@





       
ENGLISH
In preparation
運営団体
メロウ伝承館プロジェクトとは?
記録のメニュー
検索
その他のメニュー
ログイン

ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失

戦後の食糧難とこども

  • このフォーラムに新しいトピックを立てることはできません
  • このフォーラムではゲスト投稿が禁止されています

投稿ツリー


前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/8/15 15:05
マーチャン  長老 居住地: 宇宙  投稿数: 358
こんにちは

 昭和20年8月15日の敗戦のあとも、数年、きびしい食糧難の時代がつづきました。

  進駐軍のアメリカ兵に、チョコレートやガムをねだるこどもたちをみて、私の父は「渇しても盗泉《とうせん=中国山東省にある泉・名前が悪いので孔子が水を飲まなかったという》の水は飲まず」(どんなにお腹がすいても、みっともない真似はしてはいけないーーーという意味です)といって聞かせてくれました。

 母は「そんなことをいっているより、こどもたちを飢えさせないことのほうが大事よ」といっていました。

 どこの家でも、そうだったようです。
 当時の親たちは、この二つの考えの間でバランスを取りながらこどもを育ててくれたのですね。まあ、そのおかげで、ほとんどの子供たちが、なんとか飢えずに無事成人しました。

 それから、いま、日本から途上国などに、援助をしていますが、当時は、日本も援助を受けて、それで学校給食が、なんとかやれたのです。
 ガリオア・エロア資金《=敗戦後食糧や医薬品の輸入に当てられた》は、戦勝国アメリカからのものでした。
 また、ララ《=アジア救済連盟》物資は、アメリカ在住の日系人の方のご尽力で送られてきたものと聞いています。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/8/15 22:29
toshy  常連   投稿数: 42
マーチャン
引用:
 昭和20年8月15日の敗戦のあとも、数年、きびしい食糧難の時代がつづきました。

 私の「上海の思い出」に書きましたが、引き揚げて来るまでは、戦争中の食糧難は全く知りませんでした。

 そして博多に上陸して、真っ黒(正しくは茶色)なパンに吃驚《びっくり》したものでした。

 それは未だ良い方だったのですね。

 大阪に引き揚げてからは、毎日雑炊とか、サツマイモ・ジャガイモが主食でした。

 雑炊も米の雑炊では無く、芋雑炊。

 ひどい時は芋では無く、サツマイモの茎が入った雑炊でした。

 学校への弁当もジャガイモの蒸した物。

 農村が近かったので、もう着ることの無い母の和服などを米と物物(ぶつぶつ)交換するために、父はリュックサックを担いで、買い出しに行ったものでした。
 
 タケノコ生活と言う言葉が有りました。

 一枚一枚着ている物を脱いで生きて行かねば成らなかった、庶民のサマを表したものでした。

 米は配給制で、米穀通帳《=1941~1982年まで各世帯に配布》を持って旅行しなければ、旅館で米のご飯を食べさせてもらえない時代でしたね。

引用:

 また、ララ物資は、アメリカ在住の日系人の方のご尽力で送られてきたものと聞いています。



 ある日、横浜の赤レンガ倉庫の有る埠頭《ふとう》公園に行きましたら、ララ物資のいわれを書いた碑が有りました。
            toshy
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/8/16 8:15
らごら  常連 居住地: 横須賀市  投稿数: 46
マーチャンさん toshyさん

 僕の場合も朝鮮(現韓国)に居たときは食料には困らない生活でしたが、引き揚げてきてからの食生活はかなり悲惨でした。
引き揚げ船での食事は海草ばかりの飯?に目を白黒させました。
初めて乗った内地の小さな列車(朝鮮の鉄道線路は広軌《こうき=レールの間隔が大きい)》で買った弁当は大豆ばかりで食べられなかった。
でも、千葉県に住み着いてからの食事は酷かった。
 大豆滓《だいずかす=大豆から油を絞った後のかす、》を粉にしてすいとんにしたもの・芽を取った後のサツマイモの蒸《ふ》かしたもの・サツマイモの蔓《つる》を干したものが大量に入った御飯・半分以上大根が入った御飯(大根は米粒と同じ大きさに刻んであった)・フスマ(メリケン粉を精製した残り滓)が大量に入ったすいとん・トウモロコシの粉で作ったパンやすいとん・大根葉を大量に入れた飯などなど・・・
 近くの池や田圃《たんぼ》で捕った海老蟹(ざりがに)や摘み取ったセリなどはごちそうの部類でした。
父とリュックサックを背負って農家を回っての買い出し、お金を払って買うつもりなのに乞食《こじき》扱いで追い払われる始末。
あのころの農家の人は、いい人もおられたけれど、かなり威張っている人も多かった。入れ替わり立ち替わりで毎日のようにいろいろな人に食料を所望されると、ぞんざいな口で追い払いたくもなるのでしょう。
 引き揚げて3年程度経ったころ父が郵便局に再就職できたので、やっとまともな御飯が食べられるようになりました。
父は朝鮮に居た頃はやはり郵便局に勤めていて、局長になる寸前で終戦、こちらで再就職しても戦前のキャリヤは無視され、ペーペーの下っぱからのやり直しだったようです。
 あの頃の両親は本当にご苦労なことでした。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/8/16 9:20
toshy  常連   投稿数: 42
引用:
引き揚げ船での食事は海草ばかりの飯?に目を白黒させました。
 これはどのような物だったか覚えが有りません。

 覚えが無いところを見ると、そんなにひどい物では無かったのか
も知れません。

 上海で積み込んだのかも?

引用:
初めて乗った内地の小さな列車(朝鮮の鉄道線路は広軌なので大きい)で買った弁当は大豆ばかりで食べられなかった。
 これも覚えが無いのですが、汽車に乗るまでの博多の宿泊所で日本の事情に慣れたのでしょうか。

引用:
でも、千葉県に住み着いてからの食事は酷かった。
 大豆滓を粉にしてすいとんにしたもの・芽を取った後のサツマイモの蒸かしたもの・サツマイモの蔓を干したものが大量に入った御飯・半分以上大根が入った御飯(大根は米粒と同じ大きさに刻んであった)・フスマ(メリケン粉を精製した残り滓)が大量に入ったすいとん・トウモロコシの粉で作ったパンやすいとん・大根葉を大量に入れた飯などなど・・・
 このあたりは大阪と同じ、日本全国が同じ状況だったのでしょう。

引用:
父とリュックサックを背負って農家を回っての買い出し、お金を払って買うつもりなのに乞食扱いで追い払われる始末。
あのころの農家の人は、いい人もおられたけれど、かなり威張っている人も多かった。入れ替わり立ち替わりで毎日のようにいろいろな人に食料を所望されると、ぞんざいな口で追い払いたくもなるのでしょう。
 これも同じ経験をしました。

引用:
 あの頃の両親は本当にご苦労なことでした。
 私の父も一応元の会社に復職出来たようでしたが、食糧難時代の
苦労は同じく大変でした。

 ところで食糧難時代の思い出を、もういくつか。

 米国からの援助だったのでしょうか、トウモロコシ粉の配給が有
りましたね。
 それを団子にして雑炊にいれたり、蒸しパンにしたり・・・。

 パンと言えば直接通電のパン焼き器が有りました。

 10cm 位の間隔を置いてブリキ板の電極が有り、その中にパン種を入れて 100V に繋《つな》ぐとパンが出来るのです。

 最初パン種を丸めて電極の間に入れて通電したのですが、幾ら経《た》っても焼けないのです。

 原理を色々考えて直接通電に気づいたのは少し経ってからでした。

 電極の間にパン種を流し込まねば成らなかったのでした。

 パン種は食塩で味付けするのでした。
 その食塩が電気を通していたのでした。

 その食塩の量や水加減が微妙で、コツを会得するまでは、焼けな
かったり、フューズを何度も飛ばしたり。
(フューズが入手出来ないので、荷札の細い針金を使ったり)

 らごらさんとは、このような経験も共有出来そうですね。
                toshy

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/8/20 15:11
Pan  常連 居住地: 大阪府  投稿数: 59
らごらさん、みなさん、こんにちは。

引用:
引き揚げ船での食事は海草ばかりの飯?に目を白黒させました。
 この「ひじき」のような飯とは『海宝麺』《かいほうめん》のことではないでしょうか?
 終戦間際に発売され、暫くあったと思います。 私も何回か食べた記憶がありますが、これは食料の配
給以外の市販品でした。

 検索したら、イカスミ、ウニ、ワカメ、ホタテなどの粉末を練り込んだ随分デラックスな『海宝麺』の他に、
昭和20年頃の戦争末期に、芋づる、ドングリ、アラメ等で代用食『海宝麺』を作った会社の社史や、それ
で食いつないだ話なども見付かりました。

 これらが同一品を指しているかは判りませんが、『海宝麺』の名前で思い出の糸が掴める方もあろうか
と思います。

 
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/8/21 8:02
らごら  常連 居住地: 横須賀市  投稿数: 46
Panさん みなさん
引用:
 この「ひじき」のような飯とは『海宝麺』のことではないでしょうか?
あぁ『海宝麺』と云ったのですか。僕は海草麺だと思っていました。(-_-;)
変わった食べ物では、当時ドングリ羊羹《ようかん》がありました。
朝鮮から引き揚げて一先ず福井県の田舎に落ち着いたのですが、そこも食糧難であることには変わりありません。
山に入ってはドングリを沢山採ってきて、町のお菓子屋さんへ持って行くと、目方に応じてドングリで作った羊羹をくれました。
少し固めで若干苦み(渋味?)はあったけれど、一応菓子らしい味がしましたよ。
蚕のさなぎの佃煮《つくだに》なども食べましたっけ。これは臭くて不味《まず》い。
  条件検索へ