Re: 国破れて狡さのみあり
投稿ツリー
-
国破れて狡さのみあり (kousei2, 2008/2/7 17:00)
-
Re: 国破れて狡さのみあり (kousei2, 2008/2/7 17:03)
-
Re: 国破れて狡さのみあり (kousei2, 2008/2/7 17:05)
-
Re: 国破れて狡さのみあり (kousei2, 2008/2/7 17:09)
- Re: 国破れて狡さのみあり (kousei2, 2008/2/7 17:10)
-
Re: 国破れて狡さのみあり (kousei2, 2008/2/7 17:09)
-
Re: 国破れて狡さのみあり (kousei2, 2008/2/7 17:05)
-
Re: 国破れて狡さのみあり (kousei2, 2008/2/7 17:03)
kousei2
投稿数: 250
2.
海外での開発事業は資源のあるなしだけでなく、協力する相手の信頼性が大きなファクターだが、この点で首をひねらざるを得ないような事象がいろいろ出て来たのである。
一例を挙げると、西シベリアのチュメニ油田から極東までパイプラインを引いて石油を輸入する超大型案件があって、何回も代表団を派遣して調査折衝を重ねていたのだが、ある日突然ソ連側が、パイプラインではなく貨車を使って輸出するから鉄道建設に協力せよと言い出した。当時建設中だった第二シベリア鉄道のことである。
当時、ブレジネフは全国にハッパをかけてこの建設を急がせ、完工日を設定してウクライナなどの遠隔地から学生作業隊などまで狩り集めて大車輪で建設を進めていたが、地形・環境など困難が多く、思うように進捗していなかった。
たまたま日本が石油輸入を熱望していることを奇貨として輸送方法を変更する、という口実で日本をこの建設に引きずり込もうとしたのである。このプロジェクトの構想は、日本側とすれば、石油を輸入することのほかに、大口径のパイプを長期大量に輸出することに眼目があったから、鉄道に切り替えたりされればほとんど意味がなくなるのである。
のみならず、この第二シベリア鉄道は軍事的性格が強いから、日本がその建設に協力すれば大きな国際問題になることは目に見えていた。さらに貨車では到底所要量の輸送は不可能、という技術上の一欺瞞性も明らかになり、日本の代表団は唖然として帰国してしまった。これではシラけるのも当然だろう。これに酷似した最近の事例もあるが、しばらく措く。
こうした昔の話をなぜ今するのかというとそれはここ二、三年あの国が市場経済への移行という大変革をおっぽじめたのはいいが、何一つうまく行かずに混乱が広がる一方なのを眺めて、あの果てしもない紊乱も、日本人の心に大きな不信感を植え付けただけに終わったシベリア開発も、つまりは同じ根っこから発生しているのだ、という感が強いからである。
その根とは一口で言えば国民の精神構造である。どのような精神構造か、といえば、それは「ふてぶてしい」とか「〝ど″あつかましい」としか形容のしようがない略奪志向がドンと居座っていて、これは日本人の精神構造とは根本的に異なるのである。この決定的な違いは、同じ人間でも、いくら交流を深めようが議論しようが、所詮理解も克服も出来ない代物だと思う。
同じ人間でも、と言ったが、「これでも同じ人類なのか」とつくづく嘆息させられたことも一再ではない。
ジンギスカンのモンゴル兵が欧州に侵入して殺我と掠奪をほしいままにした頃、欧州人は彼らを〝地獄の民″と呼んだ。近世における〝地獄の民〟は、あるいはロシア人ではないのか、とさえ思ったことも何度かある。
「そんなことはない。ロシア人は人がよいし、実に親切ではないか。すばらしいロシア文学やチャイコフスキーはどうなる」と反論する向きもあろう。たしかに善人は多いし、ふだんは親切だ。教育や文化のレベルも高いし、四六時中、人から奪い取っているわけでもない。
ただ、あの民族の善人や親切な人を含めた国民各人の深部には、桃や梅干しのど真ん中に硬い核があるように、残忍極まる掠奪指向が厳として存在し、獲物が手に入りそうだとなるとカメレオンの舌のように不意にとび出してくる。それが外部に発散しては、恥知らずの欺瞞行為となって東洋の君子国を唖然とさせ、内部に向かってはお互い同士の果てもない奪い合いとなって社会の無秩序を生み出す。
これが裸で走り回っているアフリカの原住民なら、その心の奥底から、どんな意外なものが飛び出そうが誰も驚くまいが、とにもかくにも超大国の民で、背広も着ているし挨拶も心得ているから、外見同様その中身も思考もわれわれと同じであろうと思うのが日本人の精神構造で、それだからこそ被害者は一方的に常に日本側なのである。彼らときたら時と場所に応じ、いつでも〝地獄の民〟に変身することが出来るのである。
(つづく)
海外での開発事業は資源のあるなしだけでなく、協力する相手の信頼性が大きなファクターだが、この点で首をひねらざるを得ないような事象がいろいろ出て来たのである。
一例を挙げると、西シベリアのチュメニ油田から極東までパイプラインを引いて石油を輸入する超大型案件があって、何回も代表団を派遣して調査折衝を重ねていたのだが、ある日突然ソ連側が、パイプラインではなく貨車を使って輸出するから鉄道建設に協力せよと言い出した。当時建設中だった第二シベリア鉄道のことである。
当時、ブレジネフは全国にハッパをかけてこの建設を急がせ、完工日を設定してウクライナなどの遠隔地から学生作業隊などまで狩り集めて大車輪で建設を進めていたが、地形・環境など困難が多く、思うように進捗していなかった。
たまたま日本が石油輸入を熱望していることを奇貨として輸送方法を変更する、という口実で日本をこの建設に引きずり込もうとしたのである。このプロジェクトの構想は、日本側とすれば、石油を輸入することのほかに、大口径のパイプを長期大量に輸出することに眼目があったから、鉄道に切り替えたりされればほとんど意味がなくなるのである。
のみならず、この第二シベリア鉄道は軍事的性格が強いから、日本がその建設に協力すれば大きな国際問題になることは目に見えていた。さらに貨車では到底所要量の輸送は不可能、という技術上の一欺瞞性も明らかになり、日本の代表団は唖然として帰国してしまった。これではシラけるのも当然だろう。これに酷似した最近の事例もあるが、しばらく措く。
こうした昔の話をなぜ今するのかというとそれはここ二、三年あの国が市場経済への移行という大変革をおっぽじめたのはいいが、何一つうまく行かずに混乱が広がる一方なのを眺めて、あの果てしもない紊乱も、日本人の心に大きな不信感を植え付けただけに終わったシベリア開発も、つまりは同じ根っこから発生しているのだ、という感が強いからである。
その根とは一口で言えば国民の精神構造である。どのような精神構造か、といえば、それは「ふてぶてしい」とか「〝ど″あつかましい」としか形容のしようがない略奪志向がドンと居座っていて、これは日本人の精神構造とは根本的に異なるのである。この決定的な違いは、同じ人間でも、いくら交流を深めようが議論しようが、所詮理解も克服も出来ない代物だと思う。
同じ人間でも、と言ったが、「これでも同じ人類なのか」とつくづく嘆息させられたことも一再ではない。
ジンギスカンのモンゴル兵が欧州に侵入して殺我と掠奪をほしいままにした頃、欧州人は彼らを〝地獄の民″と呼んだ。近世における〝地獄の民〟は、あるいはロシア人ではないのか、とさえ思ったことも何度かある。
「そんなことはない。ロシア人は人がよいし、実に親切ではないか。すばらしいロシア文学やチャイコフスキーはどうなる」と反論する向きもあろう。たしかに善人は多いし、ふだんは親切だ。教育や文化のレベルも高いし、四六時中、人から奪い取っているわけでもない。
ただ、あの民族の善人や親切な人を含めた国民各人の深部には、桃や梅干しのど真ん中に硬い核があるように、残忍極まる掠奪指向が厳として存在し、獲物が手に入りそうだとなるとカメレオンの舌のように不意にとび出してくる。それが外部に発散しては、恥知らずの欺瞞行為となって東洋の君子国を唖然とさせ、内部に向かってはお互い同士の果てもない奪い合いとなって社会の無秩序を生み出す。
これが裸で走り回っているアフリカの原住民なら、その心の奥底から、どんな意外なものが飛び出そうが誰も驚くまいが、とにもかくにも超大国の民で、背広も着ているし挨拶も心得ているから、外見同様その中身も思考もわれわれと同じであろうと思うのが日本人の精神構造で、それだからこそ被害者は一方的に常に日本側なのである。彼らときたら時と場所に応じ、いつでも〝地獄の民〟に変身することが出来るのである。
(つづく)