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大正生まれの戦前・戦中記 その3(投稿 神津康雄)

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マーチャン

通常 大正生まれの戦前・戦中記 その3(投稿 神津康雄)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2006/4/12 13:42
マーチャン  長老 居住地: 宇宙  投稿数: 358
命がけの辺地診療

 復員後、昭和二十一年から黒川内科に戻り、学位論文の仕上げが終わった段階で、先生の指示に従い、いくつかの病院や診療所に勤めました。
 その後、昭和二十五年一月、青森県の浪岡町に町立病院をつくることを先生から命じられたのです。町外れの広い敷地に七十床の病院を建てるため、設計、建築からはじめ、職員、医師、看護婦の選任に打ち込み、昭和二十七年七月五日にやっと開院にこぎつけました。弱冠三十三歳でした。
 ところが、当時の浪岡町は自民党と共産党が血みどろの政争を展開中でした。
 町立病院は、当時の青森県としては出色の施設として注目され、折り紙つきの医療レベルを保って順調なスタートを切ったのですが、これに対抗した共産党系の人たちは昭和二十八年、町の一角に別の組合立共済病院を建設、露骨な対抗措置をとり始めました。患者の奪い合いが激しくなり、回診してみると、町立病院の入院患者が前の晩に担架で組合病院に連れ去られ、居なくなっていたなんていうこともありました。
 そのうち、院長にも矛先が向いてきました。ある雪の日、私が馬ソリで、往診に出かけると、共産党員の家から馬の尻に大きな石が投げつけられ、驚いた馬が棒立ちになりました。ソリはひつくり返り、私は抱えていた火鉢で危うく大火傷を負うところでした。親しい患者からは 「先生、気をつけないと子供さんが危ないですよ」という忠告まで受けるようになりました。
 こんな状況に大詰の時が来ました。昭和二十年六月、町民大会が開かれ、町の保健施設として町立病院、組合病院のありかたを討議することになったのです。当然、町長・助役と共産党との村決です。その日、私が外来で診察をしていると、自民党の幹部が血相変えて飛んできました。当事者の一人、助役が首を吊って死んでしまったというのです。
 咄嵯に、次は自分の命が危ないと思いました。早速、私は仙台に飛び、黒川先生にお会いし、詳しく現状を報告、転勤を願い出ました。しかし、ことはそう簡単にはいきません。東京にいる親友に電話、相談したところ「東京に出てこいよ。部屋も提供するから」ということです。そこで、急遽、荷物をまとめ、幼い子供三人を連れて一家五人で、東京へ『大脱走』ということになりました。
 浪岡の駅を発つとき、聞きつけた患者たちが、何十人も線路の周りに集まり、旗を振って別れを惜しんでくれた情景が、重い心にいつまでも残っています。


神津 康雄
大正8年2月生まれ
日本病院管理教育協会理事長
日本臨床内科医会前会長

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