自由主義者の父と韓国入学生との絆 5 (みどりのかぜ 29号より)
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自由主義者の父と韓国入学生との絆(みどりのかぜ 29号より) (編集者, 2011/5/6 7:32)
- 自由主義者の父と韓国入学生との絆 2 (みどりのかぜ 29号より) (編集者, 2011/5/7 8:46)
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- 自由主義者の父と韓国入学生との絆 5 (みどりのかぜ 29号より) (編集者, 2011/5/10 9:29)
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5.思い出の引き出しの把手(とって)はマツコリ
この夏の猛暑で晩酌は専らビールからマッコリに変え、肴はナムル(薬物?)やキムチ類、明太子、明太の干物、トルキムなどで腹を満たしてから寝床にバタンキューで快眠、六時前後には起床できる。どうもこの年齢に達した体には韓国式での食事が体質にあっているように思える。糖尿病の定期検査でもすべての検査項目はクリアされ、医師から「頑張っていますね、この調子を続けましょう」と褒められた。あとは腹八分目で体重コントロールと毎日一万歩は歩くことを心掛け、車の運転は控えている。但し聴力は衰えて補聴器使用の煩わしさが増えた。
父が韓国入学生との連携を深め得たのは母の韓国料理での支援があったからだと思う。いわば父の教育信念は母の「内助」によって支えられていたのだといえるが、これは軍国少年時代の私への両親からの遺産だったのだと思うに至り、その後に特に、教師になってからの近現代史の学習や思想形成の縁(よすが)になった。断片的だった思い出の数々は系統的、時系列的に組み立てられて 「そうだったのか」と、その連鎖で近代史が走馬灯のように見えてきて、父が韓国に移住した理由も首肯(うなず)けた。マッコリを飲んではこうした忘却の彼方にあった記憶を引き出している。敗戦後の食糧難の時代を潜り抜け、三人で一緒に暮らそうと言っていた父も、その矢先に五一歳でこの世を去り、その後は生活に追われ、両親の墓を建て得たのは父の他界から三〇年も経ってからである。存命ならば親孝行したいのにと思っても叶(かな)えられない。しかし現在まで生きて来られたのは地下から両親が「私たちの分を生きよ」と守ってくれているのだとの思いで、それに応えて両親の他界時年齢の合計八九歳までは生きることが、せめてもの親孝行と思いつつ過ごしている今日この頃である。
-完-