Re: 阪神大震災と私
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阪神大震災と私 (kousei2, 2008/2/5 22:10)
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Re: 阪神大震災と私 (kousei2, 2008/2/5 22:14)
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Re: 阪神大震災と私 (kousei2, 2008/2/5 22:14)
kousei2
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西宮、芦屋へ……神戸へは入れず引返す
一月二十日
九時に阪急梅田に数人が集まる。水と食糧をつめたりリュックを背負って電車に乗ると、満員の乗客が殆ど同じ出で立ちだ。身内や親しい人々を案じて、かなり遠くから駆けつけた人もいる。まるで戦後の風景である。
十三《大阪淀川区内の街》を出て暫くすると、車窓から見える沿線の民家は殆ど瓦がずり落ちて、粘土の屋根が剥き出しになっている。混雑した西宮北口駅を出ると、先ず倒れかけたビルがある。
横倒しの電柱、裂けたマンション、商店街は軒並み壊れ、日本家屋は叩きつけられたように潰れて原型がない。死の街かと思う中を人が歩いている。看板も電柱も路上に倒れたままの荒廃の中を、蟻の行列のように人が歩いている。
目指す最初の岳友と偶然行き遭う。家を建て直そうと敷地に材木を入れ、近くのアパートに入居した翌日の地震だったそうだ。訪れた彼の家は、模型の紙細工のように潰れていた。近隣の民家もー様に潰れていたが、彼の敷地の真新しい材木が異様に際立っていた。
「まあ良かったですね」と、どっちつかずの挨拶をすると、〝今から生き埋めになってるという東灘の姉を掘り出しに行くので、途中まで御一緒します″と淡々と答えてくれた。
庭には、この二、三日に全国各地から届けられた救援物資が、一面に野積みされて、ボランティアの青年たちが大声で呼びあいながら走り回っている。頼もしいな、嬉しいなと頷きつつ先を急ぐ。
街なかの道路は、壊れた家屋や塀などで塞がれて、真っ直ぐには通れない。国道は大渋滞でバイクや自転車が歩行者を押し分けるようにして進む。昼過ぎ、芦屋高浜町の高層団地の三人の山仲間を訪れる。ここの建物は一見何の損傷もないようだ。
エレベーターが動かぬので、十階までの直登はさすがにこたえた。部屋に入ると中はまったく足の踏み場もない状態だ。本箱もタンスも、食器棚も冷蔵庫も、凡ゆる家具が引っくり返っている。山のベテランは〝どこから手をつけていいか、諦めに似た気分で、もう三日になるのに放ってあるんです。″と、半ば投げやりの言葉であったが、皆で水や握り飯を出して励ますと、こんな中を良く来てくれたと、喜びに顔を輝かしていた。
僕は、この団地で皆と別れ、旧友の未亡人の安否を確かめに芦屋の山手に向かう。夫の死後、長男も亡くし、残ったその嫁と幼女と三人で暮らしている人の家だ。
浜から高台まで約三キロ、きつい登りにリュックがやけに重く、瀟洒《しょうしゃ=垢抜けした》なそのマンションに辿りついた時は、眼がくらむ思いであった。美しい建物は相当な打撃を受けており、六階までの階段は、あちこち崩れている。訪ねる玄関の前には割れものを入れた紙袋が置いてあり、不在らしい。
思案していると、折よく隣家の婦人が帰って来られ、 〝お隣は東京の次男さん宅に避難されました″とのこと。やれやれ良かったと、重たいボトルを差し上げて帰途につく。
阪急の線路沿いに東に向かうと、延々と続く人の列。線路に食堂ビルが倒れていたり、長大な高架線が横倒しに塞ぐ細長い側道を、長い行列を作った人々が無言で歩き続ける。誰もがあまりにも大きな衝撃を受けて言葉を失ったようだ。それにしても何と温和な人々であることか。
我々日本人には、こうした自然の大災害は避けられないものという諦観《ていかん=悟りあきらめる》に似た思いが長い歴史の間に培《つちかわ=やしなう》われているということだろうか。
日本の政治や社会の風土の中に、この破局《悲惨な出来事》を誘発する大きな原因があるとすれば、この際日本人全体が徹底的に反省し正義に満ちた社会を創ることはできないものだろうか…・‥などなど。くたびれた頭で、そんな堂々巡りをし乍ら歩いていた。この日は神戸までとても行けなかった。帰って万歩計を見ると三万五千歩余、二十四、五キロの重荷と共に歩いたことになる。バタン、キューと眠る。
(つづく)
一月二十日
九時に阪急梅田に数人が集まる。水と食糧をつめたりリュックを背負って電車に乗ると、満員の乗客が殆ど同じ出で立ちだ。身内や親しい人々を案じて、かなり遠くから駆けつけた人もいる。まるで戦後の風景である。
十三《大阪淀川区内の街》を出て暫くすると、車窓から見える沿線の民家は殆ど瓦がずり落ちて、粘土の屋根が剥き出しになっている。混雑した西宮北口駅を出ると、先ず倒れかけたビルがある。
横倒しの電柱、裂けたマンション、商店街は軒並み壊れ、日本家屋は叩きつけられたように潰れて原型がない。死の街かと思う中を人が歩いている。看板も電柱も路上に倒れたままの荒廃の中を、蟻の行列のように人が歩いている。
目指す最初の岳友と偶然行き遭う。家を建て直そうと敷地に材木を入れ、近くのアパートに入居した翌日の地震だったそうだ。訪れた彼の家は、模型の紙細工のように潰れていた。近隣の民家もー様に潰れていたが、彼の敷地の真新しい材木が異様に際立っていた。
「まあ良かったですね」と、どっちつかずの挨拶をすると、〝今から生き埋めになってるという東灘の姉を掘り出しに行くので、途中まで御一緒します″と淡々と答えてくれた。
庭には、この二、三日に全国各地から届けられた救援物資が、一面に野積みされて、ボランティアの青年たちが大声で呼びあいながら走り回っている。頼もしいな、嬉しいなと頷きつつ先を急ぐ。
街なかの道路は、壊れた家屋や塀などで塞がれて、真っ直ぐには通れない。国道は大渋滞でバイクや自転車が歩行者を押し分けるようにして進む。昼過ぎ、芦屋高浜町の高層団地の三人の山仲間を訪れる。ここの建物は一見何の損傷もないようだ。
エレベーターが動かぬので、十階までの直登はさすがにこたえた。部屋に入ると中はまったく足の踏み場もない状態だ。本箱もタンスも、食器棚も冷蔵庫も、凡ゆる家具が引っくり返っている。山のベテランは〝どこから手をつけていいか、諦めに似た気分で、もう三日になるのに放ってあるんです。″と、半ば投げやりの言葉であったが、皆で水や握り飯を出して励ますと、こんな中を良く来てくれたと、喜びに顔を輝かしていた。
僕は、この団地で皆と別れ、旧友の未亡人の安否を確かめに芦屋の山手に向かう。夫の死後、長男も亡くし、残ったその嫁と幼女と三人で暮らしている人の家だ。
浜から高台まで約三キロ、きつい登りにリュックがやけに重く、瀟洒《しょうしゃ=垢抜けした》なそのマンションに辿りついた時は、眼がくらむ思いであった。美しい建物は相当な打撃を受けており、六階までの階段は、あちこち崩れている。訪ねる玄関の前には割れものを入れた紙袋が置いてあり、不在らしい。
思案していると、折よく隣家の婦人が帰って来られ、 〝お隣は東京の次男さん宅に避難されました″とのこと。やれやれ良かったと、重たいボトルを差し上げて帰途につく。
阪急の線路沿いに東に向かうと、延々と続く人の列。線路に食堂ビルが倒れていたり、長大な高架線が横倒しに塞ぐ細長い側道を、長い行列を作った人々が無言で歩き続ける。誰もがあまりにも大きな衝撃を受けて言葉を失ったようだ。それにしても何と温和な人々であることか。
我々日本人には、こうした自然の大災害は避けられないものという諦観《ていかん=悟りあきらめる》に似た思いが長い歴史の間に培《つちかわ=やしなう》われているということだろうか。
日本の政治や社会の風土の中に、この破局《悲惨な出来事》を誘発する大きな原因があるとすれば、この際日本人全体が徹底的に反省し正義に満ちた社会を創ることはできないものだろうか…・‥などなど。くたびれた頭で、そんな堂々巡りをし乍ら歩いていた。この日は神戸までとても行けなかった。帰って万歩計を見ると三万五千歩余、二十四、五キロの重荷と共に歩いたことになる。バタン、キューと眠る。
(つづく)