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無線講選科第三期生(三選会)始末記 河村泰平 後編

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2013/1/15 8:01
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 
 はじめに

 スタッフより

 この投稿(含・第二回以降の投稿)は「電気通信大学同窓会社団法人目黒会」の「CHOFU Network」よりの抜粋です。
 発行人様のご承諾を得て転載させて頂いております。

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 運命の5分間がこの戦いの勝敗を決した、と言われている。
 換装作業が急遽行われている最中、午前7時20分頃敵機動部隊の艦載機群が大挙来襲してきたのである。私は前回の戦闘配置を一時解除されて再び控え室で仮眠していた。

 突然の『飛龍』の舷側の高射砲と、けたたましい高射機関砲の音に飛び起きた。同時に戦闘ラッパの響きと至近弾の衝撃、急いでラッタル(鉄製階段)を駆け上がり舷側へ出てみた。

 各艦から猛烈な対空射撃をしている中に蝿の様に敵爆撃機が群がり落ちてくる、咄嗟の間に火災を起して黒煙を上げている3隻の味方空母を視認した。『赤城』『加賀』『蒼龍』だ。『ああ やられた!』初めて戦争の実態に遭遇した思いで、少々動転した格好であった。

 視界一杯に広がった凪いだ青黒い茫洋たる海原、所々に雲を散らした青く広い空、その書割(舞台の背景・道具又は絵画)の中に、蒙々たる黒煙が真っ直ぐ空に向って立ち上っている3隻の艦が点在している。その光景はあくまでも静寂な佇まいで、激しく喧騒な戦闘とは無関係な一幅の絵としか私の網膜には焼きつかなかった。しかしそれは一瞬の幻想に過ぎなかった。他の状況は観察している暇もない。回りの状況の詳細は艦橋にいる人間以外には分からない。現実に引き戻された私は急いで無線室に馳け込んだが、無線室も緊張し切っていた。約1時間後、戦闘能力を失った『赤城』から南雲長官は、護衛の軽巡「長良」へ乗り移り指揮をとることになった。南雲中将の指揮が一時中絶するのを見た第二航空戦隊司令官山口多聞少将は直ちに航空戦の指揮を継承した。この時点で唯1隻『飛龍』だけが無事であった。

 指揮を継承した山口司令官は、ただちに『飛龍』の残存機の艦爆隊に小林道夫大尉を指揮官として、午前7時40分敵空母群の攻撃に向わせた。小林大尉は帰って来なかった。しかし帰ってきた戦闘機の報告では、敵空母に爆弾命中、少なくとも損傷を与えたことを認めている。(後にこの空母はヨークタウンで命中弾は3発、一時ヨークタウンは火災を起こし右に傾斜、航行に支障を来たしたと言うことである。)

 先に『蒼龍』から出ていた新式高速偵察機が『飛龍』に着艦してきた。その報告によれば、敵空母はエンタープライス、ホーネット、ヨークタウンの三隻であることが分かった。

 山口司令官は『飛龍』飛行隊長友永丈市大尉指揮の下に残存の全飛行機を挙げて、これら空母を攻撃することを命じた。集められた兵力は、雷撃機10機、戦闘機6機(うち赤城の雷撃機1機加賀の戦闘機2機を含む)で、午前9時45分『飛龍』を飛び立った。飛行機は次々と発艦して行く。この間敵の第一波攻撃が去った後で小康を保っていた。飛行甲板上の発艦の様子は甲板下の無線室で目の当たりにすることは出来なかったが、友永大尉は第一次のミッドウェー陸に攻撃の際、左翼燃料タンクを打ち抜かれておりタンクは使用不能になっていた。これについて大尉は、代替機を使用することを拒み、右翼タンクに燃料を補給することを命じてそのまま出発したと言うことを聞いた。これは片道飛行を意味し、大尉は不帰還を覚悟の上で、出撃して行ったと言う。後で聞いたところによれば、友永雷撃隊は11時40分頃米空母を攻撃した。生還した搭乗員の話しによると尾部が黄色の識別しやすい指揮官機が、未だかつて経験しなかった激しい米艦の対空砲火の弾幕を突破して魚雷を発射したまでは確認したが、その後は吸い込まれるように姿を消した。と言う。

 本攻撃の成果は敵空母1隻に魚雷3本命中させ、別にサンフランシスコ型大型巡洋艦を大破したとされている(しかし実際はヨークタウンを二度攻撃していたのである)。この最後の攻撃で指揮官機を含み雷撃機5機、戦闘機3機を失った。帰還したのは雷撃機5機、戦闘機3機で午後1時30分帰投し『飛龍』に収容された。
 午後2時前、戦いの合間を見て主計科員の配る戦闘食(握り飯)、を食べた。

 『飛龍』では残りの飛行機を以て薄暮攻撃を行うことであった。
 午後2時30分頃、突然対空戦闘の号令と同時に機関砲の連射音。殆ど同時に(と私は思えた。後で聞いたところでは最初の三弾までは回避したという)に至近弾の水柱で艦がゆれる。ズシーンと言う音。続いて二発までは覚えている。無我夢中で無線室に飛び込むと、何と無線室にぽっかりと穴があいて海が見えているではないか。当直の電信長が顔中血だらけにして「下部電信室へ行け!」と叫んでいる。無線室内は玩具箱をひっくりかえしたような散乱状態である。怪我をした兵隊がうずくまっていた。私は電信長の後に付いて「下部電信室」に行こうとしたが、すでに廊下は煙で一杯、逆の方からは「駄目だ!前部に行け!」と必死の形相の兵隊たちが押し返してくる。格納庫で魚雷が誘爆し隔壁が吹き飛び炎と煙が廊下に吹出す。狭い廊下は兵隊がぎっしりでの押し合いである。とても行けたものではない。そう格納庫は火の海で黒煙がもうもうと立ち込めて息苦しい。私は肩にかけていた防毒マスクをしているので息苦しい。鼻水と涙でぐちゃ.ぐちゃである。いったいどうなっているんだ。血相変えた兵隊の渦の押し合いへしあいだけだった。

 航空母艦は航空燃料を多量に搭載しているので、全艦忽ち火の海となる。蒸気管は破れて熱蒸気が至るところ吹き出す。私は考えた。すでに下部へは行けない。行ったところでこの火災では再び上って来ることは出来ないであろう。艦橋に上る階段も煙が吹き下してきて熱気がこもっている。気になるのは艦橋の電話室にいる蓮池兵曹と徳田一水の2名であるが、艦橋へのラッタルを上りかけたものの鉄板が焼けていて上れない。彼等は煙に巻かれての狭い電話室では助かるまいと思った。死者が2名転っていた。室内は煙の立ち込め方がまだマシであった。私は無線室に入って防毒マスクをかなぐり捨てた。無線室は艦の左舷にある。大きな穴があいている。先程の至近弾であいた穴であろう。穴の回りはギザギザにめくれている。下を見ると艦はまだ走っていて波を分けている。海へ投げ出された連中も見える。舷側に出て見ようと思ったが無線室の舷は高いので海の上に張り出している。幸い舷側の回りの電纜がグニヤグニヤになって垂れ下がっていたので、無我夢中でここに取りすがり、サーカス紛いによじ登った。何とか艦橋の横のポケットに出ることが出来たが、飛行甲板もチロチロと一面に燃えている。とても素足では飛行甲板は歩けない。艦橋の中部に被弾の穴が大きくあいていて甲板は波のようにうねっている。舷側の機銃座付近には死体がゴロゴロ転っていた。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/1/16 5:35
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

「艦橋の横のポケットに出た後は空気のうまさが身に沁みた。助かったと言う思いで呆然としてしまった。海は静かで太陽はさんさんと輝いている。

 戦いの終った後の海洋は平和そのものであった。その中で今『飛龍』だけが黒煙を上げて燃えている。大海中のポッンと小さな点のように浮んでいるこの艦の艦内が、今地獄のような修羅場を呈して喧騒に満ちている。
       
  艦橋から副長が「火を消せ」と怒鳴っていた。飛行甲板の火消しに私も加わり、ドラバケツで舷外から海水を汲み上げてぶつかりかけたり、毛布を水で浸して火を叩いたりした。艦はまだかなりの速度で走っている。

  突然対空戦闘のラッパが鳴った。見ると可成り高い空にB-17の編隊が見えた。水平爆撃である。驚いたことに艦橋から身を乗り出すようにして見ていた参謀が『大丈夫だ。これはかわるぞ!』と大声で言っていた。ばらばらと爆弾が落ちてきた。危ない!私は思わず身を隠すように伏せていた。しかし参謀の言うように爆弾は殆ど逸れていた。一弾が艦の至近距離に落ちて爆風と水柱をあげて艦の上に注ぎ落ちた。間も無く夜が訪れ様としていた。夜になると火災を起こしている艦は絶好の爆撃目標になると言うので、我々は必死に防火作業に取り組んでいた。

 B17の攻撃はその後もあった。誰かの命令で私達数人が何かを探して持ち出すために下甲板に下った。しかし格納庫の中は腰まで浸かる熱湯であった。艦の動揺に従って熱湯が流れ動き、その中を四肢や首のない屍体が流れ動いていた。とても下まで行ける状態ではない。私はそれ以上、下には行かなかった。わずかに熱湯を避けられる前甲板に避難した。

 月が出ていた。夜に入って艦はいつの間にか停止していた。私は再び飛行甲板で防火作業を手伝っていたが、『飛龍』が停止したので駆逐艦が近寄ってきた。火はまだ盛んに燃えていた。

 駆逐艦が横付けするような格好でホースで水を掛けるが、母艦は高いので届かない。まるで赤ん坊が母親に小便をかけているような状態であった。駆逐艦の努力にも係わらず、火災は完全に消火するには至らず、機関室に火が入ったのか機関は停止し艦は左に傾斜していた。

 『総員飛行甲板に上れ』の号令が夜中に出た。6日午前0時15分であったと言う。整列した生存員を前に山口司令官と如来艦長が立ち、別れの訓示があった。司令官は、『蒼龍、飛龍両艦を無くした責任は司令官にある。私は本艦の最後を見届ける。一同は退去して今後のご奉公を期して貰いたい』旨申し述べられた。

 伊藤首席参謀ら司令官に御供をしたいと懇願したが、遂に許されなかった。
 如来艦長も飛龍の最後は自分が見届けますから、司令官は退艦して頂きたいと懇願したが、司令官は微笑をうかべたままであった。やがて司令官と艦長は艦橋の方へ歩み去った。

 我々はそれらを月光を浴びながら甲板上で見守っていた。月明りの海は静かであった。
 やがて参謀たちの指示で我々は横付けになった駆逐艦『風雲』に乗り移った。
 その間『風雲』から駆逐艦司令阿部大佐が再三司令官と艦長の退艦を懇願したが聞き入れられなかったと言う。生存者を収容した後、阿部大佐は『風雲』『巻雲』に魚雷発射を命じた。『飛龍』は大爆発の後、次第に艦首が落下して行くように思えた。我々は駆逐艦上からそれを見守りながら『飛龍』を後にしたのである。

 戦後の「歴史」によると『飛龍』はすぐには沈まなかったらしい。傾いたまま漂流していたそうである。しかもその中には取り残された人たちがいた。機関長相宗中佐以下45人の機関科員であった。彼等は魚雷の爆発で異常を感じた。機関室から上部へ通じるハッチを鉄ハンマーで破壊し、鉄扉を開くたびに流れ込む熱湯を浴び乍ら、遠ざかる駆逐艦が月面下の海上に遠く望見できた。彼等は艦隊のカッターを下ろし全員海に飛び込んだ。

 相宗中佐たちはカッターで漂流すること15日、米軍の艦艇に発見されたが12人が死亡していたと言う。生存者はハワイの収容所に送られ、lアメリカ本国の収容所を経て戦後日本に帰還したそうである。『飛龍』が海面下に没したのは6日午前6時頃と推定されている。(未完)

 元東京近衛師団司令部幕僚部。師団長陸軍中将
 赤栄八重蔵付 河村泰平(軍歴附記1.謹抄録)。
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