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わが人生の1ページ

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/8/16 21:07
ダーダ  新米   投稿数: 0
わが人生の1ページを記す(20,8.15ごろ)
                      星出和範
                     (旧姓 田中)
 昭和20年3月、14歳の年小兵として海軍通信学校に入校、5月の夜の空襲で、海に落とす筈《はず》の「機雷」《=水面下に敷設して艦船が触れると爆発する水雷》を寝ている隊舎のすぐ横の空き地におとされた。幸いなことに、塩田を埋め立てた所で地盤が軟らかく、爆発せずに、じわっと、深さ5~6mぐらいの地中に沈んでしまった。
(1回目の命拾い)

 その後、大村海軍航空隊に転勤、そこでは毎日、毎日、(グラマン)の空襲を受けた。木製の(張りぼて)飛行機を並べてあったが、そこには何故か、一発の爆弾も落されなかった。又、本物の飛行機は空襲のとき、どこかに飛んで行って、避難?していたらしい。

 ある日のこと、空襲の合い間に逃げ込んだ小屋に、木箱が(20kgぐらいの重さ)15、6個綺麗《きれい》に並べてあった。その中のものを少し食べてみたら、甘い舌触りで、羊羹《ようかん》の感じがした、そこで、木箱の表書きをよく、よく観るとなんと”ダイナマイト”と書いてあった。!吃驚《びっくり》、仰天!その場から一目散に逃げた。機銃掃射《きじゅうそうしゃ=飛行機から機関銃でねらい撃つ》で一発でも打ち込まれていたら、、、、
(2回目の命拾い)

 8月9日、晴天の昼近く、(電探)今で言う<レーダー> の穴掘り作業中、稲妻のような閃光《せんこう=きらめく光》を受けた。しばらくして、南の空に入道雲のようなものが上がった。班長が、あれは空中爆雷だろう、との説明があった。後で解ったが、いわゆる(長崎の原爆の光)
 もっと近かったら、やられていたかも、(直線距離で20km)
(3回目の命拾い)

 その後、8月15日の玉音放送は全員集まって聴いたが、泣く者は一人もいなかった。

 9月1日に復員、途中,大牟田駅を通過したが、駅舎が焼けて
しまってホームだけ残っていたのが印象的であった。

 60年前の出来事を、今、思うとき、この事を誰かに知って貰《もら》いたいと、ここに残した。

                      
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/8/19 20:21
パープル  新米   投稿数: 9
映画「父と暮らせば」を見てきました。
広島原爆を扱った映画ですが、映画を作った人達の
思いが意志として、熱く静かに伝わり、大変感動しました。
ダーダさんは、長崎原爆を浴びられたかもしれなかった。
親戚《しんせき》に長崎原爆で父親と兄弟を亡くした者がおります。今は遺品の着物を父が大切に着て偲《しの》んでおります。
ダイナマイトが甘いなんていう凄《すご》み、ゾーーーッとします。戦争は絶対反対です。
ダーダさん、実録をお聞かせ頂きありがとうございました。



前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/8/22 16:41
恵月  新米   投稿数: 2
ダーダさん、こんにちは。はじめまして。恵月と申します。

とても感慨深く読ませていただきました。
実家が佐世保なものですから父が、事あるごとに原爆の
話をしておりました。

8月9日の午前11時2分田んぼで仕事していたら
西の方向にピカッ!!と******

早岐の町がやられた!!と思ったらなんと数十キロも
離れた長崎だったと驚いていました。

その後の惨状はご存知のとうりですよね。
現在筑紫郡那珂川町に住んでおりますが、広島の原爆
の子の像「佐々木貞子さん」のお兄さんが那珂川町の
別所に住んでおられますが、私も原爆の話題と隣り合わせ
の状態です。平和が如何に大事かつくずく思います。

                  恵月


前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/8/24 18:04
syouu  新米   投稿数: 14
ダーダさん、今日は。

年端もいかない、子供の時代に大変な経験をなさいましたですね。
私は国民学校5年生で終戦を迎えましたが、今思えば、授業は殆《ほとん》ど無く、毎日開墾《かいこん=山野を耕して田畑にすること》に借り出されていましたが、居住していた佐世保は、海軍工廠があった為 昭和20年の春前から連日、艦載機《かんさいき=艦船から発進した飛行機》の攻撃を受け、開墾していた私達、子供らにも容赦なく機銃掃射を浴びせて来て、この時ばかりは生きた着心地がしなかったのを覚えています。

操縦席からは、子供と分りながら撃ち捲《ま》くっていたようです。
又、あの爆弾が落下してくる時の シュル シュル シュル という無気味な音、機銃弾が近くで風を切る時に発する ピュン ピュン という音、今でも忘れられません。

次の時代を背負う子供達に、このような目に遭わせないようにしなければなりませんですね。

               ~~ 昭 ~~





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