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戦時下の”若きヴェルテルの悩み”

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不虻

通常 戦時下の”若きヴェルテルの悩み”

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/7/11 15:34
不虻  新米   投稿数: 20
それは昭和20年5月、戦争末期のことでした。
 私は当時海軍主計《しゅけい=会計をつかさどる部署》大尉で、横須加鎮守府《ちんじゅふ=警備・防御の部隊を指揮する海軍の機関》・人事部の3課という所に勤務していました。この3課は新設された課で、所謂《いわゆる》「白紙」《=応召の赤紙に対して徴用は白紙だった》によって徴用《ちょうよう=国家が国民を強制的に動員する》され、海軍工廠《こうしょう=兵器・弾薬などを製造する工場》や航空技術廠などで働いている勤労者の人事の総括をする所でした。課員は文官の事務ベテランが2名、下士官、兵がそれぞれ数名、それに女子職員としてタイピストや理事生(海軍では女子一般職員をこう呼んでいました)数名・合計十数名。事務室も鎮守府の建物には入りきれず、「軍艦三笠」が係留されていた海岸にある三笠会館というバラック作りの建物の一室にいました。課長(主計大佐)は通常は本館の方におりましたから、ここは一応独立した職場でした。

 ここで終戦までの数ヶ月を過ごしたわけですが、今顧みると、恥ずべきことばかりで、「25歳の若造が何をやってたんだ」と忸怩《じくじ=恥じ入るさま》たる思いで一杯です。こんなことを発表する気になったのは、一つにはあんみつ姫さんのお勧めがあったことと、また私自身がそれだけ老人になってきた所為《せい》でもありましょう。ともあれ、これらを当時の日記に代弁させましょう。
 
 その前に題名の「若きヴェルテルの悩み」について一言。最近の若い人は余り読んでいないかもしれませんが、これはゲーテが25歳の時に自分の体験を元に一気に書き上げたという小説です。所謂《いわゆる》書簡体《しょかんたい》小説で主人公ヴェルテルが友人ウイルヘルムに宛《あ》てた手紙の形になっています。多感な青年ヴェルテルがふとしたことから老法務官の娘、ロッテを見そめ、彼女に熱烈な恋をします。ロッテは「ぼくはどんなにほれぼれとあの黒い目に見入ったことだろう。どんなに、あの生き生きした唇《くちびる》、あの匂《にお》やかな頬《ほほ》がぼくの魂を惹《ひ》きつけたことだろう。」というような純情可憐《じゅんじょうかれん》な女性です。しかしロッテには既に婚約者がいます。そして結局、最後には ヴェルテルは自殺してしまうのです。この小説により世界的に青年の自殺が頻繁《ひんぱん=しきりに》に起こったとか、ナポレオンがエジプト遠征に持って行って、7回も繰り返し読んだとか言われていますが、私達も高校生の頃はよく読んだものでした。

 さて、それでは当時の日記を見てみましょう。

『昭和20年6月6日』
《おれ》は何という奴だ。この頃、青盛容子のことばかり考えているではないか。
彼女が初めて俺の部屋(人事部・勤労係室)へ入ってきた時………あの日は朝から小雨が降る、うすら寒い日であった………彼女を見てハッと思った。その瞬間から俺の心の中に彼女の影、彼女の映像がこびり付いてしまったのだ。

  午前中、彼女が庶務課で採用試験を受けている間中、なかなか戻ってこない彼女のことを、あれこれと心配していた俺だ。そして午後、庶務主任がもう人事部所定の青い上衣を着た彼女を俺の所へ連れてきた時、ホッとすると同時にソワソワとはしゃいでしまった、愚かなこの俺だ.った.。

  あれから数日経った。俺はその間中、彼女から目を離したことが無かった。仕事をしながらも、煙草《たばこ》を吸ってポカンと瞑想《めいそう》に耽《ふけ》っているような顔をしながらも、皆と話をしながらも、俺は彼女ばかり見つめていた。俺が机にしがみついて物を書いている時でも、恐らく5分と彼女に目をやらなかったことは無かったろう。

いつもはムッとして怒っているような顔をしている彼女は、笑うとこよなく可愛かった。そして仕事中時々ポカッと顔をあげて宙を見つめている瞳《ひとみ》は魅惑的でさえあった。俺は、「いかん、いかん!」と思いながらぐんぐん惹《ひ》きつけられる俺に手をやいている。
あゝ、哀しい哉《かな》、俺のこの告白は悪魔のそれの如くだ。

『6月8日』
昨日警視庁で開催された「関東、信越地方勤労課長の打合会」に出席し、今日はまた 朝から「横鎮勤労主任打合会」あり、何か精神的にへばってしまった。

  青盛容子………今日は腹痛で早く帰った由。
  俺は一体何であんな子供に(女学校を卒業したばかり、18歳位か?)これ程心を惹かれるのであろうか?

  よい死場所は無いだろうか?俺はこの頃そのことに心を集中している。B-29 の爆弾に当たって死ぬような、馬鹿馬鹿しい死に方はしたくない。自分の死とひき替えに大量の敵を屠る《ほふる=殺す》ような、素敵な配置は無いものだろうか。
 
  青盛容子の、あのつぶらな瞳が一方でまた俺の心を苦しめる。あゝ、俺は死にたい。

『6月14日』
 上司の課長が交替した。やかましい新課長の下で、室内の空気が陰鬱《いんうつ》になってしまった。
髪を綺麗《きれい》に櫛《くし》付けた彼女の悲しそうな、寂しそうな顔を見ると、何とか前のような明朗な気風をつくりたい。

  彼女の瞳は美しい。容子のことを考えると俺はいたたまれない感じがする。この世から消えてしまいたい。忘却の彼方《かなた》へ飛んでいってしまいたい。

『6月18日』
ガブリエル・ボアシイの詩「暁」。この詩が彼女と結び付く。

目醒《ざ》めよ、わが佳き女(ヒト)よ、目醒め出よ!
琥珀《こはく》なす君が肌  炎なす君が髪の毛
     光りなす君が微笑《ほほえ》み 君が頬匂う薔薇《ばら》
み瞳のうすみどり色 み胸の白さ!
来たれ!とく!………君にも見せまほしければ!
見よ 君よ!………今し暁

『7月5日』
俺はもうこんな所に居るのが嫌《いや》になった。女のいない部隊へ行きたい。そして
 男だけの、明日の命の知れない、本当の軍隊の生活がしたい。生死の境にあって、 明るく笑っているような配置につきたい。

  容子のことが何時も頭にひっかかっていて、それが不愉快であり、苦しくもある。 俺は馬鹿者だ!。いつかA理事生と容子があまり話ばかりしているので、他の理事生の手前もあり、二人を呼びつけて叱《しか》ったことがあった。あの時も、あの女の誠の籠《こ》もったような目つきと洋服のボタンの隙間《すきま》から仄《ほの》かに見えていた、胸の白さに幻惑されて、俺はほんの一言注意しただけで止めてしまったではないか。
ああ!俺は本当に容子のいない世界へ行きたい。

………………★………………★………………★………………

 こんなことで悩んでいる中に終戦を迎えました。戦争終結の詔勅《しょうちょく=天皇のお言葉》は鎮守府の大きな横穴防空壕のなかで聴きました。これらのことは又項を改めてお話しすることとして”ヴェルテルの悩み”には後日談があります。また日記を見て下さい。

『8月17日』
人事部で、青盛理事生が疎開するから辞めさせてくれと申し出た時、俺は遂に意を決してしまった。俺は彼女を呼びつけて、「今夜お訪ねする」由、お母さんに申し上げてくれ、と言い切ってしまった。
俺は兎も角《ともかく》、彼女に一応求婚することとした。

7時半頃彼女の家のドアを開く。ワンピースを着た彼女が出る。お母さんに招じられて上がる。(それから何を話し、何をしたのか何も日記には書いてない。)
いつの間にか10時過ぎになった。俺は言い出しかねていたが、遂に膝《ひざ》を正して申し出た。

「今夜私がお訪ねしました用件を申し上げたいと思います。………実は私は……
容子さんに対し結婚を申し込みに参りました。こんな失礼なことはしたくなかったのですが、事態がこうなりましたので、失礼と存じながら参りました。御考慮をお願いします」

『8月27日』
あの17日………俺が容子に対し結婚を申し込んで以来、俺の心はやや平静にかえった。彼女が出勤して来なくなり、俺の目から離れたことも良かったのだろう。

その後俺は21日の夜、更に鎌倉駅に立った。月の綺麗な晩だった。涼しい風も感じられた。彼女の家………もう留守になっていると思う一方、或いはと思っていた彼女の家には相変わらず灯がともっていた。俺はサッとドアを開けた。

彼女は東京の伯母《おば》さんの家へ行っていて留守だった。彼女のMutterは語っ た。彼女の伯母が既に結婚の相手を選んでいる。海軍の技術士官である。ただし容子はまだ全然結婚する意思がない、と。
俺は何も言えず、彼女の家を辞した。
鎌倉駅で一電車遅らせ、彼女がヒョッとして、東京から戻ってくるかと待ってみた。………唯、月が皓々《こうこう》と照っているのみだった。俺は軍刀を抱いて呆然《ぼうぜん》と立っていた。

『9月5日』
復員待ち。皆落ち着かない。
  山本有三の「波」をまた読んでみた。突然、過ぎし日の青盛理事生のことを思い起こした。
あの空襲の日。あの雨の日。あの最後に別れた日………彼女はもっと人事部に居たかった泣き出した。俺は彼女の瞳をまた思い出した。


 以上で私の”若きヴェルテルの悩み”は終わります。彼女はその後那須の方へ疎開したと聞きました。私は9月15日に復員命令が出て、そして21日に、もう生きて二度と帰ることは無いと思っていた郷里へ帰りました。

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