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国破れて狡さのみあり

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kousei2

通常 国破れて狡さのみあり

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2008/2/7 17:00
kousei2  長老   投稿数: 250
これは哈爾浜学院21期卒業生の同窓会誌「ポームニム21」に1993年9月に寄稿された河西 明氏の記録を、久野 公氏の許可を得て記載するものです。

1.うたかたのように消えたシベリア開発熱

二十年程前のこと。今から考えればおかしいくらいだが、日本全国がシベリア開発熱にとりつかれて浮かれ立った時期があった。シベリアこそ残された未開の天地、あらゆる資源が眠る宝庫、これを開発することによって日本の繁栄と幸福は間違いなし、とばかりに朝野をあげて沸き立つ感があった。      

 田中角栄が首相になって日本列島改造論をぶち上げ、高度成長のアクセルを一杯に踏み込んだことが資源確保熟を煽りたてた面も確かにあった。どの本屋に行ってもシベリア開発関連の本が二十種類くらいは並んでいたし、経団連の中に作られた日ソ経済委員会にはチュメニの石油、ヤクートの天然ガス、その他大型の開発プロジェクトが目白押しに計画され、安西浩、今里広記などの財界の有力者がプロジェクトのトップに座り、互いに競い合って実現の先陣争いをする観すらあった。

それ以前は米ソが冷戟できびしく対立していたから、日本としてはアメリカの手前、ソ連とは大っぴらに貿易をすることははばかられ、僅かに左翼系の小さな友好商社がいくつか細ぼそとした取引をしているに過ぎなかった。1960年代の終わりになって米ソの雪解けが進んだためにソ連との貿易も解禁になり、大手商社が競ってモスクワに進出し始めたのもこの時期であった。

それまで長年にわたって日ソ間にはほとんど交流はなかったから、一般にはシベリアもソ連も、またロシア人そのものについても知るところは少なかった。未知の分野には夢があり、バラ色に見えるものだ。

 かくてシベリア開発の各プロジェクトの調査・交渉の代表団の往来はひきもきらず活発をきわめたのだが、三年、四年と経つうちに、いつしか日本側にはしだいにしらけムードが広がってきて、一時はあれほど喧伝されたシベリア開発も結局、あまり後世に遺すべきものもなく、風船のようにしぼんでしまった。

木材や石炭などプロジェクトの名で成約したものも二、三あるにはあったが、これは従来からあったものに新プロジェクトの看板をかけ直しただけのもので、本来の意味での資源開発事業は結局、何も実現するに至らなかった。

なぜ日本が醒めてしまったのか、根本的な理由はいろいろな交渉過程でソ連なるもの、ロシア人というものが分かってきたからと断言していい。一体全体本当に付き合える相手なのか、という不信感が広がってしまったのである。酔って美人と寝たつもりが、翌朝見たら狸だった、というようなものだ。

                       (つづく)

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