史:飲食品と飲食店-2(米田)

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あんみつ姫

通常 思い出の釜山府外史:飲食品と飲食店-2(米田)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/4/19 8:39
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
続きです。
*************
当時、食事の中心は米の飯で、米一升の値段は40~50銭位と記憶している。
米屋の店先では現地の女性がガラス台の上に散らかされた米粒を目で見て指先で選別する《=ごみやくず米を除く作業》光景が見えた。朝鮮米の相当量が内地に移出されていて之《これ》を一時保管する倉庫が釜山桟橋《さんばし》の北方海岸に林立していた。

醤油《しょうゆ》、味噌《みそ》を造る店が各所にあった。西町には山本、有永、富平町には山根などの店があった。釜工《=釜山工業(学校)》の小林君の実家も富平町で醤油を造っていた。

釜山は今も水産物が豊富なところである。魚屋、野菜屋、果物屋は概ね市場の中にあった。それらの物売りが品物を頭にのせたり、車に積んで頻繁《ひんぱん》に町中に巡り各家庭に声をかけていた。

明太子《めんたいこ》をよく食べた。大庁通りに樋口明太屋という有名な専門店があった。

牧の島の周辺では済州島から来た海女が貝類や海鼠《なまこ》、雲丹《うに》などを採っていた。海面から水面に上がった時、独特の口笛を吹くのを耳で聞いた。海女は獲物を直接家庭に売り込んでいた。

玄界灘には鱶《ふか》が多い。そのヒレを道端で干していた。これは支那《=中国》の各地区に輸出するという話しであった。

戦争末期になると、鮫《さめ》や鯨の肉が食卓に上がるようになったがアンモニアの様な刺激的な匂いがして旨くなかった。

当時、野菜や果物の殆どは内地並に自給されて居たと思っていたが、戦後の内地の各地で彼の地に無かった多種類の野菜を食味する事ができた。

果樹園は釜山近郊にも多少あったが亀浦駅対岸の金海平野には内地人《日本人》農家が経営する大型果樹園が多数あり、ブドー、梨《なし》、水密桃《すいみつとう》、林檎《りんご》などを栽培していた。

小学五年の修学旅行で大邱に行き、広大な林檎園で一本の木に1000個の実を付けていると聞き、目を見張った。

当時、我々が最も好きだった果物はバナナであった。果物屋ではバナナは少し高い所に陳列してパインアップルとメロンは更に高い所にある。

缶詰の甘いパイ缶は時々食べたが生のパインアップルを口にした記憶がない。
戦争末期、台湾からの生のバナナが途絶、代りに黒い乾燥バナナが登場、店先を賑《にぎ》わした。


              ― 続く ―



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あんみつ姫

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