Re: 「特集」私が小学生だった頃
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「特集」私が小学生だった頃ー2 (らごら, 2004/3/8 9:06)
- Re: 「特集」私が小学生だった頃 (あんみつ姫, 2004/3/8 11:23)
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Re: 「特集」私が小学生だった頃ー2 (マーチャン, 2004/3/8 17:01)
- Re: 「特集」私が小学生だった頃 (らごら, 2004/3/9 8:53)
- Re: 「特集」私が小学生だった頃 (変蝠林, 2004/3/9 19:08)
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Re: 「特集」私が小学生だった頃 (マーチャン, 2004/3/9 20:34)
- Re: 「特集」私が小学生だった頃 (あんみつ姫, 2004/3/9 22:58)
- Re: 「特集」私が小学生だった頃 (あんみつ姫, 2004/3/9 23:07)
らごら
居住地: 横須賀市
投稿数: 46
あんみつ姫さん
引用:
ラジオは終戦後は朝鮮語に変わったけれど、引き揚げ情報と簡単なニュースだけは日本語だった。
あれは11月頃だったか? やっと僕らの引き揚げの順番が回ってきた。
家財道具などの送付は不許可、担《かつ》げるだけの荷物だけ許可、荷物に車を付けて引きずるのも不許可だった。
また、貴金属なども駄目、現金も一人あたり幾らと決められていた。金額は忘れたけれど釜山(プサン)の港で米兵による所持品と持参金の検査があって、オーバーしたら取り上げられると云《い》う。母は毎晩服の裏地を剥《は》がしては日本円(当時は日本本土のお札と朝鮮銀行券があった)をくしゃくしゃに揉《も》んでは縫い込んでいた。米兵の検査を逃れるためだ。
やがて、京城(ソウル)駅までのトラックが来て、近所の人たちと共に荷台に乗り込んだ。家財道具一切を残したままで。
親しくしていた韓国人が、「これ長持ちするから 途中の食事にして下さい」と、餅米の粉で作った「らくがん」のような感じの保存食を呉れた。
貨物列車は荷物と人とでぎゅうぎゅう詰め、僕ら子供は荷物と天井との隙間にかろうじて潜り込んだ。
時々、貨車にガンガンと外からの投石があった。
夜中にどこかの駅に停車すると、みんな外へ駆け出してその辺に出すものを出してくる。「汽車が出るぞー」と叫ぶ奴がいる。そうは云っても汽車はなかなか発車しない。これは嘘《うそ》なんだ。
釜山(プサン)に着いたが船に乗る順番が来ない。
釜山の大きな寺に2・3日仮宿泊。食べ物は境内に韓国人が売りに来るが、日本円は朝鮮円よりかなり安くして売られている。足元を見られている。
やがて船に乗る順番が来た。皆重い荷物を背負って歩き出す。
周りを韓国人が取り囲んで見物しながら「ざまーみろ」「馬鹿野郎」「そーれみろ いい気味だ」などと鬱憤《うっぷん=心に積もった恨み》をはらしている中を、みんな下を向いて黙々と歩く。
やがて引き揚げ船が見えてきた。日本から来た韓国人がその船から下りてくるのが見える。もたもた歩いていると米兵が「ハバハバー」などと云《い》いながら細い棒状のもので韓国人の尻を叩いている。僕らもあんな風にせき立てられるのかと不安になる。
桟橋《さんばし》では米兵に荷物と所持金の検査を受ける。
父は若干《じゃっかん=幾らか》多めに現金を持っていたようだ。米兵が何やら喚《わめ》いている。横から英語が分かる奴が「多すぎると云ってるよ」と教えてくれた。父はそういうときの為に用意したらしい妖《あや》しげな浮世絵を差し出してお前にやると手真似したら、米兵はピューッピュッと口笛を吹いて左手で輪を作り、右手の人差し指をそれに出し入れしながら、手真似でやりたくなるからいらない。と言ってそのまま通してくれた。
船に乗るとき、さすがに荷が重すぎて僕は後ろにひっくり返って起きあがれない。泣いていると急に身体がふわーっと宙に浮いた。引き揚げ情景を見物していた米兵が起こしてくれたのだった。
やっとの思いで船に乗り込むと同時にばったり倒れてしまった。それを見ていた人が「これ心臓の薬だ」と云って錠剤を呉れた。
仙崎の港から見た初めての本土は実に美しかった。
仙崎では2日ばかり民宿に泊まったが、民宿には引揚者の接待用としての手当が政府からなされているそうだ。
仙崎の駅のプラットホームで父の古里、福井へ行くための列車を待っている間、反対側のホームに家族連れの米兵を満載した列車が入ってきた。「ハロー」とやったら、あっちの窓からそっちの窓からキャンデー・チョコレート・ココア・ビスケットなどがびゅんびゅん飛んできた。
あんな旨いものは何年ぶりだったことか。列車の中ではそれを見ていた人が、絶対に取らないから見せてくれと云ってそれを手に取ってみて「こんなものを食っている奴らと戦争したんだから 勝てるわけないよなー」と言った。
らごら
引用:
引揚船の様子など、覚えていらしたらお話し頂けると嬉しいです
ラジオは終戦後は朝鮮語に変わったけれど、引き揚げ情報と簡単なニュースだけは日本語だった。
あれは11月頃だったか? やっと僕らの引き揚げの順番が回ってきた。
家財道具などの送付は不許可、担《かつ》げるだけの荷物だけ許可、荷物に車を付けて引きずるのも不許可だった。
また、貴金属なども駄目、現金も一人あたり幾らと決められていた。金額は忘れたけれど釜山(プサン)の港で米兵による所持品と持参金の検査があって、オーバーしたら取り上げられると云《い》う。母は毎晩服の裏地を剥《は》がしては日本円(当時は日本本土のお札と朝鮮銀行券があった)をくしゃくしゃに揉《も》んでは縫い込んでいた。米兵の検査を逃れるためだ。
やがて、京城(ソウル)駅までのトラックが来て、近所の人たちと共に荷台に乗り込んだ。家財道具一切を残したままで。
親しくしていた韓国人が、「これ長持ちするから 途中の食事にして下さい」と、餅米の粉で作った「らくがん」のような感じの保存食を呉れた。
貨物列車は荷物と人とでぎゅうぎゅう詰め、僕ら子供は荷物と天井との隙間にかろうじて潜り込んだ。
時々、貨車にガンガンと外からの投石があった。
夜中にどこかの駅に停車すると、みんな外へ駆け出してその辺に出すものを出してくる。「汽車が出るぞー」と叫ぶ奴がいる。そうは云っても汽車はなかなか発車しない。これは嘘《うそ》なんだ。
釜山(プサン)に着いたが船に乗る順番が来ない。
釜山の大きな寺に2・3日仮宿泊。食べ物は境内に韓国人が売りに来るが、日本円は朝鮮円よりかなり安くして売られている。足元を見られている。
やがて船に乗る順番が来た。皆重い荷物を背負って歩き出す。
周りを韓国人が取り囲んで見物しながら「ざまーみろ」「馬鹿野郎」「そーれみろ いい気味だ」などと鬱憤《うっぷん=心に積もった恨み》をはらしている中を、みんな下を向いて黙々と歩く。
やがて引き揚げ船が見えてきた。日本から来た韓国人がその船から下りてくるのが見える。もたもた歩いていると米兵が「ハバハバー」などと云《い》いながら細い棒状のもので韓国人の尻を叩いている。僕らもあんな風にせき立てられるのかと不安になる。
桟橋《さんばし》では米兵に荷物と所持金の検査を受ける。
父は若干《じゃっかん=幾らか》多めに現金を持っていたようだ。米兵が何やら喚《わめ》いている。横から英語が分かる奴が「多すぎると云ってるよ」と教えてくれた。父はそういうときの為に用意したらしい妖《あや》しげな浮世絵を差し出してお前にやると手真似したら、米兵はピューッピュッと口笛を吹いて左手で輪を作り、右手の人差し指をそれに出し入れしながら、手真似でやりたくなるからいらない。と言ってそのまま通してくれた。
船に乗るとき、さすがに荷が重すぎて僕は後ろにひっくり返って起きあがれない。泣いていると急に身体がふわーっと宙に浮いた。引き揚げ情景を見物していた米兵が起こしてくれたのだった。
やっとの思いで船に乗り込むと同時にばったり倒れてしまった。それを見ていた人が「これ心臓の薬だ」と云って錠剤を呉れた。
仙崎の港から見た初めての本土は実に美しかった。
仙崎では2日ばかり民宿に泊まったが、民宿には引揚者の接待用としての手当が政府からなされているそうだ。
仙崎の駅のプラットホームで父の古里、福井へ行くための列車を待っている間、反対側のホームに家族連れの米兵を満載した列車が入ってきた。「ハロー」とやったら、あっちの窓からそっちの窓からキャンデー・チョコレート・ココア・ビスケットなどがびゅんびゅん飛んできた。
あんな旨いものは何年ぶりだったことか。列車の中ではそれを見ていた人が、絶対に取らないから見せてくれと云ってそれを手に取ってみて「こんなものを食っている奴らと戦争したんだから 勝てるわけないよなー」と言った。
らごら