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トンボをとる

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/6/21 11:43
紫竹の  一人前 居住地: 神戸  投稿数: 92
みなさん こんにちは

子供のころ、トンボを採《と》る時、どんな方法を使っていましたか?

1.タモ《たも網》で採る。
2.鳥もちをさおの先につけて採る。
3.高く飛んでいるトンボに、長さの1m弱の糸の両端に
  小さな重しをつけたものを投げ上げて採る。
4.止まっているトンボの目の前で、「の」の字を書きながら
  近づいて、つかむ。

私自身の経験は、1、3、4ですが、下手なので、どれもうま
く行きませんでしたが、3が格好よく感じました。

江戸時代の本「耳袋」には4が出ていました。いわく、
「蜻蛉《せいれい=とんぼ》を捕ゆるに不動呪(うごかざるまじない)の事」
  蜻蛉に向ひてのの字をくふ(空)に書てさて捕ゆるに、
  動くことなしと也。
昔からやっていたのですねえ。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/7/3 11:43
悠遊館21  新米   投稿数: 10
紫竹のさん みなさん こんにちは

とんぼ、よく捕りに行きました。
私も1、3、4は経験があります。3と4は難しかったです。

これらに加えて、友釣り《ともづり》みたいな方法でやんまを捕っていました。

①まずは網で囮《おとり》のやんまを捕《と》ります。
できれば雌(ギンヤンマは胸の部分が緑だと雌、《めす》青いのは雄《おす》だと思っていました)、
稲に止まっているのやら、田圃《たんぼ》の上を飛んでいるのを狙《ねら》いますが、これがうまくいけば後は楽々。

②棒の先に1メートルほどの糸をつけて、その糸の先に捕ったやんまの胸の部分を結びつけます。

③その棒を頭の上で回すと、田圃の上を周回している雄がやってきて囮《おとり》に絡《から》みつくのです。
棒を下ろすと絡まった2匹もばたばたと地面に落ちますから、網をかければそれまで。
網がなくても手でゆっくり押さえられます。おもしろいように捕れました。
やんまにはやんまの手触《てざわ》りがあ って、それは嬉しかったものです。
かごに獲物、棒の先で飛ぶやんまを連れて帰る道は充足感にあふれていました。

棒に結ぶのを雄にしても、確率は落ちるもののやはり成功していました。

④棒を回して雄を呼ぶ時、「どっかん、やっほー」とかけ声をかけていまいた。
この辺だけのことでしょうね。当時の尼崎には、夏、見渡す限り青々とした田圃が広がっていました。
今ではもうこのやり方でトンボを捕る子も見かけなくなりました。

加賀の千代女「トンボつり今日はどこまで行ったやら」という句を母が教えてくれたのは、
昆虫を追いかけて夕方まで外を駆《か》け回っていた夏のことだったでしょうか。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/7/7 10:18
Pan  常連 居住地: 大阪府  投稿数: 59
  悠遊館21さん、紫竹のさん、みなさん こんにちは。
引用:
これらに加えて、友釣りみたいな方法でやんまを捕っていました。
 やっぱり「蜻蛉釣り」と云うのだと思います。 一番印象的な捕り方で、子供心にも鷹狩り《たかがり》や鮎《あゆ》の友釣りのように高貴《こうき》な気分でしたね。(^_^)

 鳥もち竿で追っかけ廻すのは、周囲からも蔑《さげす》まれたように思います。

 大きな畑があって入れなかったのですが、その垣根にもたれて竿を廻しました。

 京都市のやや南にいましたが、ギンヤンマとは云わず「ヒラ」と呼んでいました。これがギンヤンマの
ことと知ったのはずっと後です。  
 従って、掛け声も「ひら~~、こい。ひら~~、こい」と売り子の呼び声のように抑揚《よくよう》を付けていました。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/7/8 20:03
KANCHAN  新米   投稿数: 2
私の「トンボの思い出」です。

幼稚園のころ、私は東京都足立区の梅田町というところに住んでいた。二軒長屋の我家の裏には原っぱが広がっていて、その先は一面の田んぼだった。 
裏の原っぱは私たち子供のかっこうの遊び場であったが、この原っぱでのもっとも印象的な思い出は、秋口のある時期に頭上を飛んで行くヤンマトンボの大編隊であった。夕焼けの空を飛んで行くヤンマトンボの大群を見ようと、私の両親も近所の大人たちも皆、原っぱに出て空を見上げる。ヤンマトンボの飴色に透《す》けて見える羽根がとても美しかった。
ヤンマは体が大きく、結構高いところを飛んで行くので、普通の虫取り網では、届かない。網の柄に竿を継《つ》ぎ足して、やや低めを飛んでくるやつを待ち構えるのであるが、なかなか捕《つか》まえられない。時にナーヤンとよぶメスが捕まえられると、私たちは大喜びである。このトンボに紐を付けて、頭の上でくるくる回すと、トコヤンとよぶ雄がかかってくるのである。そこを網で押さえる。
ナーヤンは「おんなヤンマ」の略であったろうか、グリーンの身体に尻尾《しっぽ》が茶色で大変美しい。トコヤンは「おとこヤンマ」の略か、同じく緑の身体で、腰のところに水色の帯がついていて、尻尾は黒である。いずれも身体がしっかりしていて、手に持つとブルンブルンという振動がたまらない感触である。
ところで当時は、もっとすごいトンボがいた。オオヤマと呼んでいたが、おおヤンマの意味であろうか、ヤンマより一回り大きく、身体は虎のように黒と黄色の縞模様である。このトンボは単独で行動し、大人の背丈くらいの高さのところを、ゆうゆうと飛んで行く。めったに停まらない。
ところがあるとき、私は一人でトンボ採りに出かけると、原っぱの先の、田んぼにつき出た小さな木のさきに、一匹のオオヤマが停まっているのを見つけたのである。
私は心臓がどきどきした。網を持ってそっと近づいて行った。オオヤマは動かない。狙《ねら》いを澄ませて網を振ったが、手元が定まらず、間一髪で逃げられてしまった。残念であった。
翌日私は、あのトンボが又あそこに停まっているような予感がした。行ってみると案の定、昨日と同じ木の枝に停まっているではないか。私は気持ちを落ち着けて、さっと網をふるった。採れた!
あのときの、オオヤマの力強いブルンブルンという振動の感触は、今でも忘れられない。
次は私が小学校高学年になってからの思い出である。
そのころ私は群馬県の桐生《きりゅう》市に住んでいた。私たちは桐生川や渡良瀬《わたらせ》川で泳いでいたのであるが、時に電車に乗って数駅先のプールへ行くことがあった。当時桐生市にはプールらしいプールがなかったのである。そのプールも川の水を引いていたのだと思う、水は濁っていてプールの底は見えないような代物であったが、それでも川に比べると、泳ぐ実感があって楽しかった。
夏休みも終わりに近づいたある日、私は、プールから駅への帰り道で、頭の上を飛んでいる大量の赤とんぼを見た。そしてそのとき突然俳句が出来たのである。
「秋ちかしもっと泳げと赤とんぼ」
別に私に歌心があったわけではない。夏休みの宿題に俳句を作るようにという課題があったので、なんとか2・3句作らねばならず、その必要に迫《せま》られてのことであった。しかし私としては、ゆく夏を惜しむ気持ちを表現した傑作が出来たとうれしくなった。
しかしその句を先生に提出して、返してもらったときには、まるが一つついていただけでなんのコメントもなかった。私はちょっとがっかりした。後から、季語が多すぎるからだめなのかな、などと反省したものである。

とき移り、今私の住んでいる我孫子《あびこ》市の団地では殆《ほとん》どトンボを見かけることはなくなってしまった。ヤゴの育つ沼沢地が減り、餌になる蚊も少なくなったからであろうか。蚊帳《かや》を吊る家なども見たことがない。俳句の題材も代ってしまったであろう。そんな環境で育った我が家の子供たちは、私の子供時代の懐かしい経験を知らずに大きくなった。それでなのか、どうも情緒を解さず、親を大切にしようという気持ちも薄いようだ。
息子は、今はやりの携帯電話会社に就職した。世の中皆が、ところかまわず「もしもし」とやっている。時に聞こえ方がよくないと一様に空を仰ぐ。そこにはトンボならぬ目に見えぬ無機質の電波が飛んでいるだけである。

関田 歡一



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