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紫竹のの8月15日(2)

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紫竹の

通常 紫竹のの8月15日(2)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/5 8:21
紫竹の  一人前 居住地: 神戸  投稿数: 92
(1)から続く
私たちが参加した頃、その工場が作っていたのは、爆撃機用の比較的大きな土星(WEBで調べてみたが、見つからない。その代り火星というのがあるらしい)という名のエンジンだった。ところが、ほどなく、爆撃機よりも戦闘機用のエンジン(金星)が必要になったと言うようなことで、作るクランクシャフトがぐんと小さなものになった。一方、クランクシャフトを削りだすもとの鋳物も、材料の鉄が少なくなったのだろう、削り代《しろ》の少ないやせたものになってきた。したがって、最初、旋盤にかける時、よほどうまくセットしないと、必要な形を削りだせなくなった。実際、一度など、ほんの少し黒い皮が残ってしまったので、熟練の工員がそこをたたき出すようなことをしたことさえあった。大体、鋳物の表面と中の方は、冷える速さの違いなどから、成分も差が出るであろうし、材質が相当に違う。だから、外側は相当に削ってしまい、中の方だけを使うのが普通なのだ。それでも、やせた鋳物を使うようになったのは、それほど、本当に、資源が乏しくなっていたのだろう。

資源が乏しくなりはしたが、作業は急ぐ必要があり、2交替が3交替に変わった。
一つの勤務が何時から何時までだったか覚えていないが、とにかく、寮に帰るには都合の悪い場合は、桂駅近くのお寺に泊まることになった。今の本願寺西山別院である。桓武《かんむ》天皇の勅願《ちょくがん=天皇の祈願》によって最澄《さいちょう=平安初期の僧、日本天台宗の開祖》が創建《そうけん》したとか、由緒《ゆいしょ》ある寺であるが、私たちは何をしたであろうか。一度、やんごとなき《高貴な》方々がお使いになるであろう厠《かわや=トイレ》を、面白がって使おうとしたことがある。畳《たたみ》敷きの広い部屋、真ん中にそれらしい仕掛けと穴。座《すわ》ってみたが、つかまるところもない。下は何もなく明るく、風が吹いている。出そうなものも出なくなってしまった。

そうこうしているうち、だんだんと空襲が激しくなり、京都も危ないと言うことで、工場が疎開することになった。疎開先は、京都の東北部の松ヶ崎。今のどこに当たるのかよくわからないが、山と山との間だったように記憶している。まずしたことは、街に出て歩道の30cm角位のコンクリートタイルをはがすこと。これを、疎開先の掘っ立て小屋に敷いた砂の上に並べるのだ。そのころは、すでに、ほとんどの道路の両側には防空壕《ぼうくうごう=空襲時に逃げ込む地面に彫った穴や建造物》が掘られていたが、その場所からはがしたものも使われた。
そして、準備が出来たところから移転が始まった。今まで見たこともない大きなトレーラーに、いろんな工作機械が載せられて出て行った。私たちの職場の辺りの疎開はちょっと遅れていたが、そろそろ、行って据付《すえつけ》をやる段階になったとのことで、みんなそろって松ヶ崎まで行ったが、何が手伝えるのやら。その建物に一台のボール盤が届いた時、ちょうど昼になった。

それが8月15日だった。正午に重大な放送があると聞いていたから、近所の民家の玄関まで行った。
天皇陛下のお声は良くは聞き取れなかったのだが、それでも、戦争が終わったらしい、もう、疎開もしなくていい、と言うようなことはわかり、皆腑抜け《ふぬけ=はらわたを抜き取られたような意気地の無いありさま》のようになって、小屋に戻って座り込んでいた。その後どうしたか、良く覚えていない。あとで考えてみると、私たちが作ったクランクシャフトの使われた爆撃機は飛ぶに至ったのだろうか。あの黒皮の残ったクランクシャフトの使われた戦闘機は、幸いにして間に合わなかったのではないだろうかと言うことだ。

5ヶ月間の労働の報酬は、中学卒の公定賃金(本当はなんと呼んでいたか不明)の5か月分、200円強は、のちほど、郵便貯金通帳に入った形で支給され、自分の小遣いになったのだった。
(完)

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