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あの日、あの事、あの人達 <英訳あり>

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/8/2 14:11
ほのぼの  半人前   投稿数: 33
あの日、あの事、あの人達

昭和19年、当時京都一中《=府立第一中学校》、1年生であった、私は、12月7日は農業動員《出征による人手不足のため学徒勤労令によって中学生以上は農作用や工場などに就労させられた》で、宇治川の南に広がる、向島地区の田圃《たんぼ》の中にいた。 長い何本かの竹竿《たけざお》を担いで、運んでいたところ、異常にふらふらするので、「竹竿を運ぶとは難しいものだな」 なんて思っていたのだが、なんと気がつくと、その時、田圃が左右に揺れていたのだった。 大地震でした(南海大地震)。しかし、当時、それらしき報道はなされなかったのです。《=戦時中人心の動揺を来たす報道はされなかった》

12月8日は、農業動員の次の日ということで、私達1年生は学校は休みとなりました。私は家の2階におり、母はその時、階下で編み物をしていました。 玄関の戸が開いて、誰かが入ってきました。 中学四年生として、兄が在籍していた京都三中《=府立第三中学校》の先生2人でした。 当時三中の四年生達は、京都を離れ、愛知県半田市の中島飛行機工場に、学徒動員されていたのです。
母は、先生達が、兄に予科練《=海軍予科飛行練習生》を勧めに来たのだと思って、何か弁明していました。兄は体が小さいので(実際、体格は少し生長が遅れていて、小柄だったのです)予科練には向かない、とかいろいろ云《い》っているようでした。
と、突然 母の悲鳴に近い泣き声が2階にまで聞こえてきたのです。 母の泣き声を聞いたのは、私は生まれて初めてでした。

私が、階下へ下りたとき、もう、先生達はいませんでした。 母は私に兄が、動員先で、死んだんだと、短く云い、うろたえていました。 「そんな馬鹿《ばか》な、・・・」と、私は母を慰めかけましたが、無駄《むだ》でした。 当時のこととて、家にも近所にも、電話はなく、郵便局から父の勤め先に電話しました。 父は、当時のいわゆる軍需《ぐんじゅ=戦争に必要な物資》工場の工場長をしてましたので、多忙だったのですが、とんで家に帰ってきました。 私も、父が帰ってきてくれて、ホットしました。

母が父に泣きつきましたが、父は、「死んだというなら仕方ない」と短く云っただけでした。 母は、「そんなこと云ったって・・・」と、不満でしたが、とにかく、急いで、汽車の切符を手配し、二人で、愛知県の半田市まで行く用意に追われました。 当時、汽車の切符を二人分手に入れることは至難《しなん=大変難しい》だったのですが、事情が事情だけに、即日手に入ったようです。

中学1年生の私と、小学校5年生の妹との二人で、急遽《きゅうきょ=急いで、にわかに》、留守を守ることとなりました。2人が両親の留守中何を作り、何を食べていたのか、記憶にありません。 が、近所の人たちが何かと、親切にしてくれたとの印象は残っています。 とにかく、3日ほどして、兄は遺骨となって帰ってきました。 私が兄の遺骨を京都駅から、家まで、胸にかけて還《かえ》りました。 近所の人達が、山端《やまばな》街道の両側に並んで、迎えてくれました。

その晩、暗い電灯の下で、母が、私達に、兄の遺骨を見せて、話してくれましたが、兄の即死のことは云いませんでした。 兄が即死したと、知ったのは、京都三中のあの時の同窓生達が、後年母校の校庭に、「紅燃《こうねん=ああ紅の血は燃ゆるという学徒動員の歌から》」の碑《ひ=いしぶみ》を建てたとき、その同窓会に招かれた時でした。 当時兄と一緒だった 石黒さん から 兄は煉瓦《れんが》に頭を打たれ、白い脳みそが見えていたとのことでした。 遺品となった兄の日記には、必ず、その日の日記の、言葉の最後には「最後の努力」と書かれていました。 兄は動員中も、次の進学のこと、将来のこと、についてやる気満々だったのです。 即死は、あれほどやる気満々だった兄には、残念至極だったに違いありません。 残酷です。 合掌。

戦後、兄の同期生達が、この学徒動員の記録を編集し、出版されました。 また、時に小説となり、演劇となり、学徒動員60周年に当たる今年も、「奪われし青春の墓碑銘《ぼひめい=墓碑に彫った文言》」として、書籍が出版されて来ています。
 学徒勤労動員の記録編集会 『紅の血は燃ゆる』 (1971)
 渡辺一雄 『あ〃紅の血は燃ゆる』 (1986)
 佐藤明夫 『哀惜1000人の青春』 (2004)

生まれつき体が小さく、体力が劣っていた兄を、母は、常に激励し、特訓し、「運動会で負けても、勉強で勝て」「たとえビリになっても、落伍《らくご=ついてゆけなくなる》はするな」と励ましていました。そして、兄は、その母の言葉を、一生懸命守っていました。それだけに、兄の死は、母にとっては、誠に真に耐え難いことだったに違いありません。
母が死んだとき、その懐には、兄の当時の写真が入っていたのです。

母が兄を偲《しの》んで詠んだ短歌が残っています。

 母の身にかたときもこそ忘れまじ 吾《われ》尽きるまで胸に抱かん 
沈丁花《じんちょうげ》子の忌の墓に供えつつ 独り語るを吾はたのしむ
あまたなる人の心に生きており 亡き子らの死も悠久に生く

吾が子を失った母の悲しみほど、大きいものはありません。

そんな中でも、一億玉砕がスローガンであった当時の日本では、兄が戦死なら、弟がその敵を討つというのが、望まれる姿でありました。当時、中学一年生の、弟の私は勇躍して、陸軍幼年学校《=将来の将校を目指す少年に士官学校の予備教育を行う学校》を受験し、合格し、昭和20年4月、大阪陸軍幼年学校に入学したのです。少年兵ですが、帝国陸軍の一員となったのでありました。

  兄も征(逝)《ゆ》き 母納屋《なや=倉庫》かげに 黙然と 背を撫《な》でくれし 十四にて征《ゆ》く 
                         (宮崎市、島村宣揚)     

幼年学校での生活は、厳格でしたが、また極めて建設的でした。 が、昭和20年8月15日、日本は敗れました。大阪府南河内郡千代田台の大阪陸軍幼年学校に在籍していた私達に、突如、乞食《こじき=ものもらい》姿で全員帰郷すべし、との命令が下ったのです。アメリカ軍が、堺に上陸し、幼年学校を接収《せっしゅう=強制的に取り上げること》するべくこちらに向かっているとの情報が入ったからです。折しも大野宣明校長閣下《かっか=高位高官への敬称》は東京に出向いておられ不在でありました。 が、全権を委任されていた堀尾中佐は、苦慮されたあげく、幼年学校の将校生徒達が、昭和の白虎隊となること《志に殉じて最後まで戦うこと》を心配されて、即刻全員帰郷を、決断されたのでありました。

 我々は翌16日、迷彩された運動着《=迷彩服》を身につけ、深夜、三三、五五、《さんさん、ごご=固まらずに散らばって》千代田台を離れたのであります。 学校の近くの民家の人達が、久しぶりに屋外でのんびりと、床机《しょうぎ=縁台》に座って涼みながら、我々が、足早に通り過ぎ、去ってゆくのを見て、「可愛そうに」と呟《つぶや》いていたのが今でも耳の底に残っています。 数少ない電車をそれでも何とか乗り継いで、京都の市電に乗れたのは翌日の深夜でした。

 京都駅から、市電が河原町丸太町に来たとき、私はここが河原町今出川だと勘違いして下車しました。 その時市電の車掌さんが、懇《ねんご》ろに、小さな少年兵の私に向かって、深々と頭を下げ、「ご苦労様でした」と言ってくださった。 あんな感激したことはありませんでした。 平和な今の時代になって、京都では毎年の恒例行事として、高校駅伝や全国都道府県対抗女子駅伝が都大路を駆け抜けて行われます。 その時、河原町丸太町がテレビの画面に映る、と、私はいつもあの車掌さんのことを思い出すのです。

 翌朝、山端の自宅についたとき、母が迎えてくれました。玄関のたたきの上で手を取り合って、日本が負けて残念だと、二人して涙を流したのも貴い思い出です。 一夜、久しぶりの家に泊まりました。 夜、二階の窓から比叡山《ひえいざん》の方を見渡したとき、私は田圃《たんぼ》の向こう側の家々に電気がこうこうとついているのを見て感激してしまいました。 「戦争は終わったのだ」、と言うことを如実《にょじつ=真実のとおり》に実感したのもその時でありました。

 次の日、ラジオが「大阪陸軍幼年学校生徒は、直ちに帰校すべし」と放送しているのを聞いて驚きました。 私はまた、迷彩服を身につけて千代田台に戻ったのです。 夜に着いて食堂に行ったとき、食卓の上に、我々が「現地自活」で作っていた「かぼちゃ」が、山のように盛り付けてあるのを見てびっくりしましたが、その、かぼちゃがまた、本当においしかったのが今でも思い出されます。しかし、戦友達の中には、二度と帰ってこない人達も、何人かいたのでした。

 少年兵 君やさしかりき また会はむと 涙して別れき 終戦の日に
                      (宮城、小城 某)
 
 敗戦に 陸幼生の 兄帰る 十四才は ひたすら寡黙 《かもく》(川崎市 高田正子)
                         
(記事の一部は、拙ホームページより転載しました)


                ほのぼの こと 落合英夫(PGB01032)
  http://homepage2.nifty.com/hideochiai/
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/8/6 21:13
マーチャン  長老 居住地: 宇宙  投稿数: 358
ほのぼのさん

 拝読していて、胸がジーンとしてきました。

 お兄様のこと。戦争で亡くなったのは、兵隊さんだけではなかったのですね。そんな若さで。

 そして、ほのぼのさんが幼年学校へ。カデさんですね。

 幼年学校が、厳格ーーーということは理解できます。ただ「建設的」と書いてくださっていますが、この意味、もう少し教えてくださいませ。

 本当にしみじみとしたお話、ありがとうございました。
 

 
 
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/8/7 16:59
ほのぼの  半人前   投稿数: 33
マーチャンさん こんにちは
Res. 有難うございました。

私め、偉そうなことを言ってますが、私が 大阪陸幼に在籍していたのは、昭和20年4月から8月末までの、たった5ヶ月足らずでした。 戦時下とはいえ、中学1年生まで、両親の庇護《ひご》の下、凡々として暮らしていた私は、人格として全く未熟な子供でありました(当然かもしれませんが)。
 
幼年学校に入学したその日から、起床ラッパと就寝ラッパでの規律正しい生活がありました。 寝室は、14人が、わら布団を並べて眠るのですが、二人ずつが「戦友」ペアとなって何事にも協力しあい、また、一寝室には3年生(47期)の、いわゆる模範生徒の方が、我々と起居をともにしてました。 

この模範生徒の方から、朝な夕な(将校生徒としてのみならず)、まず人間としての、躾教育を受けたのでした。 躾《しつけ》教育は時に厳しく、時に優しく、未熟だった私を、育て上げてくれました。 今の私があるのは、そこでの躾教育があったればこそ、だと思っています。
 
午前中は授業があり、そこでは敵性語《=英語》も習いましたし、午後は、不屈の精神を学ぶ体育の時間でした。 
食堂では、一つのテーブルに、47期生一人、48期生二人、そして、49期生3人が配置され、毎週その組換えがありました。 そこで又、食事の際のマナー、儀礼、会話の仕方、などなど これらも躾でしょうか、上級生の方から、こと細かく指導を受けました。
時には陸幼生活での、生活の知恵的なサジェッションなどもあり、食事の折りの和やかさは、楽しいものでした。

当時の軍人勅諭《ぐんじんちょくゆ=1882年、明治天皇から陸海軍人に与えられた告諭》の中に、「忠、礼、武、信、質」が説かれてますが、軍人ならずとも、礼(儀)、信(義)、質(素)は、現在の生活基盤の中でも、大事な要素だと思います。 これらの基本について、私を根本から躾教育してくれた、陸幼での生活は、私の人間形成にとっては、きわめて建設的だったのです。

有難うございました。  
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