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砂糖と豪雪 倉井永治

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2013/1/14 6:52
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 はじめに

 スタッフより

 この投稿(含・第二回以降の投稿)は「電気通信大学同窓会社団法人目黒会」の「CHOFU Network」よりの抜粋です。
 発行人様のご承諾を得て転載させて頂いております。

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 少年易老学難成 少年老い易く学成り難し
 一寸光陰不可軽 一寸の光陰軽んずべからず
 末党池糖春草夢 未だ覚めず池糖春草の夢
 階前梧葉己秋声 階前の梧葉己に秋声

 70年程前、漢文の時間に全く意にとめなかったこの文句が、いま教師の顔と共に、懐かしく想い出されるのである。

 あの苛烈な戦争が終ってから六十余年の星霜が瞬く間に過ぎ去った。想えば、あの大戦も既に5年目を迎えた昭和20年(1945年)の冬、北陸の辺鄙な此の地域でも若者は銃を執って戦場へ赴き、若い女性達も兵器工場等へ出向いて働き、中学生も志願して国防に馳せ参じ、残された人々や小学生も勤労奉仕に明け暮れて学業に没頭することはできなかった。家庭を守るのは老人、子供等の弱者であり、戦災の収まるのを待つのみであった。そして、此の冬(昭和20年1月)此の地域は予想外の大雪に見舞われたが、今はそれを語る古老達の姿も既になく、それを識る人達も語る人も寡くなってしまったが、私はたまたま此の大雪に遭遇し、苦難の憂目を体験して、今はただ懐かしい想い出として脳裏に蘇るのである。

 長い汽車の旅を終え、郷里の城下町の駅頭に降り立ったのは、昭和20年の1月の冬であった。人影の無い寒々としたホーム、駅舎は豪雪に埋り、雪まみれの汽車が動いているのは不思議であった。私は駅の出口から町を眺めた。そこには皚々たる白一色の風影が展開していた。両側の家々の屋根からおろされた雪が城壁のようにうず高く積み上げられ、それが屋根の高さを越えている所もあり、僅に家並みの軒先を利用した雁木通りが、蟻の穴のように口をあけ、人通りを可能にしていたが、人影は殆ど無く、廃墟の様な町であった。私は呆然とこの風影を見て思案した。私の足もとには重いトランクが置かれ、履いているのは夏用の革の短靴であった。出発地の、あの暖かい太平洋側の港町では想像もできない風影が此処に展開していたのである。

 18世紀後半、イギリスで起った産業革命は資本主義階級を生み、労働者階級との争いになったが、乍て経済の拡張や領土拡大への野望の要因となった。明治をさかのぼる28年前の1840年アへン戦争は如実にそれを物語っており、これに眼を覚された日本は、東南アジアに対する白色人種の侵略と圧政を排除し、自存自衛の為に、また東アジア共栄圏の建設を目指して「大東亜戦争」(戦後、アメリカの強要により「太平洋戦争」と呼称した)を決意したのは、当時の国状からして当然のなりゆきともいえた。

 しかし、この戦争はアメリカの圧倒的な物量と進歩しつつあった兵器により、緒線に有利であった日本の形勢も、その後は大きく傾きつゝあるのを感じており、船舶の運航も国策に沿った「船舶運営会」により左右される状況下にあった。私が乗組んでいた船も例外でなく、兵員や武器弾薬、食糧等を戦地へ、捕虜を内地へ輸送していた。

 私の船が台湾(当時は日本の領土)の基隆(キールン)へ入港したのは昭和19年(1944年)12月の末頃であった。(その任務については記憶がない)。そのとき本船が着岸した岸壁の近くに山のように野積みされているのが「砂糖」である、と聞いて私は驚いた。砂糖は台湾が主産地とは知っていたが、戦時下に此の様な状況は想像もできなかったのである。内地では戦争が始ると、いつの間にか食料品、衣類等の生活物資は統制されて店頭から姿を消し、砂糖も調味料の様な「サッカリン」に姿を変え、あの懐かしい「甘味」を味うことは不可能となっていた。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/1/17 8:02
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 私は、たった一つの財産であるトランクの中を空にして、代りに砂糖をいっぱいにつめ込んだのである。そして、内地へ寄港の機会を待った。

 こうして今、そのトランクが私の肩に担がれていた。ずっしりと重く、30kg以上はあると思われるトランクは5分間と手に提げることはできなかった。私はそのトランクを肩に担ぎ、革の短靴を履いたまゝ豪雪に挑んだ。地元の人から見れば、それは狂気の沙汰と写ったであろう。雪国の冬季の常識であるゴム長靴や、藁靴(藁で編んだゴム長靴のような履物)も履かず重い物を担いで雪上を歩く行為は、体の垂心が不安定となり最も危険であった。それはツルツルに固った雪や、コンクリートの雁木の道路上にある雪に乗れば、忽ち滑って転倒し、頭部を強打して大怪我をすることは必定であり、私が柔道の有段者で「受け身」を十分心得てはいるが、その危険を避けることは至難と思われた。

 私は慎重に歩を進めた。しかし雁木通りを横切っている小路は雪の山であり、私はその山に重いトランクを押し上げて這い上り、そして又トランクと共に滑り下りた。その度に革の短靴は脱げて靴下は雪にまみれた。そして重い外套の腎部はぐっしょりと濡れ、それが冷気によりゴワゴワとこわばった。雪の山を上り下りする度にその状態が繰り返された。いつの間にか体から汗が流れ外気に触れ寒さに変った。私は重いトランクを扇に、必死となって慎重に歩を進めたが、革の短靴は雁木通りの雪に滑り危険はこの上もなかった。然し、殆ど人通りの無いのが私の気を楽にし、漸く雁木通りは終り町外れに達したのである。

 しかし、難関はこれからであった。私の村落まで路らしい路の無い皚々たる雪原が数百メートルにわたって展開しているのである。

 私は一息入れて覚悟を決め、ずっしりと重いトランクを肩にこの苛酷な雪原に挑んだ。かつて通学に利用したこの道路も今は私の行く手を阻んでいた。そして此の雪原の路は大雪が降れば忽ち馬の背の様な路に変り、一歩踏み外せば柔い積雪の中に腰まで埋没するのである。しかも馬の背は寒風に曝されて堅く固まり、ツルツルと滑り易い。肩に担いだトランクは重く、靴の短靴に雪がつまり、一層私の歩行を困難にした。

 雪に滑ってバランスを崩した私は、幾度となく転び雪に埋り、トランクは投げ出され、その度に靴を雪の中から掘り出さねばならなかった。私は靴を脱ぎ、紐を結んで首に掛けた。乍て靴下も雪にまみれて用をなさなくなった。そして足裏の感覚も無くなり凍傷の恐怖が私を襲ってきたのである。

 全身から流れ出る汗は、少し休めば忽ち冷えて寒さに震えた。私は周囲を見渡したが人影は無く、目指す村落はまだ彼方にある。然し風は無く、雪がチラチラ舞う程度の気象条件に救われ、悪戦苦闘は漸く終り懐かしい村落の入り口に達したのである。

 そしてカンジキ(竹で作った輪が下部についている藁靴の方言)で踏み固められた雪路が私を迎えてくれた。あゝ遂に難関を突破したのだ、私は安堵の胸を撫でおろした。中学の頃まで過した懐かしい我が家が眼前に迫ったのである。

 そして、山のような積雪上から家の玄関へ、トランクと共に滑り降りた私は懐かしい我が家へ入った。突然の闖入者に両親は声も無かった。そして、トランクを前にして座った両親の、めっきり老いた姿を眼にしたとき、不意に萬感の想いが胸にこみ上げ、滂沱として溢れる涙を押さえることができなかった。

 出征した三人の兄達の留守をまもり、黙々と野良仕事に励んだ両親も、今は此の世に居ない。
 あゝ、私も今は亡き両親の年令をはるかに超える歳になってしまったのである。
  

               
  (終り)
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