敗戦の思い出(二)
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敗戦の思い出(一) <英訳あり> (フランク, 2005/2/25 18:26)
- 敗戦の思い出(二) (フランク, 2005/3/9 23:48)
- 敗戦の思い出(補足) (フランク, 2005/3/9 23:53)
- Re: 敗戦の思い出(言葉訂正) (フランク, 2005/3/11 11:56)
フランク
居住地: 千葉県船橋市
投稿数: 5
無条件降伏の姿(二)
(古川さちお記)
(記録・その二、終戦と初恋)
完膚(かんぷ)無きまで《=徹底的に》米軍機に叩《たた》かれた鹿児島駅。死体の山から這い出し生き残った私は、ぼろぼろ服姿で下宿に向かった。
市街地を避け、城山の後ろ「冷や水峠」を歩いて下宿にたどり着いた頃には「鹿児島・本(ほん)駅にいた人は全員爆死」という噂《うわさ》が伝わっていた。下宿の小母さんが見せた驚きの顔が忘れられない。
翌早朝、時限爆弾《じげんばくだん=設定時間に自動で爆発する爆弾》の爆発音を遠くに聞きながら、線路伝いに市内を離れた。四つほどの駅を過ぎたところで、動く列車を見つけて飛び乗る。たどり着いた山村の実家でも、身体中の負傷が前日の「本駅空襲」のものと聞き、驚きと安堵《あんど》で皆は大騒ぎをしたものだ。
当の本人・私はといえば、その日以来、かの豪気《ごうぎ=すばらしいさま》な「軍国少年」は何処《どこ》へやら、少しでも飛行機の爆音が聞こえると、裏山へ逃げ込む臆病《おくびょう》少年に化身《けしん=姿を変える》していた。戦中とはいえ、静かな山あいの農村に爆撃などあり得ないのにと、弟らに笑われもした。が、「赤ん坊を守るため」を口実に、いつも末の妹を抱いて、山に逃げこんだのである。
怯《おび》えた引きこもりの二週間が過ぎたところで、日本の「無条件降伏《1945年8月》を知る。驚きの後は、ひたすら茫然自失《ぼうぜんじしつ》であった。
その間、広島・長崎への原爆《げんばく=原子爆弾》投下という大ニュースもあった。しかし、私の心には思いがけず、より大きな出来事「初恋」というものが生まれていた。(註記)この恋は片思いのまま後年消滅する。
夏休みの数日を「食料豊富な伯母《おば》さんの家で過ごそう」と、近郷の町から従妹《いとこ》の裕子ちゃんが来ていた。女学校一年生の彼女は、朗らかでなかなかの美少女だった。一方私の方は、たとえ恐怖の空爆体験がなくても、女学生とすれ違うだけで赤面し、心臓がおどり、ものが言えなくなるという意気地なし少年だった。
家事を手伝う裕子ちゃんは、引きこもりの私に話しかけたい素振り《そぶり》が見えた。にもかかわらず、恥ずかしさのあまり、私は一言も口をきかない。幼い頃は、一緒に騒ぎ遊んだ仲なのに・・。
片想いの甘い苦しみを噛《か》みしめているうちに、敗戦となり、忘れもしない「終戦翌日」となる。ご記憶の人も多かろう。玉音《ぎょくおん=天皇のお声》放送の瞬間から米軍部隊が上陸するまでの数日間、地方の町村では各種のデマが乱れ飛んだ。
八月十六日昼過ぎのこと、村の郵便局責任者だった父が、息せき切って帰ってきた。縁先で「一家全員集合」と言う。
『今しがた名士某《ぼう=名前を伏せるとき使う(なにがし)》が、直行バスで鹿児島市から着くやいなや郵便局に駆け込んできた。話によると、アメリカ兵が上陸を開始した。先ずやりだしたことは婦女の徴発《ちょうはつ=強制的に呼び出す》である。某氏もその目で見たとのことだが、いやがる数名の婦人が、アメリカ兵たちに無理やり連れ去られたそうだ。この村は県道添いだから、一両日中には米軍が通過すること間違いない』
そこまで父が話したところで、臆病者《おくびょうもの》の祖母は、がくがくと膝《ひざ》で震《ふる》えながら便所に走る。無学ながらしっかり者の母は、「裏山を登り、急ぎ山小屋を作って、女子供はそこで二三日暮らそう」と提案。
しかし、母以上にしっかり者の長姉禎子は、父の伝える話しを一笑に付した。
「その話はデマです。ロシアや豪州《ごうしゅう=オーストラリア》兵ならいざ知らず、アメリカ兵に、そんな野蛮人《やばんじん》はいない。第一、降伏翌日に米軍部隊が上陸なんて早すぎる。私は隠居のお祖父《じい》さんたちと一緒に、ここにいます。お父さんの宿直だって私が代わってもいいのよ」と主張。都会から里帰り中のタマ叔母《おば》も姉に同調した。
結果は、祖母や未婚のトシ叔母とともに子供全員が山小屋に二泊したのだが、今にすると恥ずかしい思い出である。後々姉には「あんたは中学二年生にもなっていたくせに・・・」と冷やかされた。
あの日裕子ちゃんは父に、「食べ物には困らないのだから、夏休み中はここに居てもいいのだよ」と言われていた。幼くして両親を失い、大叔父《おおおじ=祖父母の兄弟》の養女となっていた彼女は、悲しそうに考え込んだ末に、「帰ります」と言った。私は、ひそやかにため息をついた。
すでに「恋する少年」となっていた私は、有名な終戦の日よりも「その翌日」を、より鮮明に記憶しているのである。[了]
(古川さちお記)
(記録・その二、終戦と初恋)
完膚(かんぷ)無きまで《=徹底的に》米軍機に叩《たた》かれた鹿児島駅。死体の山から這い出し生き残った私は、ぼろぼろ服姿で下宿に向かった。
市街地を避け、城山の後ろ「冷や水峠」を歩いて下宿にたどり着いた頃には「鹿児島・本(ほん)駅にいた人は全員爆死」という噂《うわさ》が伝わっていた。下宿の小母さんが見せた驚きの顔が忘れられない。
翌早朝、時限爆弾《じげんばくだん=設定時間に自動で爆発する爆弾》の爆発音を遠くに聞きながら、線路伝いに市内を離れた。四つほどの駅を過ぎたところで、動く列車を見つけて飛び乗る。たどり着いた山村の実家でも、身体中の負傷が前日の「本駅空襲」のものと聞き、驚きと安堵《あんど》で皆は大騒ぎをしたものだ。
当の本人・私はといえば、その日以来、かの豪気《ごうぎ=すばらしいさま》な「軍国少年」は何処《どこ》へやら、少しでも飛行機の爆音が聞こえると、裏山へ逃げ込む臆病《おくびょう》少年に化身《けしん=姿を変える》していた。戦中とはいえ、静かな山あいの農村に爆撃などあり得ないのにと、弟らに笑われもした。が、「赤ん坊を守るため」を口実に、いつも末の妹を抱いて、山に逃げこんだのである。
怯《おび》えた引きこもりの二週間が過ぎたところで、日本の「無条件降伏《1945年8月》を知る。驚きの後は、ひたすら茫然自失《ぼうぜんじしつ》であった。
その間、広島・長崎への原爆《げんばく=原子爆弾》投下という大ニュースもあった。しかし、私の心には思いがけず、より大きな出来事「初恋」というものが生まれていた。(註記)この恋は片思いのまま後年消滅する。
夏休みの数日を「食料豊富な伯母《おば》さんの家で過ごそう」と、近郷の町から従妹《いとこ》の裕子ちゃんが来ていた。女学校一年生の彼女は、朗らかでなかなかの美少女だった。一方私の方は、たとえ恐怖の空爆体験がなくても、女学生とすれ違うだけで赤面し、心臓がおどり、ものが言えなくなるという意気地なし少年だった。
家事を手伝う裕子ちゃんは、引きこもりの私に話しかけたい素振り《そぶり》が見えた。にもかかわらず、恥ずかしさのあまり、私は一言も口をきかない。幼い頃は、一緒に騒ぎ遊んだ仲なのに・・。
片想いの甘い苦しみを噛《か》みしめているうちに、敗戦となり、忘れもしない「終戦翌日」となる。ご記憶の人も多かろう。玉音《ぎょくおん=天皇のお声》放送の瞬間から米軍部隊が上陸するまでの数日間、地方の町村では各種のデマが乱れ飛んだ。
八月十六日昼過ぎのこと、村の郵便局責任者だった父が、息せき切って帰ってきた。縁先で「一家全員集合」と言う。
『今しがた名士某《ぼう=名前を伏せるとき使う(なにがし)》が、直行バスで鹿児島市から着くやいなや郵便局に駆け込んできた。話によると、アメリカ兵が上陸を開始した。先ずやりだしたことは婦女の徴発《ちょうはつ=強制的に呼び出す》である。某氏もその目で見たとのことだが、いやがる数名の婦人が、アメリカ兵たちに無理やり連れ去られたそうだ。この村は県道添いだから、一両日中には米軍が通過すること間違いない』
そこまで父が話したところで、臆病者《おくびょうもの》の祖母は、がくがくと膝《ひざ》で震《ふる》えながら便所に走る。無学ながらしっかり者の母は、「裏山を登り、急ぎ山小屋を作って、女子供はそこで二三日暮らそう」と提案。
しかし、母以上にしっかり者の長姉禎子は、父の伝える話しを一笑に付した。
「その話はデマです。ロシアや豪州《ごうしゅう=オーストラリア》兵ならいざ知らず、アメリカ兵に、そんな野蛮人《やばんじん》はいない。第一、降伏翌日に米軍部隊が上陸なんて早すぎる。私は隠居のお祖父《じい》さんたちと一緒に、ここにいます。お父さんの宿直だって私が代わってもいいのよ」と主張。都会から里帰り中のタマ叔母《おば》も姉に同調した。
結果は、祖母や未婚のトシ叔母とともに子供全員が山小屋に二泊したのだが、今にすると恥ずかしい思い出である。後々姉には「あんたは中学二年生にもなっていたくせに・・・」と冷やかされた。
あの日裕子ちゃんは父に、「食べ物には困らないのだから、夏休み中はここに居てもいいのだよ」と言われていた。幼くして両親を失い、大叔父《おおおじ=祖父母の兄弟》の養女となっていた彼女は、悲しそうに考え込んだ末に、「帰ります」と言った。私は、ひそやかにため息をついた。
すでに「恋する少年」となっていた私は、有名な終戦の日よりも「その翌日」を、より鮮明に記憶しているのである。[了]
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S.Furukawa