思い出の釜山府外史:飲食品と飲食店-4(米田)
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思い出の釜山府外史:飲食品と飲食店-1(米田) (あんみつ姫, 2004/4/17 14:48)
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思い出の釜山府外史:飲食品と飲食店-2(米田) (あんみつ姫, 2004/4/19 8:39)
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思い出の釜山府外史:飲食品と飲食店-3(米田) (あんみつ姫, 2004/4/19 15:38)
- 思い出の釜山府外史:飲食品と飲食店-4(米田) (あんみつ姫, 2004/4/20 23:04)
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思い出の釜山府外史:飲食品と飲食店-3(米田) (あんみつ姫, 2004/4/19 15:38)
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思い出の釜山府外史:飲食品と飲食店-2(米田) (あんみつ姫, 2004/4/19 8:39)
あんみつ姫
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 485
続きです
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子供の小遣いで買える駄菓子屋の一銭単位のもの《=値の安い菓子》を現地の行商人が持ってくる。綿菓子、カラメル朝鮮飴などで朝鮮飴はネンガミさんが担ぐ二段造りの細長い木箱の上段に入っていた。
飴は空瓶、布切れ、鉄くずなどでも交換してくれた。これらのものは木箱の上段に収めて持ち帰った。ネンガミは大きな鋏《はさみ》をガチャガチャ鳴らして客を寄せていた。
冨平町の日韓市場は南側が内地人、北側が現地人と別れていて、夫々《それぞれ》住宅付きの店とそれに挟《はさ》まれた屋台の店で構成されていた。
内地人《=日本人》側では各種食品の他、雑貨、洋品、下駄《げた》などの店があった。現地人《=韓国人》も同様で種々の食材、キムチ、チマチョゴリの店に加え、マッカリを売るスリチビが何軒かあった。
此処《ここ》にはチゲを担いだ現地のアルバイトの少年がいて買物帰りの婦人に同行して荷物を家まで運んだ。駄賃《だちん=使い賃・ほうび》は三銭か五銭であった。
この市場は現在は国際市場の名前で建物も一新して繁盛している。
うちの前にあった西町市場は食品専門で夜は閉じて無人となる。大新町、済州町、水晶町、牧の島などにも小さな市場はあった。
凡一町、子城台横の市場はかなり大きく戦争末期、下校途中に野菜を買い、自転車に積んで帰った。此処《ここ》は街中に比べて物が豊富であった。
喫茶店は西町に銀座、スター、梅園、幸町に富士、三好野、光、本町に紫煙荘、大倉町にダリアなどがあった。レストランとして本町に好養軒、大庁町の朝鮮銀行裏に精養軒があった。
鮨《すし》屋は西町の丸正、南浜の浪速鮨《なにわずし》が有名で、駅の近所にも一軒出来た。
父親から大倉町生駒のお座敷天麩羅《てんぷら》、済州町、蓬莱閣の支那料理の話をよく聞いた。
うちの近所の ある支那人経営の仁和楼では、一杯十銭の支那うどんをよく食べた。今の五目中華そばである。この麺《めん》は自家製でメリケン粉を捏《こ》ねてバンバン板に打ち、延ばし、細くする。全て手作業である。
東本願寺橫、赤政のかけうどんは一杯五銭で大新町まで出前していた。此処の親父は真っ赤な着物と羽織を着て、赤い帽子を被り、赤い鼻緒の草履か下駄を履き、何時《いつ》でも何処《どこ》でも出掛けた有名人であった。
西町付近にはぜんざい屋が2~3軒あり五銭か十銭と安いのでよく行ったがこれも一週間停学の一因となった。
人の集まる所、人通りの多い所にはおでん屋や小料理屋などがあった。釜山駅から行って本町に上がる急坂の階段下にあった千里十里(チリトリ)というおでん屋の名が面白く未だに覚えている。
― 終り ―
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子供の小遣いで買える駄菓子屋の一銭単位のもの《=値の安い菓子》を現地の行商人が持ってくる。綿菓子、カラメル朝鮮飴などで朝鮮飴はネンガミさんが担ぐ二段造りの細長い木箱の上段に入っていた。
飴は空瓶、布切れ、鉄くずなどでも交換してくれた。これらのものは木箱の上段に収めて持ち帰った。ネンガミは大きな鋏《はさみ》をガチャガチャ鳴らして客を寄せていた。
冨平町の日韓市場は南側が内地人、北側が現地人と別れていて、夫々《それぞれ》住宅付きの店とそれに挟《はさ》まれた屋台の店で構成されていた。
内地人《=日本人》側では各種食品の他、雑貨、洋品、下駄《げた》などの店があった。現地人《=韓国人》も同様で種々の食材、キムチ、チマチョゴリの店に加え、マッカリを売るスリチビが何軒かあった。
此処《ここ》にはチゲを担いだ現地のアルバイトの少年がいて買物帰りの婦人に同行して荷物を家まで運んだ。駄賃《だちん=使い賃・ほうび》は三銭か五銭であった。
この市場は現在は国際市場の名前で建物も一新して繁盛している。
うちの前にあった西町市場は食品専門で夜は閉じて無人となる。大新町、済州町、水晶町、牧の島などにも小さな市場はあった。
凡一町、子城台横の市場はかなり大きく戦争末期、下校途中に野菜を買い、自転車に積んで帰った。此処《ここ》は街中に比べて物が豊富であった。
喫茶店は西町に銀座、スター、梅園、幸町に富士、三好野、光、本町に紫煙荘、大倉町にダリアなどがあった。レストランとして本町に好養軒、大庁町の朝鮮銀行裏に精養軒があった。
鮨《すし》屋は西町の丸正、南浜の浪速鮨《なにわずし》が有名で、駅の近所にも一軒出来た。
父親から大倉町生駒のお座敷天麩羅《てんぷら》、済州町、蓬莱閣の支那料理の話をよく聞いた。
うちの近所の ある支那人経営の仁和楼では、一杯十銭の支那うどんをよく食べた。今の五目中華そばである。この麺《めん》は自家製でメリケン粉を捏《こ》ねてバンバン板に打ち、延ばし、細くする。全て手作業である。
東本願寺橫、赤政のかけうどんは一杯五銭で大新町まで出前していた。此処の親父は真っ赤な着物と羽織を着て、赤い帽子を被り、赤い鼻緒の草履か下駄を履き、何時《いつ》でも何処《どこ》でも出掛けた有名人であった。
西町付近にはぜんざい屋が2~3軒あり五銭か十銭と安いのでよく行ったがこれも一週間停学の一因となった。
人の集まる所、人通りの多い所にはおでん屋や小料理屋などがあった。釜山駅から行って本町に上がる急坂の階段下にあった千里十里(チリトリ)というおでん屋の名が面白く未だに覚えている。
― 終り ―
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