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敗戦の思い出(一) <英訳あり>

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/2/25 18:26
フランク  新米 居住地: 千葉県船橋市  投稿数: 5
  
無条件降伏の姿(一)
     ― 少年の目に映った日本敗戦 ―

                        古川さちお
(記録・その一、九死に一生)
 一九四五年(昭和二十年)七月二十七日、数えてみると、終戦の詔勅《しょうちょく=天皇が出される文書》まであと十九日という日のこと。焼け野原化した鹿児島市は晴天だった。午前十一時過ぎ、旧制中学二年生の私は鹿児島駅の大ホールにいた。山村の実家へ夏休み帰省するためだ。
入手しにくい乗車券購入のため、行列の最後尾に並ぶ。その途端だった。空襲警報もないのに、「退避―、退避―」。メガフォンで叫ぶ、引きつったような声を二回聞く。
 時を同じくして、高空から降ってくる大型爆弾の空気摩擦音、「シュルシュル、シュウシュウ、・・・・・・・・」。
 聞きなれた恐怖の音だったので、訓練通りに両目・両耳を指で押さえ、その場に伏せようとする。腹部が床につく寸前のところで、全身に強大な圧力を受ける。まさに不可抗力、その圧力は私の身体を猛スピードでどこまでも押し転がしていく。ストンと落ちて止まったところは駅舎内の防空壕《ぼうくうごう=空襲の時避難するために地下に掘った空間、または屋外の構築物》らしい。
 ほっとしたところに、人が一人落ちてきて私に覆《おお》いかぶさる。ちらっと振り向いてみると、前髪を垂らし笑ったような顔、片方の目から一すじの血が流れている。「女だ。死んでいる」と思う間もなく、次から次と人が折り重なり、身動きがとれない。
 爆風で耳をやられたのか、静寂の世界だ。自分の声も全く聞こえないが、「逃げ出そう、どいてくれ!」と叫び続ける。しかし、誰も動かず。数知れない死者の下敷きになっていることが分かった。
「どいてくれ、どいてくれ」
もがき続けるうちに周《まわ》りが煙とほこりで薄暗くなっていく。駅舎が燃えはじめたらしい。真っ赤に焼けた鉄片が、手の甲に当たって転げ落ちていった。痛みは感じない。
 そのとき、何故《なぜ》か目の前に母の姿が現れた。無言のまま、穏やかな顔でこちらを見つめている。「お母さん、動けないよ。僕は十三歳で死ななければならないの?」。聞こえないまま、死を覚悟した私は、意外に静かな声で母に話しかけていたようだ。
 その母の姿が消えた後、もがいては休み、休んではもがきしていたが、最後に排便を感じながら渾身《こんしん=満身》の力をふりしぼる。這い出して脱出に成功。周囲は闇《やみ》に包まれていた。当てずっぽうで駅舎入り口と思われる方向に駆ける。そこが駅前広場だった。
 広場の一角に立つ私の目に入ったのは、修羅場《しゅらば=激しい闘争の場》の様相《ようそう=有様》である。傾く電柱から垂れ下がって地面に這《は》う無数の電線、そこには数え切れないほどの死体が散らばっていた。なぜか黒こげで、すべてうつ伏せだ。
「軍国少年」とはいえ、戦場を直《じか》に見た体験のない私には、恐ろしい光景だった。この世のものと思えない。一瞬立ち止まった足が動かなくなる。
 しかし茫然自失《ぼうぜんじしつ=我を忘れるさま》する時間などない。反転してきたB二十五爆撃機群が間近に迫っていた。近くにあった満員の防空壕へ、がむしゃらに飛び込み、背中の空リュックで頭ごと防護する。
 悪魔の囁《ささや》き「シュルシュル・・・」が聞こえた直後は強大な圧力に苛《さいな》まれる。至近弾の爆裂音は「音」ではなくて「圧力」としか感じない。最後に「ザーッ」というリュックを直撃する小石と砂利の音だけは聞こえた。
 嵐《あらし》の敵機が飛び去ったところで、防空壕の中を眺《なが》めてみる。そこは地獄の様相だった。無傷に近いのは私ただ一人。絶望的な深傷《ふかで》に苦しむ十名近い人たちがうごめいているではないか。
一人の婦人は、額から流れるおびただしい血を、抱いた赤ん坊に滴《したた》らせつつ「この子に怪我がなくてよかった」と、弱々しくつぶやく。「痛い、苦しい」とうめく若い婦人の背中からは、白い骨がとび出して見えた。ほかに蠢《うごめ》くのも、到底ここに記述し得ないほど悲惨で、瀕死《ひんし》の状態にある重傷者たちだった。
しかし、助けようはない。次の襲撃から逃れるためには、見殺しにして去る以外に手はない。ふと、先ほど佇《たたず》んだ場所を見る。そこには空恐ろしいほどの穴ができていた。先刻の爆裂の跡である。
 自分は死にたくない。生き抜きたい。自己防衛本能の鬼となったのであろう。その後、何度も何度も反転攻撃を加えた敵機から逃れるべく、私は防空壕の伝い逃げをしていた。
 その間、生涯《しょうがい》に悔いを残す行為もあった。膝《ひざ》まで水の溜《た》まる防空壕の中で、「三角巾《さんかくきん=90センチほどの正方形を斜めに切って三角にした布、包帯》か手拭い《てぬぐい=90×30ほどの木綿布》をくれないか」と言う、腕の折れた同年輩《ねんぱい=年頃》少年に「持ってない」と嘘《うそ》をつく。それを聞いた少年の坊主あたまが、みるみる青ざめていった。
次の防空壕では、独り言に「敵機よ、早く逃げ失せろ」と言っていたのが、最後は卑屈《ひくつ》にも「アメリカさん、早くお帰りくださいませ」と敬語になってしまう。
 そのように「浅はかな軍国少年」と化した私が、われに帰ったのは、漸く《ようやく》駅広場から逃れて爆音も遠ざかったときである。

(筆者註)鹿児島駅全滅直後は「全員爆死」などと言われたが、私以外に生き残りがいるのだろうか。いなければ、九死ではない。「千死に一生」ぐらいである。ー思い出は(二)に続くー

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S.Furukawa

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/3/9 23:48
フランク  新米 居住地: 千葉県船橋市  投稿数: 5
     無条件降伏の姿(二)
                    (古川さちお記)
(記録・その二、終戦と初恋)
 完膚(かんぷ)無きまで《=徹底的に》米軍機に叩《たた》かれた鹿児島駅。死体の山から這い出し生き残った私は、ぼろぼろ服姿で下宿に向かった。
市街地を避け、城山の後ろ「冷や水峠」を歩いて下宿にたどり着いた頃には「鹿児島・本(ほん)駅にいた人は全員爆死」という噂《うわさ》が伝わっていた。下宿の小母さんが見せた驚きの顔が忘れられない。
 翌早朝、時限爆弾《じげんばくだん=設定時間に自動で爆発する爆弾》の爆発音を遠くに聞きながら、線路伝いに市内を離れた。四つほどの駅を過ぎたところで、動く列車を見つけて飛び乗る。たどり着いた山村の実家でも、身体中の負傷が前日の「本駅空襲」のものと聞き、驚きと安堵《あんど》で皆は大騒ぎをしたものだ。
 当の本人・私はといえば、その日以来、かの豪気《ごうぎ=すばらしいさま》な「軍国少年」は何処《どこ》へやら、少しでも飛行機の爆音が聞こえると、裏山へ逃げ込む臆病《おくびょう》少年に化身《けしん=姿を変える》していた。戦中とはいえ、静かな山あいの農村に爆撃などあり得ないのにと、弟らに笑われもした。が、「赤ん坊を守るため」を口実に、いつも末の妹を抱いて、山に逃げこんだのである。
 怯《おび》えた引きこもりの二週間が過ぎたところで、日本の「無条件降伏《1945年8月》を知る。驚きの後は、ひたすら茫然自失《ぼうぜんじしつ》であった。

 その間、広島・長崎への原爆《げんばく=原子爆弾》投下という大ニュースもあった。しかし、私の心には思いがけず、より大きな出来事「初恋」というものが生まれていた。(註記)この恋は片思いのまま後年消滅する。
 夏休みの数日を「食料豊富な伯母《おば》さんの家で過ごそう」と、近郷の町から従妹《いとこ》の裕子ちゃんが来ていた。女学校一年生の彼女は、朗らかでなかなかの美少女だった。一方私の方は、たとえ恐怖の空爆体験がなくても、女学生とすれ違うだけで赤面し、心臓がおどり、ものが言えなくなるという意気地なし少年だった。
 家事を手伝う裕子ちゃんは、引きこもりの私に話しかけたい素振り《そぶり》が見えた。にもかかわらず、恥ずかしさのあまり、私は一言も口をきかない。幼い頃は、一緒に騒ぎ遊んだ仲なのに・・。
 片想いの甘い苦しみを噛《か》みしめているうちに、敗戦となり、忘れもしない「終戦翌日」となる。ご記憶の人も多かろう。玉音《ぎょくおん=天皇のお声》放送の瞬間から米軍部隊が上陸するまでの数日間、地方の町村では各種のデマが乱れ飛んだ。
 八月十六日昼過ぎのこと、村の郵便局責任者だった父が、息せき切って帰ってきた。縁先で「一家全員集合」と言う。

 『今しがた名士某《ぼう=名前を伏せるとき使う(なにがし)》が、直行バスで鹿児島市から着くやいなや郵便局に駆け込んできた。話によると、アメリカ兵が上陸を開始した。先ずやりだしたことは婦女の徴発《ちょうはつ=強制的に呼び出す》である。某氏もその目で見たとのことだが、いやがる数名の婦人が、アメリカ兵たちに無理やり連れ去られたそうだ。この村は県道添いだから、一両日中には米軍が通過すること間違いない』
 そこまで父が話したところで、臆病者《おくびょうもの》の祖母は、がくがくと膝《ひざ》で震《ふる》えながら便所に走る。無学ながらしっかり者の母は、「裏山を登り、急ぎ山小屋を作って、女子供はそこで二三日暮らそう」と提案。
 しかし、母以上にしっかり者の長姉禎子は、父の伝える話しを一笑に付した。
「その話はデマです。ロシアや豪州《ごうしゅう=オーストラリア》兵ならいざ知らず、アメリカ兵に、そんな野蛮人《やばんじん》はいない。第一、降伏翌日に米軍部隊が上陸なんて早すぎる。私は隠居のお祖父《じい》さんたちと一緒に、ここにいます。お父さんの宿直だって私が代わってもいいのよ」と主張。都会から里帰り中のタマ叔母《おば》も姉に同調した。
 結果は、祖母や未婚のトシ叔母とともに子供全員が山小屋に二泊したのだが、今にすると恥ずかしい思い出である。後々姉には「あんたは中学二年生にもなっていたくせに・・・」と冷やかされた。
 あの日裕子ちゃんは父に、「食べ物には困らないのだから、夏休み中はここに居てもいいのだよ」と言われていた。幼くして両親を失い、大叔父《おおおじ=祖父母の兄弟》の養女となっていた彼女は、悲しそうに考え込んだ末に、「帰ります」と言った。私は、ひそやかにため息をついた。
 すでに「恋する少年」となっていた私は、有名な終戦の日よりも「その翌日」を、より鮮明に記憶しているのである。[了]

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S.Furukawa

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/3/9 23:53
フランク  新米 居住地: 千葉県船橋市  投稿数: 5
敗戦の思い出(補足)
                       古川さちお
 「敗戦の思い出」の内容は、他の同人誌や校友誌に事細かに書いたことがあります。今年
二〇〇五年がちょうど敗戦後六十年目という節目《ふしめ》にあたるので、今一度読みやすく
して書き残したいという一種の衝動《しょうどう》から投稿したものです。
 読む人が疲れたり飽きたりしないようにと、文章を短くしたために分かりにくくなったかも知
れません。そこで若干の補足をさせてください。
 鹿児島駅(通称「鹿児島本駅」)への執拗《しつよう=しつこい》な米軍爆撃のことは、
昭和二十年七月二十九日付朝日新聞第一面に簡単な記事で出ています。
沖縄を占領した米軍としては、南九州爆撃が容易となり、従来の五百キロ爆弾の代わりに千
キロ(1トン)という大型弾を投入したのです。
 その威力は大きくて、空爆寸前に私が見たプラットフォームのおびただしい武装兵士は、事後
姿を消しており、たった一人の負傷下士官を踏み切り近くで見かけただけです。業務に従事して
いた駅員が全員殉死《じゅんし》したことは、駅構内線路わきに建てられた慰霊碑でも分かります。
 ところで、私以外の一般人の遭難状況はどうだったのでしょう。この六十年間、生き残りの人
はいないか探したところ、一応三名ほど見つかりました。しかし、うち二人は「駅が滅茶苦茶に
やられるのを近くから直《じか》に見ただけ」と言い、ひとりの人は「確かに駅にいたのだが、
どのようにして生き残り、家に帰り着いたのか全く記憶していない」とのこと。
 市役所に残る記録を見ても、体験者ではなく、間一髪で駅を離れた人とか、駅到着寸前だった
人が書いたものです。
 本稿を見て、「私も生き残りだ」という方があったら、是非会って語り合いたいものです。
 あの日何ゆえに鹿児島駅が狙われたのか、多勢の陸軍兵士が集まることを米軍諜報機関はつか
んでいたのか、死亡した兵士たちの数など分かっているのか、謎です。一度、目黒の防衛庁資料
館も訪ねましたが、何も分かりませんでした。当時の軍部は、陸軍部隊数百人が空爆で一挙に殺
れたなどということは、極秘事項として隠したのでありしょう。

 敗戦の思い出(二)に記した私の初恋のことですが、片想いの相手は未だ健在らしいので、名
前は仮名にしてあります。生きているうちに一度会いたい気持ですが、相手さんが「あなたのこ
と、全然覚えていないわ」などと言うのを恐れて、それは諦めましょう。[了]
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/3/11 11:56
フランク  新米 居住地: 千葉県船橋市  投稿数: 5
敗戦の思い出(補足)で記した文字を訂正します。
千トン爆弾となっているのは「千キロ」即ち1トン爆弾の誤りで、五百トンは「五百キロ爆弾」の間違いです。失礼しました。(フランク古川記)

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S.Furukawa

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