「特集」私が小学生だった頃ー2
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- 「特集」私が小学生だった頃ー2 (らごら, 2004/3/8 9:06)
- Re: 「特集」私が小学生だった頃 (あんみつ姫, 2004/3/8 11:23)
- Re: 「特集」私が小学生だった頃ー2 (マーチャン, 2004/3/8 17:01)
- Re: 「特集」私が小学生だった頃 (らごら, 2004/3/9 8:53)
- Re: 「特集」私が小学生だった頃 (変蝠林, 2004/3/9 19:08)
- Re: 「特集」私が小学生だった頃 (マーチャン, 2004/3/9 20:34)
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投稿日時 2004/3/8 9:06
らごら
居住地: 横須賀市
投稿数: 46
僕は昭和15年入学 京城府桜井町(現ソウル乙支路4街)にある桜井小学校でした。
木造二階建ての立派な校舎で、正門を内側から見て右側に楠公正成《なんこうまさしげ=南北朝時代(1336~1392)の忠臣、楠木正成》が馬に乗っている銅像が、左側には薪《たきぎ》を背負って歩きながら本を読んでいる二宮金次郎《にのみやきんじろう=二宮尊徳、江戸末期の篤農家で600あまりの町村を復興させた》の銅像がありました。
紀元節《きげんせつ=神武天皇即位の日》(現建国記念日)には全員講堂で勅語《ちょくご=天皇のお言葉、教育勅語》を拝聴しました。
教室には石炭を燃やすストーブがあり、10時頃になると大型の蒸し器様の容器に、生徒全員の弁当箱を入れてストーブで暖めました。弁当には色々なおかずが入っているので異様な匂《にお》いしました。蒸し器の下に入れるほど暖かく、上の方はほとんど暖まらないことがあり、出来るだけ下に入れようと争ったものでした。
昼食時にはアルミ製の弁当箱の蓋《ふた》にお湯が配られました。
戦争が始まってから、栄養補給ということで、全員に毎日肝油《かんゆ=ビタミンA・Dを含む》が配られました。はじめの頃は1cm角程度のサイコロ型のゼリー状でザラメ《=粒の大きい砂糖》がまぶしてあったのが2個だったけれど、後にメガネ肝油といって大豆程度の大きさの味も素っ気もない堅い肝油に変わりました。
小学5年になった頃は、兵隊さんが水筒を提《さ》げるための革製品などをみんなで作らされましたが、僕は不器用なため何時も残されて何度も作り替えさせられたものです。
そうこうする内、学校の校舎は兵舎として使われ、僕らは自宅で自習ということになりました。だから5年生と6年生のときは勉強は殆ど《ほとんど》やっていません。
なお、6年生のとき終戦になって日本に引き揚げてきました。
だから、日本での再入学は5年生からやり直しました。
らごら
木造二階建ての立派な校舎で、正門を内側から見て右側に楠公正成《なんこうまさしげ=南北朝時代(1336~1392)の忠臣、楠木正成》が馬に乗っている銅像が、左側には薪《たきぎ》を背負って歩きながら本を読んでいる二宮金次郎《にのみやきんじろう=二宮尊徳、江戸末期の篤農家で600あまりの町村を復興させた》の銅像がありました。
紀元節《きげんせつ=神武天皇即位の日》(現建国記念日)には全員講堂で勅語《ちょくご=天皇のお言葉、教育勅語》を拝聴しました。
教室には石炭を燃やすストーブがあり、10時頃になると大型の蒸し器様の容器に、生徒全員の弁当箱を入れてストーブで暖めました。弁当には色々なおかずが入っているので異様な匂《にお》いしました。蒸し器の下に入れるほど暖かく、上の方はほとんど暖まらないことがあり、出来るだけ下に入れようと争ったものでした。
昼食時にはアルミ製の弁当箱の蓋《ふた》にお湯が配られました。
戦争が始まってから、栄養補給ということで、全員に毎日肝油《かんゆ=ビタミンA・Dを含む》が配られました。はじめの頃は1cm角程度のサイコロ型のゼリー状でザラメ《=粒の大きい砂糖》がまぶしてあったのが2個だったけれど、後にメガネ肝油といって大豆程度の大きさの味も素っ気もない堅い肝油に変わりました。
小学5年になった頃は、兵隊さんが水筒を提《さ》げるための革製品などをみんなで作らされましたが、僕は不器用なため何時も残されて何度も作り替えさせられたものです。
そうこうする内、学校の校舎は兵舎として使われ、僕らは自宅で自習ということになりました。だから5年生と6年生のときは勉強は殆ど《ほとんど》やっていません。
なお、6年生のとき終戦になって日本に引き揚げてきました。
だから、日本での再入学は5年生からやり直しました。
らごら
あんみつ姫
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 485
らごらさん、こんにちは!
私が小学校に通ったのは終戦後、1950年頃からですがやっぱり二宮金次郎の銅像がありました。
でもサスガに、楠 正成はありませんでしたよ。
「青葉茂れる・・」は知ってますけど・・('-'*)
戦後も戦後の学校教育では、紀元節の行事も教育勅語もありませんでしたね。
2004年の今日、金次郎の銅像のある小学校はあるのでしょうか?
引用:
教室には石炭を燃やすストーブがあり、10時頃になると大型の蒸し器様の容器に、生徒全員の弁当箱を入れてストーブで暖めました。
私が通った小学校は給食でしたが、中学に行くとお弁当で、早く中学に行きたかったものです。
学校は名古屋市内でしたが、やっぱり冬の間はお弁当をストーブの上で温める容器を使っていましたっけ。
終戦後の小学校では、もう軍需用品《ぐんじゅようひん=軍隊が必要とする用品》を作ることもなく、小学生の仕事は専ら《もっぱら》勉強で、写生や遠足、臨海学校、林間学校などの行事がありましたっけ。
私が小学生の頃は、衛生事情が悪かったからでしょうか、回虫《かいちゅう=寄生虫》駆除の「海人草」《かいにんそう=回虫駆除薬、マクリ》というドロッとした液体を学校で飲まされて、とても気持ちが悪かったのを覚えています
引用:
なお、6年生のとき終戦になって日本に引き揚げてきました。
引揚船の様子など、覚えていらしたらお話し頂けると嬉しいです
私が小学校に通ったのは終戦後、1950年頃からですがやっぱり二宮金次郎の銅像がありました。
でもサスガに、楠 正成はありませんでしたよ。
「青葉茂れる・・」は知ってますけど・・('-'*)
戦後も戦後の学校教育では、紀元節の行事も教育勅語もありませんでしたね。
2004年の今日、金次郎の銅像のある小学校はあるのでしょうか?
引用:
教室には石炭を燃やすストーブがあり、10時頃になると大型の蒸し器様の容器に、生徒全員の弁当箱を入れてストーブで暖めました。
私が通った小学校は給食でしたが、中学に行くとお弁当で、早く中学に行きたかったものです。
学校は名古屋市内でしたが、やっぱり冬の間はお弁当をストーブの上で温める容器を使っていましたっけ。
終戦後の小学校では、もう軍需用品《ぐんじゅようひん=軍隊が必要とする用品》を作ることもなく、小学生の仕事は専ら《もっぱら》勉強で、写生や遠足、臨海学校、林間学校などの行事がありましたっけ。
私が小学生の頃は、衛生事情が悪かったからでしょうか、回虫《かいちゅう=寄生虫》駆除の「海人草」《かいにんそう=回虫駆除薬、マクリ》というドロッとした液体を学校で飲まされて、とても気持ちが悪かったのを覚えています
引用:
なお、6年生のとき終戦になって日本に引き揚げてきました。
引揚船の様子など、覚えていらしたらお話し頂けると嬉しいです
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あんみつ姫
マーチャン
居住地: 宇宙
投稿数: 358
らごらさん
お越しいただきまして、ありがとうございました。
引用:
やはり、そうでしたか。
我々の学校では、ストーブの周りに並べていました。
当時のお弁当箱は、アルミニュームかアルマイトだったのでしょうか。
お湯は、大きな薬缶《やかん》から、こづかいのオジイサンがやはり蓋に入れてくれました。「熱いよ。気をつけて」なんていいながら。
また、ぜひ、お話聞かせてくださいませ。
お越しいただきまして、ありがとうございました。
引用:
教室には石炭を燃やすストーブがあり、10時頃になると大型の蒸し器様の容器に、生徒全員の弁当箱を入れてストーブで暖めました。弁当には色々なおかずが入っているので異様な匂いしました。蒸し器の下に入れるほど暖かく、上の方はほとんど暖まらないことがあり、出来るだけ下に入れようと争ったものでした。
昼食時にはアルミ製の弁当箱の蓋にお湯が配られました。
やはり、そうでしたか。
我々の学校では、ストーブの周りに並べていました。
当時のお弁当箱は、アルミニュームかアルマイトだったのでしょうか。
お湯は、大きな薬缶《やかん》から、こづかいのオジイサンがやはり蓋に入れてくれました。「熱いよ。気をつけて」なんていいながら。
また、ぜひ、お話聞かせてくださいませ。
らごら
居住地: 横須賀市
投稿数: 46
あんみつ姫さん
引用:
ラジオは終戦後は朝鮮語に変わったけれど、引き揚げ情報と簡単なニュースだけは日本語だった。
あれは11月頃だったか? やっと僕らの引き揚げの順番が回ってきた。
家財道具などの送付は不許可、担《かつ》げるだけの荷物だけ許可、荷物に車を付けて引きずるのも不許可だった。
また、貴金属なども駄目、現金も一人あたり幾らと決められていた。金額は忘れたけれど釜山(プサン)の港で米兵による所持品と持参金の検査があって、オーバーしたら取り上げられると云《い》う。母は毎晩服の裏地を剥《は》がしては日本円(当時は日本本土のお札と朝鮮銀行券があった)をくしゃくしゃに揉《も》んでは縫い込んでいた。米兵の検査を逃れるためだ。
やがて、京城(ソウル)駅までのトラックが来て、近所の人たちと共に荷台に乗り込んだ。家財道具一切を残したままで。
親しくしていた韓国人が、「これ長持ちするから 途中の食事にして下さい」と、餅米の粉で作った「らくがん」のような感じの保存食を呉れた。
貨物列車は荷物と人とでぎゅうぎゅう詰め、僕ら子供は荷物と天井との隙間にかろうじて潜り込んだ。
時々、貨車にガンガンと外からの投石があった。
夜中にどこかの駅に停車すると、みんな外へ駆け出してその辺に出すものを出してくる。「汽車が出るぞー」と叫ぶ奴がいる。そうは云っても汽車はなかなか発車しない。これは嘘《うそ》なんだ。
釜山(プサン)に着いたが船に乗る順番が来ない。
釜山の大きな寺に2・3日仮宿泊。食べ物は境内に韓国人が売りに来るが、日本円は朝鮮円よりかなり安くして売られている。足元を見られている。
やがて船に乗る順番が来た。皆重い荷物を背負って歩き出す。
周りを韓国人が取り囲んで見物しながら「ざまーみろ」「馬鹿野郎」「そーれみろ いい気味だ」などと鬱憤《うっぷん=心に積もった恨み》をはらしている中を、みんな下を向いて黙々と歩く。
やがて引き揚げ船が見えてきた。日本から来た韓国人がその船から下りてくるのが見える。もたもた歩いていると米兵が「ハバハバー」などと云《い》いながら細い棒状のもので韓国人の尻を叩いている。僕らもあんな風にせき立てられるのかと不安になる。
桟橋《さんばし》では米兵に荷物と所持金の検査を受ける。
父は若干《じゃっかん=幾らか》多めに現金を持っていたようだ。米兵が何やら喚《わめ》いている。横から英語が分かる奴が「多すぎると云ってるよ」と教えてくれた。父はそういうときの為に用意したらしい妖《あや》しげな浮世絵を差し出してお前にやると手真似したら、米兵はピューッピュッと口笛を吹いて左手で輪を作り、右手の人差し指をそれに出し入れしながら、手真似でやりたくなるからいらない。と言ってそのまま通してくれた。
船に乗るとき、さすがに荷が重すぎて僕は後ろにひっくり返って起きあがれない。泣いていると急に身体がふわーっと宙に浮いた。引き揚げ情景を見物していた米兵が起こしてくれたのだった。
やっとの思いで船に乗り込むと同時にばったり倒れてしまった。それを見ていた人が「これ心臓の薬だ」と云って錠剤を呉れた。
仙崎の港から見た初めての本土は実に美しかった。
仙崎では2日ばかり民宿に泊まったが、民宿には引揚者の接待用としての手当が政府からなされているそうだ。
仙崎の駅のプラットホームで父の古里、福井へ行くための列車を待っている間、反対側のホームに家族連れの米兵を満載した列車が入ってきた。「ハロー」とやったら、あっちの窓からそっちの窓からキャンデー・チョコレート・ココア・ビスケットなどがびゅんびゅん飛んできた。
あんな旨いものは何年ぶりだったことか。列車の中ではそれを見ていた人が、絶対に取らないから見せてくれと云ってそれを手に取ってみて「こんなものを食っている奴らと戦争したんだから 勝てるわけないよなー」と言った。
らごら
引用:
引揚船の様子など、覚えていらしたらお話し頂けると嬉しいです
ラジオは終戦後は朝鮮語に変わったけれど、引き揚げ情報と簡単なニュースだけは日本語だった。
あれは11月頃だったか? やっと僕らの引き揚げの順番が回ってきた。
家財道具などの送付は不許可、担《かつ》げるだけの荷物だけ許可、荷物に車を付けて引きずるのも不許可だった。
また、貴金属なども駄目、現金も一人あたり幾らと決められていた。金額は忘れたけれど釜山(プサン)の港で米兵による所持品と持参金の検査があって、オーバーしたら取り上げられると云《い》う。母は毎晩服の裏地を剥《は》がしては日本円(当時は日本本土のお札と朝鮮銀行券があった)をくしゃくしゃに揉《も》んでは縫い込んでいた。米兵の検査を逃れるためだ。
やがて、京城(ソウル)駅までのトラックが来て、近所の人たちと共に荷台に乗り込んだ。家財道具一切を残したままで。
親しくしていた韓国人が、「これ長持ちするから 途中の食事にして下さい」と、餅米の粉で作った「らくがん」のような感じの保存食を呉れた。
貨物列車は荷物と人とでぎゅうぎゅう詰め、僕ら子供は荷物と天井との隙間にかろうじて潜り込んだ。
時々、貨車にガンガンと外からの投石があった。
夜中にどこかの駅に停車すると、みんな外へ駆け出してその辺に出すものを出してくる。「汽車が出るぞー」と叫ぶ奴がいる。そうは云っても汽車はなかなか発車しない。これは嘘《うそ》なんだ。
釜山(プサン)に着いたが船に乗る順番が来ない。
釜山の大きな寺に2・3日仮宿泊。食べ物は境内に韓国人が売りに来るが、日本円は朝鮮円よりかなり安くして売られている。足元を見られている。
やがて船に乗る順番が来た。皆重い荷物を背負って歩き出す。
周りを韓国人が取り囲んで見物しながら「ざまーみろ」「馬鹿野郎」「そーれみろ いい気味だ」などと鬱憤《うっぷん=心に積もった恨み》をはらしている中を、みんな下を向いて黙々と歩く。
やがて引き揚げ船が見えてきた。日本から来た韓国人がその船から下りてくるのが見える。もたもた歩いていると米兵が「ハバハバー」などと云《い》いながら細い棒状のもので韓国人の尻を叩いている。僕らもあんな風にせき立てられるのかと不安になる。
桟橋《さんばし》では米兵に荷物と所持金の検査を受ける。
父は若干《じゃっかん=幾らか》多めに現金を持っていたようだ。米兵が何やら喚《わめ》いている。横から英語が分かる奴が「多すぎると云ってるよ」と教えてくれた。父はそういうときの為に用意したらしい妖《あや》しげな浮世絵を差し出してお前にやると手真似したら、米兵はピューッピュッと口笛を吹いて左手で輪を作り、右手の人差し指をそれに出し入れしながら、手真似でやりたくなるからいらない。と言ってそのまま通してくれた。
船に乗るとき、さすがに荷が重すぎて僕は後ろにひっくり返って起きあがれない。泣いていると急に身体がふわーっと宙に浮いた。引き揚げ情景を見物していた米兵が起こしてくれたのだった。
やっとの思いで船に乗り込むと同時にばったり倒れてしまった。それを見ていた人が「これ心臓の薬だ」と云って錠剤を呉れた。
仙崎の港から見た初めての本土は実に美しかった。
仙崎では2日ばかり民宿に泊まったが、民宿には引揚者の接待用としての手当が政府からなされているそうだ。
仙崎の駅のプラットホームで父の古里、福井へ行くための列車を待っている間、反対側のホームに家族連れの米兵を満載した列車が入ってきた。「ハロー」とやったら、あっちの窓からそっちの窓からキャンデー・チョコレート・ココア・ビスケットなどがびゅんびゅん飛んできた。
あんな旨いものは何年ぶりだったことか。列車の中ではそれを見ていた人が、絶対に取らないから見せてくれと云ってそれを手に取ってみて「こんなものを食っている奴らと戦争したんだから 勝てるわけないよなー」と言った。
らごら
変蝠林
居住地: 横浜市 オオクラヤマ
投稿数: 22
静岡城内東小学校を卒業したのが昭和五年だからピカピカの一年生は大正十四年の筈《はず》。其《そ》の頃は洋服着物半々位、みんな洟垂れ《はなたれ》小僧で袖が鼻汁でピカピカ。下駄《げた》草履《ぞうり》が多かったが私は何故《なぜ》か洋服に靴だった。
三年生の時に多分尾崎市長の英断と思われる男女同級の走りの組に選ばれ、是《これ》も有名な牛田先生の受持ち。
結局六年間同じ先生に着いて廻《まわ》ったのは幸運だったと思う。男女同級は一年間だけだったが佐橋不二江と言う名前を未だに記憶して居るのだから若しやあれが初恋?
五年生の時ボーイスカウトが編成されて所謂《いわゆる》カブの走りをやった。赤いネッカチーフと六尺棒《ろくしゃくぼう=樫などで作った1,7メートルぐらいの警棒》に腰縄《こしなわ=罪人等をしばるなわ》(実名は忘れた)がプライドを満足させた。
天長節《てんちょうせつ=天皇誕生日》は勿論《もちろん》、祝日には校長先生が恭《うやうや》しく奉安殿《ほうあんでん=天皇のお写真や勅語などを置く建造物》から勅語を捧持《ほうじ=ささげ持つ》して朗々と読み、其《そ》の間の直立不動は辛かったが終わると出た紅白の御饅頭《おまんじゅう》を貰《もら》ってルンルン帰宅。
六年生の夏に浜名湖でキャンプ。修学旅行は伊勢神宮迄汽車の旅。
城内には東と西の二校があって互いに対抗心を隠さなかった。後日妻となったY-CATは西小学校出身だと判《わか》ったが外堀の蓮《はす》の実を齧《かじ》った話は同じ思い出であった。
内堀と外堀には今も石垣が残り城内は静岡第三十四練隊だったが今は公園になって営門《えいもん=兵営の門》に建った橘大隊長の銅像は消え去った。
小学校の六年間には済南事変《さいなんじへん=1928年中国山東省済南で日本軍が起こした戦闘》こそあったが未だ戦時色は無く最後の大正浪漫《たいしょうろうまん》が尾を曳《ひ》いて居た良き時代であったと思う。
低学年の頃は床屋《とこや=理髪店》の丁稚《でっち=雑役に従事する年少の労働者》に連れられて七軒町へ七ブラ《=七軒町をぶらぶら歩く》に出掛けた。
アセチレン瓦斯《アセチレンガス=屋外の灯火用、有毒》の匂《にお》いが未だに記憶に残る。蚤《のみ》潰《つぶ》しも楽しかった。
友人に活動小屋《映画館》の子が居て目玉の松ちゃん《=尾上松の助・映画俳優》や高木新平《=映画俳優》のチャンバラ《刀で切り合うこと》
を無銭《むせん=ただ》で良く見た。 切りの無い話だから先ずは此《こ》れ迄《まで》。 御免《ごめん》。
三年生の時に多分尾崎市長の英断と思われる男女同級の走りの組に選ばれ、是《これ》も有名な牛田先生の受持ち。
結局六年間同じ先生に着いて廻《まわ》ったのは幸運だったと思う。男女同級は一年間だけだったが佐橋不二江と言う名前を未だに記憶して居るのだから若しやあれが初恋?
五年生の時ボーイスカウトが編成されて所謂《いわゆる》カブの走りをやった。赤いネッカチーフと六尺棒《ろくしゃくぼう=樫などで作った1,7メートルぐらいの警棒》に腰縄《こしなわ=罪人等をしばるなわ》(実名は忘れた)がプライドを満足させた。
天長節《てんちょうせつ=天皇誕生日》は勿論《もちろん》、祝日には校長先生が恭《うやうや》しく奉安殿《ほうあんでん=天皇のお写真や勅語などを置く建造物》から勅語を捧持《ほうじ=ささげ持つ》して朗々と読み、其《そ》の間の直立不動は辛かったが終わると出た紅白の御饅頭《おまんじゅう》を貰《もら》ってルンルン帰宅。
六年生の夏に浜名湖でキャンプ。修学旅行は伊勢神宮迄汽車の旅。
城内には東と西の二校があって互いに対抗心を隠さなかった。後日妻となったY-CATは西小学校出身だと判《わか》ったが外堀の蓮《はす》の実を齧《かじ》った話は同じ思い出であった。
内堀と外堀には今も石垣が残り城内は静岡第三十四練隊だったが今は公園になって営門《えいもん=兵営の門》に建った橘大隊長の銅像は消え去った。
小学校の六年間には済南事変《さいなんじへん=1928年中国山東省済南で日本軍が起こした戦闘》こそあったが未だ戦時色は無く最後の大正浪漫《たいしょうろうまん》が尾を曳《ひ》いて居た良き時代であったと思う。
低学年の頃は床屋《とこや=理髪店》の丁稚《でっち=雑役に従事する年少の労働者》に連れられて七軒町へ七ブラ《=七軒町をぶらぶら歩く》に出掛けた。
アセチレン瓦斯《アセチレンガス=屋外の灯火用、有毒》の匂《にお》いが未だに記憶に残る。蚤《のみ》潰《つぶ》しも楽しかった。
友人に活動小屋《映画館》の子が居て目玉の松ちゃん《=尾上松の助・映画俳優》や高木新平《=映画俳優》のチャンバラ《刀で切り合うこと》
を無銭《むせん=ただ》で良く見た。 切りの無い話だから先ずは此《こ》れ迄《まで》。 御免《ごめん》。
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変蝠林
マーチャン
居住地: 宇宙
投稿数: 358
変蝠林さん
あらっ。ありがとうございます。
大正時代の小学生のお話、貴重です。
引用:
想像していたより、ずっとモダンだったのですね。
「洋服に靴」なんてすごいです。
ボーイスカウトというのもびっくりです。
おまけにキャンプまでーーー。
とにかく、静岡って、モダンだったのですね。
99才のわが母も、修学旅行は汽車で「お伊勢参り」だったといっていました。修学旅行の歴史も古いのですね。
あらっ。ありがとうございます。
大正時代の小学生のお話、貴重です。
引用:
静岡城内東小学校を卒業したのが昭和五年だからピカピカの一年生は大正十四年の筈。其の頃は洋服着物半々位、みんな洟垂れ小僧で袖が鼻汁でピカピカ。下駄草履が多かったが私は何故か洋服に靴だった。
五年生の時ボーイスカウトが編成されて所謂カブの走りをやった。
赤いネッカチーフと六尺棒に腰縄(実名は忘れた)がプライドを
満足させた。
六年生の夏に浜名湖でキャンプ。修学旅行は伊勢神宮迄汽車の旅。
想像していたより、ずっとモダンだったのですね。
「洋服に靴」なんてすごいです。
ボーイスカウトというのもびっくりです。
おまけにキャンプまでーーー。
とにかく、静岡って、モダンだったのですね。
99才のわが母も、修学旅行は汽車で「お伊勢参り」だったといっていました。修学旅行の歴史も古いのですね。
あんみつ姫
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 485
らごらさん こんばんは!
引揚のお話し、興味深く拝見しました。
幼心にこんなに鮮明な記憶が残っているなんて、やはり
強烈な経験だったからでしょうね。
引用:
引揚船から眺めた故国 日本の美しさは、誰もが感じた
ようですね。よく聞きます。
引用:
似たような話を、何時だったかテレビの対談で話していた
ミュージシャンが居ましたね。
「進駐軍でバンド演奏のアルバイトをした時にコーラを
貰って、こんな旨いものがある国と戦ったんじゃ勝てない
訳だと思った」って言ってました
私も5歳くらいの時に沼津の海岸で黒人兵がチョコレート
をくれようとして手招きしてくれたのに、怖くて傍に行か
れなかったので、チョコレート貰い損ねたことがありまし
た(~-~;)
今なら考えられないけど、当時は 外国人、それも黒人な
ど、馴染みがなかったんですから(^^ゞ
引揚のお話し、興味深く拝見しました。
幼心にこんなに鮮明な記憶が残っているなんて、やはり
強烈な経験だったからでしょうね。
引用:
仙崎の港から見た初めての本土は実に美しかった。
引揚船から眺めた故国 日本の美しさは、誰もが感じた
ようですね。よく聞きます。
引用:
列車の中ではそれを見ていた人が、絶対に取らないから見せてくれと云ってそれを手に取ってみて「こんなものを食っている奴らと戦争したんだから 勝てるわけないよなー」と言った。
似たような話を、何時だったかテレビの対談で話していた
ミュージシャンが居ましたね。
「進駐軍でバンド演奏のアルバイトをした時にコーラを
貰って、こんな旨いものがある国と戦ったんじゃ勝てない
訳だと思った」って言ってました
私も5歳くらいの時に沼津の海岸で黒人兵がチョコレート
をくれようとして手招きしてくれたのに、怖くて傍に行か
れなかったので、チョコレート貰い損ねたことがありまし
た(~-~;)
今なら考えられないけど、当時は 外国人、それも黒人な
ど、馴染みがなかったんですから(^^ゞ
--
あんみつ姫
あんみつ姫
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 485
henpukurinさん こんばんは
昭和26年(1951年)の小学生にも、まだ下駄履きの
子が居ましたから、大正の終わりに「靴」というのは、
かなりハイカラだったんでしょうね
引用:
「活動小屋」この表現のわかるのは、どの年代まで
でしょうね。
後世には解説が必要ですね
「活動小屋」=「映画館」でした。
昭和26年(1951年)の小学生にも、まだ下駄履きの
子が居ましたから、大正の終わりに「靴」というのは、
かなりハイカラだったんでしょうね
引用:
友人に活動小屋の子が居て目玉の松ちゃんや高木新平のチャンバラを無銭で良く見た。
「活動小屋」この表現のわかるのは、どの年代まで
でしょうね。
後世には解説が必要ですね
「活動小屋」=「映画館」でした。
--
あんみつ姫