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思い出の釜山府外史:飲食品と飲食店-1(米田)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/4/17 14:48
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
釜山で生れ終戦直前に釜山工業を卒業して、海軍経理学校で終戦を迎えられた米田氏が、 同窓会報に『思い出の釜山府外史』と言うタイトルで載せたられ記事です。

米田氏の目を通した日本統治《=日清・日露戦争によって日本が植民地化し1910年~1945年敗戦まで統治した》当時の韓国釜山の様子が、よく著《あらわ》されています。

韓国シニアネットのKJ-CLUBのgarishさんにご紹介を頂き、ご本人のご了解を得て、代理投稿いたします。

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酒と言えば日本酒がよく飲まれた。地酒の値段は一升《=1,8リットル》一円位であった。灘《なだ》の銘酒は一円五十銭か二円もするので料亭向けであった。

地ビールは無く、内地のビールは三十銭《せん=円の100分の一》位だが冷藏庫のない家庭は先ず飲まなかった。

釜山には造酒屋が殊の外多く、酒場と呼んでいた。西町の福田酒場が一番大きく、「向陽」という銘柄で売り出していた。ここのオーナーの福田さんが住んでいる所は福田町と呼ばれ、その邸宅を向陽園と称していた。

冨平町にある辻酒場の銘柄「葵正宗《あおいまさむね》」、土城町の山内酒場のそれは「桜花」であった。凡一町にある原田酒場の「寒牡丹《かんぼたん》」は向陽と共に売れ行きがよかったと聞いている。
同級生の平松君の実家は亀浦で日本酒を造っていた。

冨久娘《ふくむすめ》、沢の鶴《さわのつる》、桜正宗など灘の酒の特約店が市内中心部であった。

凡一町を流れる東川の川岸にあった大韓酒場は焼酎《しょうちゅう》を醸造していた。現地の人々は専ら《もっぱら》マッカリという濁酒《にごりざけ》を飲んでいた。密造酒が結構あったがマッカリの濁りを除いて飲むとなかなか味なものであった。

龍湖里から海雲台に寄った街沿いに公認のマッカリ醸造所があって、其処《そこ》を通ると良い匂《にお》いがしていた。

工業学校4・5年の頃、先生が付かない自主的勤労奉仕で農家の稲刈りをしてマッカリを振舞われ、ホロリとした気分で下校した。

あの頃、赤玉ポートワイン、蜂ブドウ酒など少し甘いものを飲むことがあったが本式のワインには縁が無かった。幸町のミカド、弁天町・長手通りの沖洋行では輸入物の洋酒を揃えていた。

西町のうちの前の東松飲料では、かなりの量のサイダーを製造していた。サイダーは砂糖と香料を入れた水に炭酸ガスを圧入して造るのであろうが、加圧が過ぎて時折ポーンという破裂音が聞こえた。

従業員の殆ど《ほとんど》は朝鮮服を着た現地の女性で、製品は箱詰めにして、牛車で運び出していた。

サイダーは一本十銭位だったと思う。内地からは三矢サイダー、リボンシトロンなどが入っていた筈《はず》だが、当時飲んだサイダーの銘柄は全く記憶にない。

コーヒー、紅茶は喫茶店で飲むもので、家庭には馴染《なじ》んでいなかった。家では緑茶、普通は番茶である。幸町の長手通りにある野村茶店までよく使いに出された。

長手通り龍頭山の階段下に京都宇治の老舗《しにせ=先祖代々続いている古い店》を名乗る辻利茶舗があった。店先でお茶を焙煎《ばいせん=火で炒ること》して道行く人に良い茶の香りを漂わしていた。

                 ― 続く ―



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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/4/19 8:39
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
続きです。
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当時、食事の中心は米の飯で、米一升の値段は40~50銭位と記憶している。
米屋の店先では現地の女性がガラス台の上に散らかされた米粒を目で見て指先で選別する《=ごみやくず米を除く作業》光景が見えた。朝鮮米の相当量が内地に移出されていて之《これ》を一時保管する倉庫が釜山桟橋《さんばし》の北方海岸に林立していた。

醤油《しょうゆ》、味噌《みそ》を造る店が各所にあった。西町には山本、有永、富平町には山根などの店があった。釜工《=釜山工業(学校)》の小林君の実家も富平町で醤油を造っていた。

釜山は今も水産物が豊富なところである。魚屋、野菜屋、果物屋は概ね市場の中にあった。それらの物売りが品物を頭にのせたり、車に積んで頻繁《ひんぱん》に町中に巡り各家庭に声をかけていた。

明太子《めんたいこ》をよく食べた。大庁通りに樋口明太屋という有名な専門店があった。

牧の島の周辺では済州島から来た海女が貝類や海鼠《なまこ》、雲丹《うに》などを採っていた。海面から水面に上がった時、独特の口笛を吹くのを耳で聞いた。海女は獲物を直接家庭に売り込んでいた。

玄界灘には鱶《ふか》が多い。そのヒレを道端で干していた。これは支那《=中国》の各地区に輸出するという話しであった。

戦争末期になると、鮫《さめ》や鯨の肉が食卓に上がるようになったがアンモニアの様な刺激的な匂いがして旨くなかった。

当時、野菜や果物の殆どは内地並に自給されて居たと思っていたが、戦後の内地の各地で彼の地に無かった多種類の野菜を食味する事ができた。

果樹園は釜山近郊にも多少あったが亀浦駅対岸の金海平野には内地人《日本人》農家が経営する大型果樹園が多数あり、ブドー、梨《なし》、水密桃《すいみつとう》、林檎《りんご》などを栽培していた。

小学五年の修学旅行で大邱に行き、広大な林檎園で一本の木に1000個の実を付けていると聞き、目を見張った。

当時、我々が最も好きだった果物はバナナであった。果物屋ではバナナは少し高い所に陳列してパインアップルとメロンは更に高い所にある。

缶詰の甘いパイ缶は時々食べたが生のパインアップルを口にした記憶がない。
戦争末期、台湾からの生のバナナが途絶、代りに黒い乾燥バナナが登場、店先を賑《にぎ》わした。


              ― 続く ―



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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/4/19 15:38
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
続きです。

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菓子類のうちキャラメル、チョコレートは内地から入っていた。森永、明治、グリコの他、新高《にいたか》どろっぷ、新高アメというのもあった。
キャラメルは10粒入りの小箱が五銭、20粒入りのが十銭で一粒300m《=商標》のグリコがオマケ付きで10粒五銭だが子供には人気があった。

チョコレートは子供が一番好んだ。板チョコの他、チューブ入りのもあったが日頃の小遣いでは買えなかった。土産で買うか遠足、運動会が食べられるチャンスとなろう。

内地製の菓子は別として、釜山でも種々菓子は造られていた。郵便局本局前のミヤノと西町の山本堂はカステラを造っていた。東本願寺辺りには「最中」や「甘納豆」を造る店があった。

うちの前の薄井羊羹《ようかん》屋では老夫婦が旨い練羊羹を造っていた。
日韓市場南側の末広軒は電気饅頭《まんじゅう》、長手通りの水月堂では残月という類似の饅頭を4~5銭で売り出していた。
三中井百貨店の一番奥で造る一個二銭の今川焼き風どら焼きも見逃せない。

大庁町通りの大和屋はかなりの従業員がいて、パン、生菓子、洋菓子(ショートケーキ)を造っていた。西町電話局前には十八(トハチ)屋というパン専門店があった。

当時パンと言えば餡《あん》パン、ジャムパン、クリームパン等菓子風のものが主で、バターや牛乳を必要とする食パンを食べることは少なかった。

郵便局本局裏にある木下は支那風《=中国風》饅頭で人気があった。支那人が経営する饅頭屋が府内各所にあった。一般に支那饅頭と言えば餡入りで、肉饅と区別されていたようだ。これらの饅頭は一個二銭位であった。

釜山にはかなりの支那人がおり饅頭屋の他、支那料理屋、衣類などの行商、割れ物直し、大道芸など色々な稼業をしていた。満州町の支那領事館の周辺には彼等が集まっていた。

あの当時は餅《もち》には何かと縁があった。誕生日の子供に大きな餅を担がせて、餅を神棚に供えたり、祝い餅を配ったりもした。新築時の棟上《むねあげ》には、餅撒《もちまき》行事は大人も子供も大賑わいだ。

年末になると何処《どこ》でも家の前で餅を搗《つ》いた。各家庭では糯米《もちごめ》を洗い、餡餅用の餡を用意し、臼《うす》と蒸籠《せいろ》で巡回する賃搗《ちんづき》屋を待った。
餅屋の中では大庁町通りの親玉と幸町の朝日餅が知られていた。

               ― 続く ―

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/4/20 23:04
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
続きです

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子供の小遣いで買える駄菓子屋の一銭単位のもの《=値の安い菓子》を現地の行商人が持ってくる。綿菓子、カラメル朝鮮飴などで朝鮮飴はネンガミさんが担ぐ二段造りの細長い木箱の上段に入っていた。

飴は空瓶、布切れ、鉄くずなどでも交換してくれた。これらのものは木箱の上段に収めて持ち帰った。ネンガミは大きな鋏《はさみ》をガチャガチャ鳴らして客を寄せていた。

冨平町の日韓市場は南側が内地人、北側が現地人と別れていて、夫々《それぞれ》住宅付きの店とそれに挟《はさ》まれた屋台の店で構成されていた。

内地人《=日本人》側では各種食品の他、雑貨、洋品、下駄《げた》などの店があった。現地人《=韓国人》も同様で種々の食材、キムチ、チマチョゴリの店に加え、マッカリを売るスリチビが何軒かあった。

此処《ここ》にはチゲを担いだ現地のアルバイトの少年がいて買物帰りの婦人に同行して荷物を家まで運んだ。駄賃《だちん=使い賃・ほうび》は三銭か五銭であった。

この市場は現在は国際市場の名前で建物も一新して繁盛している。

うちの前にあった西町市場は食品専門で夜は閉じて無人となる。大新町、済州町、水晶町、牧の島などにも小さな市場はあった。

凡一町、子城台横の市場はかなり大きく戦争末期、下校途中に野菜を買い、自転車に積んで帰った。此処《ここ》は街中に比べて物が豊富であった。

喫茶店は西町に銀座、スター、梅園、幸町に富士、三好野、光、本町に紫煙荘、大倉町にダリアなどがあった。レストランとして本町に好養軒、大庁町の朝鮮銀行裏に精養軒があった。

《すし》屋は西町の丸正、南浜の浪速鮨《なにわずし》が有名で、駅の近所にも一軒出来た。
父親から大倉町生駒のお座敷天麩羅《てんぷら》、済州町、蓬莱閣の支那料理の話をよく聞いた。

うちの近所の ある支那人経営の仁和楼では、一杯十銭の支那うどんをよく食べた。今の五目中華そばである。この麺《めん》は自家製でメリケン粉を捏《こ》ねてバンバン板に打ち、延ばし、細くする。全て手作業である。

東本願寺橫、赤政のかけうどんは一杯五銭で大新町まで出前していた。此処の親父は真っ赤な着物と羽織を着て、赤い帽子を被り、赤い鼻緒の草履か下駄を履き、何時《いつ》でも何処《どこ》でも出掛けた有名人であった。

西町付近にはぜんざい屋が2~3軒あり五銭か十銭と安いのでよく行ったがこれも一週間停学の一因となった。

人の集まる所、人通りの多い所にはおでん屋や小料理屋などがあった。釜山駅から行って本町に上がる急坂の階段下にあった千里十里(チリトリ)というおでん屋の名が面白く未だに覚えている。

                ― 終り ―

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あんみつ姫

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