阪神大震災と私
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- 阪神大震災と私 (kousei2, 2008/2/5 22:10)
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投稿日時 2008/2/5 22:10
kousei2
投稿数: 250
これは哈爾浜《ハルピン》学院21期卒業生の同窓会誌「ポームニム21」に寄稿された馬場 正治氏の記録を、久野 公氏の許可を得て記載するものです。
まったくひどい地震だった。一月十七日未明、ド~ン!と突き上げるような上下動で、反射的に飛び起きたが、続く左右の大揺れで不安が増大した。階下の家内に、早く二階に!と大声で叫ぶ。階段の手摺りに掴まり、これは大変だぞ…と考え乍ら立っていた。明るくなって戸外に出た。幸い被害は無い模様だ。
停電も止んだのでTVをつけると、ブラウン管から混乱を極めた震源地の様子が、洪水のように溢れ出した。信じられない状況だ。神戸全域に大火災が発生しているらしい。震度、神戸六、京都五、大阪四と気象庁発表。
ちょっと話がそれるが、この気象台発表には、大阪に住む我々にとって、疑問に思うことが多い。昨年十一月から十二月にかけて猪名川町(大阪兵庫府県境にあるベッドタウン)付近を震源とする百回近い群発地震《注1》が発生し、一帯の住民や大阪の我々も少なからず不安を抱いた。気象台からは何の発表もなかった。一月に入ると揺れはピタリとなくなったが、阪神大震災のあと、再び揺れが始まった。
神戸中心の余震はすぐ報道されるが、猪名川震源の地震については一向に知らされない。二月十八日、廿七日にかなり大きな有感地震があって、地元や大阪から二千本もの間合わせ電話が殺到したためか、二十八日付、三月六日付朝日朝刊に大きく取り上げられた。
大阪管区気象台によると、地震計はそれまで、神戸、姫路、豊岡、洲本の四カ所に設置されていたが、二月十七日、北淡町、神戸垂水区、西宮市、猪名川町、大阪西淀川区の五カ所にも他の気象台から借りるなどして、やっと臨時の震度計を設置したが、「震度計の数が足りず、全震域凡てをカバーできていない」という。猪名川地震を公表すると、パニックが起こるのを警戒してのことらしいが、正確に情報を伝えることが、不安を取り除く最良の方法と思う。
役人の考え方は理解し難い。それにしても、どんな予算であるかば知らぬが、震度計の不足でカバーできないなど、お粗末を通り越して職務怠慢であると言いたい。大阪管区気象台は上町台地の堅固な岩盤の上に建っているので、沖積層《注2》の土地より揺れ方が少ないそうだ。欲求不満が高じての弁である。
一月十八日
終日TVに食いついて過ごす。神戸方面は全く連絡不能。電話はどこにも通じない。混乱した情報の飛び交う中、戦後最悪の災害が悲惨な様相で姿を現す。神戸市は開発優先で災害時の食料備蓄をしていなかったとか、神戸市株式会社は一転非難の対象となる。
とにかく、政府も県も市も、行政の対応が遅い。生き埋めになり、災に巻かれる人が画面に溢れるのに、自衛隊は、消防車はどうなっているのか。報道のヘリは飛び回っているのに、ヘリで消火はできないのか。報道よりも救助が先だ………もどかしい思いで黒煙の街を見る。何とかならぬものか……。
一月十九日
死者三千人を越すという。やりきれない思い。朝、岳友《がくゆう=山友だち》より、有志で被災地仲間の安否確認と救援に行かぬかと誘いあり、数名アベノ《大阪東部のターミナル》に集い打合せをする。西宮、芦屋、できれば神戸まで行こうと決り、携行品は各自調達することにして別れる。
帰途デパート、スーパーを探すが店頭からミネラルウォーター、ウーロン茶が姿を消している。パンもない。夕方まで走り回って、数本のボトルを手に入れた。パンも買えた。
TVは、長田区の焼跡に土くれを叩きつける放心の男を映し出していた。
(つづく)
注1.
限られた地域に比較的小さな地震が頻繁に起こる地震
注2.
約2万年以前 河川等により運ばれた腐植土 泥土が堆積して形成された層で 一般に軟弱である事が多い
まったくひどい地震だった。一月十七日未明、ド~ン!と突き上げるような上下動で、反射的に飛び起きたが、続く左右の大揺れで不安が増大した。階下の家内に、早く二階に!と大声で叫ぶ。階段の手摺りに掴まり、これは大変だぞ…と考え乍ら立っていた。明るくなって戸外に出た。幸い被害は無い模様だ。
停電も止んだのでTVをつけると、ブラウン管から混乱を極めた震源地の様子が、洪水のように溢れ出した。信じられない状況だ。神戸全域に大火災が発生しているらしい。震度、神戸六、京都五、大阪四と気象庁発表。
ちょっと話がそれるが、この気象台発表には、大阪に住む我々にとって、疑問に思うことが多い。昨年十一月から十二月にかけて猪名川町(大阪兵庫府県境にあるベッドタウン)付近を震源とする百回近い群発地震《注1》が発生し、一帯の住民や大阪の我々も少なからず不安を抱いた。気象台からは何の発表もなかった。一月に入ると揺れはピタリとなくなったが、阪神大震災のあと、再び揺れが始まった。
神戸中心の余震はすぐ報道されるが、猪名川震源の地震については一向に知らされない。二月十八日、廿七日にかなり大きな有感地震があって、地元や大阪から二千本もの間合わせ電話が殺到したためか、二十八日付、三月六日付朝日朝刊に大きく取り上げられた。
大阪管区気象台によると、地震計はそれまで、神戸、姫路、豊岡、洲本の四カ所に設置されていたが、二月十七日、北淡町、神戸垂水区、西宮市、猪名川町、大阪西淀川区の五カ所にも他の気象台から借りるなどして、やっと臨時の震度計を設置したが、「震度計の数が足りず、全震域凡てをカバーできていない」という。猪名川地震を公表すると、パニックが起こるのを警戒してのことらしいが、正確に情報を伝えることが、不安を取り除く最良の方法と思う。
役人の考え方は理解し難い。それにしても、どんな予算であるかば知らぬが、震度計の不足でカバーできないなど、お粗末を通り越して職務怠慢であると言いたい。大阪管区気象台は上町台地の堅固な岩盤の上に建っているので、沖積層《注2》の土地より揺れ方が少ないそうだ。欲求不満が高じての弁である。
一月十八日
終日TVに食いついて過ごす。神戸方面は全く連絡不能。電話はどこにも通じない。混乱した情報の飛び交う中、戦後最悪の災害が悲惨な様相で姿を現す。神戸市は開発優先で災害時の食料備蓄をしていなかったとか、神戸市株式会社は一転非難の対象となる。
とにかく、政府も県も市も、行政の対応が遅い。生き埋めになり、災に巻かれる人が画面に溢れるのに、自衛隊は、消防車はどうなっているのか。報道のヘリは飛び回っているのに、ヘリで消火はできないのか。報道よりも救助が先だ………もどかしい思いで黒煙の街を見る。何とかならぬものか……。
一月十九日
死者三千人を越すという。やりきれない思い。朝、岳友《がくゆう=山友だち》より、有志で被災地仲間の安否確認と救援に行かぬかと誘いあり、数名アベノ《大阪東部のターミナル》に集い打合せをする。西宮、芦屋、できれば神戸まで行こうと決り、携行品は各自調達することにして別れる。
帰途デパート、スーパーを探すが店頭からミネラルウォーター、ウーロン茶が姿を消している。パンもない。夕方まで走り回って、数本のボトルを手に入れた。パンも買えた。
TVは、長田区の焼跡に土くれを叩きつける放心の男を映し出していた。
(つづく)
注1.
限られた地域に比較的小さな地震が頻繁に起こる地震
注2.
約2万年以前 河川等により運ばれた腐植土 泥土が堆積して形成された層で 一般に軟弱である事が多い
kousei2
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西宮、芦屋へ……神戸へは入れず引返す
一月二十日
九時に阪急梅田に数人が集まる。水と食糧をつめたりリュックを背負って電車に乗ると、満員の乗客が殆ど同じ出で立ちだ。身内や親しい人々を案じて、かなり遠くから駆けつけた人もいる。まるで戦後の風景である。
十三《大阪淀川区内の街》を出て暫くすると、車窓から見える沿線の民家は殆ど瓦がずり落ちて、粘土の屋根が剥き出しになっている。混雑した西宮北口駅を出ると、先ず倒れかけたビルがある。
横倒しの電柱、裂けたマンション、商店街は軒並み壊れ、日本家屋は叩きつけられたように潰れて原型がない。死の街かと思う中を人が歩いている。看板も電柱も路上に倒れたままの荒廃の中を、蟻の行列のように人が歩いている。
目指す最初の岳友と偶然行き遭う。家を建て直そうと敷地に材木を入れ、近くのアパートに入居した翌日の地震だったそうだ。訪れた彼の家は、模型の紙細工のように潰れていた。近隣の民家もー様に潰れていたが、彼の敷地の真新しい材木が異様に際立っていた。
「まあ良かったですね」と、どっちつかずの挨拶をすると、〝今から生き埋めになってるという東灘の姉を掘り出しに行くので、途中まで御一緒します″と淡々と答えてくれた。
庭には、この二、三日に全国各地から届けられた救援物資が、一面に野積みされて、ボランティアの青年たちが大声で呼びあいながら走り回っている。頼もしいな、嬉しいなと頷きつつ先を急ぐ。
街なかの道路は、壊れた家屋や塀などで塞がれて、真っ直ぐには通れない。国道は大渋滞でバイクや自転車が歩行者を押し分けるようにして進む。昼過ぎ、芦屋高浜町の高層団地の三人の山仲間を訪れる。ここの建物は一見何の損傷もないようだ。
エレベーターが動かぬので、十階までの直登はさすがにこたえた。部屋に入ると中はまったく足の踏み場もない状態だ。本箱もタンスも、食器棚も冷蔵庫も、凡ゆる家具が引っくり返っている。山のベテランは〝どこから手をつけていいか、諦めに似た気分で、もう三日になるのに放ってあるんです。″と、半ば投げやりの言葉であったが、皆で水や握り飯を出して励ますと、こんな中を良く来てくれたと、喜びに顔を輝かしていた。
僕は、この団地で皆と別れ、旧友の未亡人の安否を確かめに芦屋の山手に向かう。夫の死後、長男も亡くし、残ったその嫁と幼女と三人で暮らしている人の家だ。
浜から高台まで約三キロ、きつい登りにリュックがやけに重く、瀟洒《しょうしゃ=垢抜けした》なそのマンションに辿りついた時は、眼がくらむ思いであった。美しい建物は相当な打撃を受けており、六階までの階段は、あちこち崩れている。訪ねる玄関の前には割れものを入れた紙袋が置いてあり、不在らしい。
思案していると、折よく隣家の婦人が帰って来られ、 〝お隣は東京の次男さん宅に避難されました″とのこと。やれやれ良かったと、重たいボトルを差し上げて帰途につく。
阪急の線路沿いに東に向かうと、延々と続く人の列。線路に食堂ビルが倒れていたり、長大な高架線が横倒しに塞ぐ細長い側道を、長い行列を作った人々が無言で歩き続ける。誰もがあまりにも大きな衝撃を受けて言葉を失ったようだ。それにしても何と温和な人々であることか。
我々日本人には、こうした自然の大災害は避けられないものという諦観《ていかん=悟りあきらめる》に似た思いが長い歴史の間に培《つちかわ=やしなう》われているということだろうか。
日本の政治や社会の風土の中に、この破局《悲惨な出来事》を誘発する大きな原因があるとすれば、この際日本人全体が徹底的に反省し正義に満ちた社会を創ることはできないものだろうか…・‥などなど。くたびれた頭で、そんな堂々巡りをし乍ら歩いていた。この日は神戸までとても行けなかった。帰って万歩計を見ると三万五千歩余、二十四、五キロの重荷と共に歩いたことになる。バタン、キューと眠る。
(つづく)
一月二十日
九時に阪急梅田に数人が集まる。水と食糧をつめたりリュックを背負って電車に乗ると、満員の乗客が殆ど同じ出で立ちだ。身内や親しい人々を案じて、かなり遠くから駆けつけた人もいる。まるで戦後の風景である。
十三《大阪淀川区内の街》を出て暫くすると、車窓から見える沿線の民家は殆ど瓦がずり落ちて、粘土の屋根が剥き出しになっている。混雑した西宮北口駅を出ると、先ず倒れかけたビルがある。
横倒しの電柱、裂けたマンション、商店街は軒並み壊れ、日本家屋は叩きつけられたように潰れて原型がない。死の街かと思う中を人が歩いている。看板も電柱も路上に倒れたままの荒廃の中を、蟻の行列のように人が歩いている。
目指す最初の岳友と偶然行き遭う。家を建て直そうと敷地に材木を入れ、近くのアパートに入居した翌日の地震だったそうだ。訪れた彼の家は、模型の紙細工のように潰れていた。近隣の民家もー様に潰れていたが、彼の敷地の真新しい材木が異様に際立っていた。
「まあ良かったですね」と、どっちつかずの挨拶をすると、〝今から生き埋めになってるという東灘の姉を掘り出しに行くので、途中まで御一緒します″と淡々と答えてくれた。
庭には、この二、三日に全国各地から届けられた救援物資が、一面に野積みされて、ボランティアの青年たちが大声で呼びあいながら走り回っている。頼もしいな、嬉しいなと頷きつつ先を急ぐ。
街なかの道路は、壊れた家屋や塀などで塞がれて、真っ直ぐには通れない。国道は大渋滞でバイクや自転車が歩行者を押し分けるようにして進む。昼過ぎ、芦屋高浜町の高層団地の三人の山仲間を訪れる。ここの建物は一見何の損傷もないようだ。
エレベーターが動かぬので、十階までの直登はさすがにこたえた。部屋に入ると中はまったく足の踏み場もない状態だ。本箱もタンスも、食器棚も冷蔵庫も、凡ゆる家具が引っくり返っている。山のベテランは〝どこから手をつけていいか、諦めに似た気分で、もう三日になるのに放ってあるんです。″と、半ば投げやりの言葉であったが、皆で水や握り飯を出して励ますと、こんな中を良く来てくれたと、喜びに顔を輝かしていた。
僕は、この団地で皆と別れ、旧友の未亡人の安否を確かめに芦屋の山手に向かう。夫の死後、長男も亡くし、残ったその嫁と幼女と三人で暮らしている人の家だ。
浜から高台まで約三キロ、きつい登りにリュックがやけに重く、瀟洒《しょうしゃ=垢抜けした》なそのマンションに辿りついた時は、眼がくらむ思いであった。美しい建物は相当な打撃を受けており、六階までの階段は、あちこち崩れている。訪ねる玄関の前には割れものを入れた紙袋が置いてあり、不在らしい。
思案していると、折よく隣家の婦人が帰って来られ、 〝お隣は東京の次男さん宅に避難されました″とのこと。やれやれ良かったと、重たいボトルを差し上げて帰途につく。
阪急の線路沿いに東に向かうと、延々と続く人の列。線路に食堂ビルが倒れていたり、長大な高架線が横倒しに塞ぐ細長い側道を、長い行列を作った人々が無言で歩き続ける。誰もがあまりにも大きな衝撃を受けて言葉を失ったようだ。それにしても何と温和な人々であることか。
我々日本人には、こうした自然の大災害は避けられないものという諦観《ていかん=悟りあきらめる》に似た思いが長い歴史の間に培《つちかわ=やしなう》われているということだろうか。
日本の政治や社会の風土の中に、この破局《悲惨な出来事》を誘発する大きな原因があるとすれば、この際日本人全体が徹底的に反省し正義に満ちた社会を創ることはできないものだろうか…・‥などなど。くたびれた頭で、そんな堂々巡りをし乍ら歩いていた。この日は神戸までとても行けなかった。帰って万歩計を見ると三万五千歩余、二十四、五キロの重荷と共に歩いたことになる。バタン、キューと眠る。
(つづく)
kousei2
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一月廿二日
昨夜来、友人、知己、親戚からの電話相次ぐ。交信輻輳《ふくそう=込み合う》してなかなか連絡とれぬそうだ。こちらも終日兵庫在住の学院同窓に連絡するが、やっと数人と連絡出来ただけで終わる。
一月二十二日~二十三日
佐藤同窓会長、川勝支部長、堀内先輩と連絡つき、二十五日まで同窓会本部に、被災地同窓生の安否報告を提出することを約す。
終日電話で桜木先生始め、14期西茂久、18期田村博孝、20期中山正麿、永田穎、22期沖野岩雄、小野俊雄、23期河野武、25期浜田富、藤原博、山根和人、26期橘一郎の諸兄とは連絡出来たが、尚数人とは電話不通。やや疲れて眠る。
一月二十四日
上野破魔治先輩から14期藤田大介氏が激甚地に住んでいるが連絡出来ない。調べてくれと電あり。どうしても電話の通じない尾上先生と共に尋ねるべく、一人芦屋に向かう。
うーろん茶、水などをリュックにつめて電車に乗る。今日は人の流れが激しい。阪神国道から歩いて行く。途中復旧早々の満員のJRバスに割り込むことが出来た。
途中までの今津線が何処に行くやら、バスが何処に止まるやら皆目不案内の小生に、見知らぬ誰彼がいちいち懇切に教えてくれる。爽やかな気持ちだ。道路は大渋滞である。歩行者の方が余程早い。
満員バスの渋滞の繰り返しで不覚にも気分が悪くなり、脂汗が出て困ったが、やっと芦屋駅近くで下車すると、同乗の婦人二人が一緒に降りてくれ、近くに架設トイレがあるから案内しますと、入り組んだ小路の神社まで連れていってくれ、ティッシュまで渡してくれた。こんな嬉しいことはなかった。トイレを出て、その人達が歩み去った方向に、心をこめて有難うと言った。
暫く体調を整えて藤田先輩宅へ向かう。浜側の被害がひどい。よぅやく探し当てたが、門が閉まってお留守らしい。玄関に割れた食器が出してある。行先が判らぬので近くの避難所に行くが、居られぬので戻って来ると、近所の方から、御家族は静岡と奈良に分かれて避難されたと伺い、伝言して次に向かう。
浜の手から山の手の尾上先生の家へ坂道を辿る。大分近づいたころバケツに水を汲んで帰る二人連れの姉妹らしき人に訊ねる番地を示すと、私の家に地図があるからと大通りの酒落《しゃれ》たブティックに案内された。あッ、そのお家はすぐこの上です。大変ですね……と眼で合図すると、弟らしい青年が僕が案内しますと外に出た。続いて表に出ると彼は車庫から車を出してどうぞと言う。
いやとんでもない、と固辞する僕を車に乗せてほんの一、二分、約百米も登ったろうか、余程疲れた老人に見えたのかも知れないが、この姉弟達三人の親切も忘れることが出来ない。当時大方のスタンドが閉鎖されて、貴重なガソリンだったろうに。ロイヤルというあのお店に、そのうちにお礼に立ち寄りたい。
破局的な状況の下で、人々は扶け合って苦難を乗り越えようとしている。皆隣人愛に目覚めている。何かお役に立ちたい、私に出来ることがあれば、どんなことでも……そんな善意が随所で自然に見られた。
大きな災害に遭うと、パニックになるどころか、こんなにも優しくなれる日本人に生まれてよかった。出来れば何時までもそうあって欲しいものだ。
突然の来訪を驚かれる奥さんが午睡中らしい先生を大声で起こして頂いたが、大分お疲れの様子が窺えたので、立ち話で御無事を確かめると、重たいボトルを下ろして辞去した。奥様が坂下の阪急線まで送って下さり恐縮した。
映像には映らない大災害の現実を随所に見乍ら、また長い行列の中をついて行く。それぞれの被災者を見舞った人達に笑いはなかった。
西宮中央体育館まで歩いて避難者名簿を探すが、幸い心当たりの人は居なかった。ボランティアの娘さんが温かい紅茶を勧めてくれた。
見舞いに来たのでと辞退すると、遠慮しないでどうぞと差し出され、それじゃァと紅茶よりももっと温かいものを飲みほす。今日の疲れは一度に癒された思いがした。あたりは温かいうどんやラーメンの振る舞いのはか、沢山の下着や衣類が積み上げられ、奉仕する若者たちの明るい笑顔が、被災した人たちをねぎらっていた。大阪 廿五日以降疲れからか体調優れず、風邪も引き込んで家に引きこもる。
(つづく)
昨夜来、友人、知己、親戚からの電話相次ぐ。交信輻輳《ふくそう=込み合う》してなかなか連絡とれぬそうだ。こちらも終日兵庫在住の学院同窓に連絡するが、やっと数人と連絡出来ただけで終わる。
一月二十二日~二十三日
佐藤同窓会長、川勝支部長、堀内先輩と連絡つき、二十五日まで同窓会本部に、被災地同窓生の安否報告を提出することを約す。
終日電話で桜木先生始め、14期西茂久、18期田村博孝、20期中山正麿、永田穎、22期沖野岩雄、小野俊雄、23期河野武、25期浜田富、藤原博、山根和人、26期橘一郎の諸兄とは連絡出来たが、尚数人とは電話不通。やや疲れて眠る。
一月二十四日
上野破魔治先輩から14期藤田大介氏が激甚地に住んでいるが連絡出来ない。調べてくれと電あり。どうしても電話の通じない尾上先生と共に尋ねるべく、一人芦屋に向かう。
うーろん茶、水などをリュックにつめて電車に乗る。今日は人の流れが激しい。阪神国道から歩いて行く。途中復旧早々の満員のJRバスに割り込むことが出来た。
途中までの今津線が何処に行くやら、バスが何処に止まるやら皆目不案内の小生に、見知らぬ誰彼がいちいち懇切に教えてくれる。爽やかな気持ちだ。道路は大渋滞である。歩行者の方が余程早い。
満員バスの渋滞の繰り返しで不覚にも気分が悪くなり、脂汗が出て困ったが、やっと芦屋駅近くで下車すると、同乗の婦人二人が一緒に降りてくれ、近くに架設トイレがあるから案内しますと、入り組んだ小路の神社まで連れていってくれ、ティッシュまで渡してくれた。こんな嬉しいことはなかった。トイレを出て、その人達が歩み去った方向に、心をこめて有難うと言った。
暫く体調を整えて藤田先輩宅へ向かう。浜側の被害がひどい。よぅやく探し当てたが、門が閉まってお留守らしい。玄関に割れた食器が出してある。行先が判らぬので近くの避難所に行くが、居られぬので戻って来ると、近所の方から、御家族は静岡と奈良に分かれて避難されたと伺い、伝言して次に向かう。
浜の手から山の手の尾上先生の家へ坂道を辿る。大分近づいたころバケツに水を汲んで帰る二人連れの姉妹らしき人に訊ねる番地を示すと、私の家に地図があるからと大通りの酒落《しゃれ》たブティックに案内された。あッ、そのお家はすぐこの上です。大変ですね……と眼で合図すると、弟らしい青年が僕が案内しますと外に出た。続いて表に出ると彼は車庫から車を出してどうぞと言う。
いやとんでもない、と固辞する僕を車に乗せてほんの一、二分、約百米も登ったろうか、余程疲れた老人に見えたのかも知れないが、この姉弟達三人の親切も忘れることが出来ない。当時大方のスタンドが閉鎖されて、貴重なガソリンだったろうに。ロイヤルというあのお店に、そのうちにお礼に立ち寄りたい。
破局的な状況の下で、人々は扶け合って苦難を乗り越えようとしている。皆隣人愛に目覚めている。何かお役に立ちたい、私に出来ることがあれば、どんなことでも……そんな善意が随所で自然に見られた。
大きな災害に遭うと、パニックになるどころか、こんなにも優しくなれる日本人に生まれてよかった。出来れば何時までもそうあって欲しいものだ。
突然の来訪を驚かれる奥さんが午睡中らしい先生を大声で起こして頂いたが、大分お疲れの様子が窺えたので、立ち話で御無事を確かめると、重たいボトルを下ろして辞去した。奥様が坂下の阪急線まで送って下さり恐縮した。
映像には映らない大災害の現実を随所に見乍ら、また長い行列の中をついて行く。それぞれの被災者を見舞った人達に笑いはなかった。
西宮中央体育館まで歩いて避難者名簿を探すが、幸い心当たりの人は居なかった。ボランティアの娘さんが温かい紅茶を勧めてくれた。
見舞いに来たのでと辞退すると、遠慮しないでどうぞと差し出され、それじゃァと紅茶よりももっと温かいものを飲みほす。今日の疲れは一度に癒された思いがした。あたりは温かいうどんやラーメンの振る舞いのはか、沢山の下着や衣類が積み上げられ、奉仕する若者たちの明るい笑顔が、被災した人たちをねぎらっていた。大阪 廿五日以降疲れからか体調優れず、風邪も引き込んで家に引きこもる。
(つづく)
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在籍同窓会員の無事を本部へ報告
廿八日、最後まで様子の判らなかった20期湯尾弘先輩が長田区蓮池小に避難して居られるのが判り電話で無事を確認、やっと在籍全員の無事を本部に報告する。やれやれよかった。
地震から一週間あまりの間、リュックに救急食や水、懐中電灯などをつめて枕元に置き、二人共二階で寝たが、のど元過ぎれば何とやらで、つい面倒になった。万一の場合、どちらか片方が残ったら悲劇だが、一緒に死ぬのだったら思い残すこともあるまいと、又階下で寝ることにした。
今回の地震で、神戸市の死者二六〇〇人の九六%、二二六四人は発生から十五分以内の圧死だったと云う。親や子が、夫が妻が、それぞれを瓦礫《がれき》や火の手から救い出すことが出来ず、最後まで手を握り合い励まし合い乍ら、到々かんにんしてと別れざるを得なかった惨酷《さんこく:残酷(ざんこく)に同じ。ひどくむごたらしいさま》な事実を我身に置きかえると、とても人事とは思えず涙が溢れてやまない。
この震災で傷ついた街々、人々が一日も早く立ち直って、再生への意欲を持たれる様心からお祈りする。
扨、新聞の報ずるところに依れば、我が町東淀川区にも、本年度補正予算で震度計が設置されることになったそうだ。声無き声が聞こえたのかな!
三月十日
(おわり)
廿八日、最後まで様子の判らなかった20期湯尾弘先輩が長田区蓮池小に避難して居られるのが判り電話で無事を確認、やっと在籍全員の無事を本部に報告する。やれやれよかった。
地震から一週間あまりの間、リュックに救急食や水、懐中電灯などをつめて枕元に置き、二人共二階で寝たが、のど元過ぎれば何とやらで、つい面倒になった。万一の場合、どちらか片方が残ったら悲劇だが、一緒に死ぬのだったら思い残すこともあるまいと、又階下で寝ることにした。
今回の地震で、神戸市の死者二六〇〇人の九六%、二二六四人は発生から十五分以内の圧死だったと云う。親や子が、夫が妻が、それぞれを瓦礫《がれき》や火の手から救い出すことが出来ず、最後まで手を握り合い励まし合い乍ら、到々かんにんしてと別れざるを得なかった惨酷《さんこく:残酷(ざんこく)に同じ。ひどくむごたらしいさま》な事実を我身に置きかえると、とても人事とは思えず涙が溢れてやまない。
この震災で傷ついた街々、人々が一日も早く立ち直って、再生への意欲を持たれる様心からお祈りする。
扨、新聞の報ずるところに依れば、我が町東淀川区にも、本年度補正予算で震度計が設置されることになったそうだ。声無き声が聞こえたのかな!
三月十日
(おわり)