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戦前の赤坂表町の思い出・その2 大正14年生まれのY

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通常 戦前の赤坂表町の思い出・その2 大正14年生まれのY

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/12/27 9:51
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 3.

 戦前の赤坂表町界隈

 大叔父邸は現在の地名でいえば「港区赤坂7丁目3番地」。
 青山1丁目の交差点からみて、草月会館の手前。現在の高橋是清公園の場所である。
 しかし、広さから言うと、高橋是清公園の約2倍はあった。すなわち奥行きが高橋是清公園のほぼ2倍ほどあったのである。(当時の高橋是清邸も同様、広さが草月会館の約2倍。奥行きも大叔父邸と同じであった)。

 私の、やや不確かな記憶ではーーー
 青山1丁目の交差点から東側の角が「青山公設市場」、その東が「三一教会」、次が「赤坂郵便局」で、続いてやや小さなお邸が3軒。その次の家が「大叔父邸」。そして、道路を隔てて「高橋是清邸」ということになる。

 さて、この大叔父邸であるが、大叔父の養母の大葬儀が営まれた(大伯母の葬儀もこの邸で営まれた)ときには、終了後の後片付けが大変であった。室内一面に張り巡らされた幕の取り外し等で、家族や親戚筋は邸内に居場所がない。

 そこで、一同、赤坂4丁目7番地表(おもて)のクラシック音楽喫茶「珈琲園」へ行き、ここでベートーベン交響曲第5番ハ短調(運命)を、何もわからないながら長々と聞き入るはめになったのであった。

 また、青山1丁目交差点から西側4-5軒目に「石勝石材店」という大きな店があったが、昭和11年秋当時、店内で「中村家(け)の墓」という墓石を彫っていた。(当時からこの南側に「青山墓地」があったためそういう需要があったものと考えられる)

 大叔父邸から電車通りを挟んで北側は、今は三笠宮邸となっているが三笠宮崇仁親王が宮家を創設されたのは1935年(お生まれは1915年)。
 1934年当時は高松宮邸があり、1936年に高松宮邸が港区高輪2丁目に移られてから、三笠宮がここ(港区元赤坂2丁目)に入られたのだと思う。

 何しろ屋敷の前が、いきなり青山通りであり、渋谷方面から赤坂見附に向かう市電と、その逆もあり、5-6分毎に電車が通過するので、窓を開けていると結構煩い。トラックが何台も通ると余計そうだった。

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