大正生まれの戦前・戦中記 その2(投稿 神津康雄)
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大正生まれの戦前・戦中記 その1(投稿 神津康雄) (マーチャン, 2005/7/11 17:52)
- 大正生まれの戦前・戦中記 その2(投稿 神津康雄) (マーチャン, 2005/7/11 17:55)
- 大正生まれの戦前・戦中記 その3(投稿 神津康雄) (マーチャン, 2006/4/12 13:42)
マーチャン
居住地: 宇宙
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特攻訓練で墜落、惨死《ざんし=むごたらしい死》の将校仲間十一人を検屍《けんし=検死》―――軍医時代の経験
軍医学校で半年の訓練を受けた後、名古屋の海軍第二河和(こうわ)航空隊付になり赴任《ふにん=任地へ行く》しました。ここは 『下駄履き』《げたばき=水上機には水面滑走用のフロートが付いていたので下駄履きと言った》の水上機の特攻《=特別攻撃隊》基地です。昭和二十年一月から六カ月いましたが、約二十人の将校と「ガンルーム」(士官室)で起居を共にし、食事も飲むのも一緒の生活を過ごしたのです。その仲間が半年の間に、半数の十一人が訓練中に事故死しました。特攻用訓練機が途中から例の零式《れいしき》戟闘機(ゼロ戟)《=海軍の小型高速の戦闘機》に二本のフロートを付けたのに変わりました。これで3000メートルの高度から最初は六十度、次には三十度という急角度で突込む訓練を始めたので、空中分解して墜落する事故が頻発《ひんぱつ=しきりに起こる》、乗員は海面に叩き付けられて、見るも無惨な即死です。一時間前まで談笑していた戟友の死体を、私は軍医としてすべて検屍する羽目になったのですから、まさに『地獄』でした。
六月になって沖縄の設営隊への転勤命令を受けました。実は一カ月前の五月に命令が出ていたのを担当者が見落としていたのです。急いでその設営隊の連絡本部のある大阪へ向かい、本部を探し歩いたが見つからず、ようやく宝塚に移っているのが分かり、出頭しました。そうしたら、担当の中佐から開口一番「貴様《きさま》、いまごろ何しにきた。おまえの代わりにすでに三人が戟死した。責任をとれ。わかっているな」と怒鳴りつけられました。「自決《じけつ=自分で死ぬ》しろ」という意味です。死に場所を求めて近くを探し歩きましたが、どこへ行っても人がいます。まさか人前でピストル自殺するわけにはいきません。
たまたま目についた小屋があったので入ると便所でした。ここならと思いピストルに手をかけ、下をのぞいたら、ウジムシが無数にうごめいているのが目に入りました。こんなウジムシと一緒では死にきれないとピストルから手を離し外へ出たところへ、あの中佐の従兵が駆けよってきて「すぐに中佐のもとへ来て下さい」というのです。連れ立って本部に戻ると、さっきとは違い中佐は機嫌がよく「ちょうどよかった。徳島の設営隊で集団赤痢《せきり=法定伝染病の一》が発生した。貴様、そこへ行ってくれ」という命令です。そこは徳島の近くの「学」町にあり三千五百人の隊員がいる第五八四設営隊で「第三航空艦隊」指揮下に属しており、私は町の病院などの医師にも応援を求め防疫《ぼうえき=伝染病の発生を防止する》に当たりました。
昭和二十年の八月近くなるともう敗戟の気配が濃厚になってきました。その三週間くらい前でしたか、設営隊を統括する航空隊司令から「敗戟になると四国は敵に占領されるかもしれない。その時は全員自決するように総員人数分の青酸カリを呉《くれ》の施設本部まで取りに行け」という命令が私にありました。苦労して呉につき、担当の薬剤少佐に話すと「駄目だ」と断られました。「設営隊になどやる分はない」と言うのですが、強引に頼み、259グラムの青酸カリをもらい、隊に辿《たど》りつきました。全員自決のことを主計長《会計係の長》に相談すると、「やめておけ」というのです。まもなく八月十五日を迎え、隊は自動的に解散となり、その後、いろいろありましたが、法務《法律上の事務をとる》中尉の副長、と主計長、私の三人が十一月まで隊に残り残務整理に当たりました。
神津 康雄
大正8年2月生まれ
日本病院管理教育協会理事長
日本臨床内科医会前会長