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Re: 「特集」私が小学生だった頃

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変蝠林

通常 Re: 「特集」私が小学生だった頃

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/3/9 19:08
変蝠林  半人前 居住地: 横浜市 オオクラヤマ  投稿数: 22
静岡城内東小学校を卒業したのが昭和五年だからピカピカの一年生は大正十四年の筈《はず》。其《そ》の頃は洋服着物半々位、みんな洟垂れ《はなたれ》小僧で袖が鼻汁でピカピカ。下駄《げた》草履《ぞうり》が多かったが私は何故《なぜ》か洋服に靴だった。

三年生の時に多分尾崎市長の英断と思われる男女同級の走りの組に選ばれ、是《これ》も有名な牛田先生の受持ち。

結局六年間同じ先生に着いて廻《まわ》ったのは幸運だったと思う。男女同級は一年間だけだったが佐橋不二江と言う名前を未だに記憶して居るのだから若しやあれが初恋?

五年生の時ボーイスカウトが編成されて所謂《いわゆる》カブの走りをやった。赤いネッカチーフと六尺棒《ろくしゃくぼう=樫などで作った1,7メートルぐらいの警棒》に腰縄《こしなわ=罪人等をしばるなわ》(実名は忘れた)がプライドを満足させた。

天長節《てんちょうせつ=天皇誕生日》は勿論《もちろん》、祝日には校長先生が恭《うやうや》しく奉安殿《ほうあんでん=天皇のお写真や勅語などを置く建造物》から勅語を捧持《ほうじ=ささげ持つ》して朗々と読み、其《そ》の間の直立不動は辛かったが終わると出た紅白の御饅頭《おまんじゅう》を貰《もら》ってルンルン帰宅。

六年生の夏に浜名湖でキャンプ。修学旅行は伊勢神宮迄汽車の旅。

城内には東と西の二校があって互いに対抗心を隠さなかった。後日妻となったY-CATは西小学校出身だと判《わか》ったが外堀の蓮《はす》の実を齧《かじ》った話は同じ思い出であった。

内堀と外堀には今も石垣が残り城内は静岡第三十四練隊だったが今は公園になって営門《えいもん=兵営の門》に建った橘大隊長の銅像は消え去った。

小学校の六年間には済南事変《さいなんじへん=1928年中国山東省済南で日本軍が起こした戦闘》こそあったが未だ戦時色は無く最後の大正浪漫《たいしょうろうまん》が尾を曳《ひ》いて居た良き時代であったと思う。

低学年の頃は床屋《とこや=理髪店》の丁稚《でっち=雑役に従事する年少の労働者》に連れられて七軒町へ七ブラ《=七軒町をぶらぶら歩く》に出掛けた。
アセチレン瓦斯《アセチレンガス=屋外の灯火用、有毒》の匂《にお》いが未だに記憶に残る。蚤《のみ》《つぶ》しも楽しかった。

友人に活動小屋《映画館》の子が居て目玉の松ちゃん《=尾上松の助・映画俳優》や高木新平《=映画俳優》のチャンバラ《刀で切り合うこと》
を無銭《むせん=ただ》で良く見た。 切りの無い話だから先ずは此《こ》れ迄《まで》。 御免《ごめん》






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変蝠林

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