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敗戦の思い出(補足)

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フランク

通常 敗戦の思い出(補足)

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/3/9 23:53
フランク  新米 居住地: 千葉県船橋市  投稿数: 5
敗戦の思い出(補足)
                       古川さちお
 「敗戦の思い出」の内容は、他の同人誌や校友誌に事細かに書いたことがあります。今年
二〇〇五年がちょうど敗戦後六十年目という節目《ふしめ》にあたるので、今一度読みやすく
して書き残したいという一種の衝動《しょうどう》から投稿したものです。
 読む人が疲れたり飽きたりしないようにと、文章を短くしたために分かりにくくなったかも知
れません。そこで若干の補足をさせてください。
 鹿児島駅(通称「鹿児島本駅」)への執拗《しつよう=しつこい》な米軍爆撃のことは、
昭和二十年七月二十九日付朝日新聞第一面に簡単な記事で出ています。
沖縄を占領した米軍としては、南九州爆撃が容易となり、従来の五百キロ爆弾の代わりに千
キロ(1トン)という大型弾を投入したのです。
 その威力は大きくて、空爆寸前に私が見たプラットフォームのおびただしい武装兵士は、事後
姿を消しており、たった一人の負傷下士官を踏み切り近くで見かけただけです。業務に従事して
いた駅員が全員殉死《じゅんし》したことは、駅構内線路わきに建てられた慰霊碑でも分かります。
 ところで、私以外の一般人の遭難状況はどうだったのでしょう。この六十年間、生き残りの人
はいないか探したところ、一応三名ほど見つかりました。しかし、うち二人は「駅が滅茶苦茶に
やられるのを近くから直《じか》に見ただけ」と言い、ひとりの人は「確かに駅にいたのだが、
どのようにして生き残り、家に帰り着いたのか全く記憶していない」とのこと。
 市役所に残る記録を見ても、体験者ではなく、間一髪で駅を離れた人とか、駅到着寸前だった
人が書いたものです。
 本稿を見て、「私も生き残りだ」という方があったら、是非会って語り合いたいものです。
 あの日何ゆえに鹿児島駅が狙われたのか、多勢の陸軍兵士が集まることを米軍諜報機関はつか
んでいたのか、死亡した兵士たちの数など分かっているのか、謎です。一度、目黒の防衛庁資料
館も訪ねましたが、何も分かりませんでした。当時の軍部は、陸軍部隊数百人が空爆で一挙に殺
れたなどということは、極秘事項として隠したのでありしょう。

 敗戦の思い出(二)に記した私の初恋のことですが、片想いの相手は未だ健在らしいので、名
前は仮名にしてあります。生きているうちに一度会いたい気持ですが、相手さんが「あなたのこ
と、全然覚えていないわ」などと言うのを恐れて、それは諦めましょう。[了]

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