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太平洋敗戦の時

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/8/21 11:42
てっちゃん  新米   投稿数: 6
昭和20年8月、私の小隊25名は中隊から独立して、マレー半島南部の密林で
熊本46師団直属の製材工場の警備をしていた。情報が全く途絶した中で、8月21日
上空を英《=イギリス》軍戦闘機が飛来、マレー人から「日本は負けた。町には共産軍が来ている」と知らされた。その後連隊からオートバイの伝令が来て命令受領、
「日本軍は英軍の命令で直ちに北方に移動する。貴隊は連隊の兵器弾薬糧秣《りょうまつ=食糧やまぐさ》集積所に移動し、英軍に引き渡した後連隊に復帰せよ、移動の場所は分からない。」
と私の小隊は英軍と共産軍の真っ只中に残された。

その当時のことを記した二人の分隊長の手紙があるので、原文のまま下記する。

*八反田元分隊長の手紙(宮崎県高岡町 農業)

復員後すぐ記録した簡単なメモを基に自分の思い出を記したいと思います。
《なお》文中小隊長殿と呼ばわして頂きます。

小隊はマサイにおりましたが8月末製材班護衛隊として敵中に残され、本隊は北部の方に集結を命じられて四面楚歌《しめんそか=中国の故事による、孤立すること》の中幾日かすごした。
この間中華街はよく抗日ビラを家に貼《は》り付け連合軍勝利を誇示していたが、小隊長殿は敗者の立場にありながら、勇敢にも数名の着剣兵《=銃の先に銃剣をつけた兵》を率い、これを剥《は》がして鬱憤《うっぷん=心に積もる怒り》をはらしたこと、又私ども2-3名丸腰《=武器を身につけていない》にて、拳銃《けんじゅう》携帯の共産軍に野菜供給の交渉して相手から心よく受け入れて貰い、共産軍将校の寛容さに感心した思い出があります。

9月3日に兵器弾薬糧秣を連合軍に申し送るため、小隊長以下約20名ブングタウに移動した。連合軍からはナジ少佐率いるインド軍がトラック3台で到着、その間原住民が食料衣類などを狙《ねら》って遠巻きに我々を包囲していた。
田淵氏は遂《つい》に発砲、私は心配して注意しましたが上を狙っての威嚇《いかく=おどかし》射撃であった。

私は小隊長殿の傍で申し送りの手伝いをしましたが、其の時の小隊長殿の毅然《きぜん=物事に動じないさま》たる態度に連合軍は手も足も出なかった。相手はまず武装解除を要求したがそれには応じられず、次にそれなら貴官の軍刀を机の上に置いてくれ、それにも応じなかったので、遂に小隊をバラバラに解散してここを一刻も早く立ち去ってくれということで申し送りが完了した。

9月10日薬物申し送りのため9マイルの地に移動、9月15日申し送りすべて完了、部隊復帰のため移動を始めたが武装をしていても少数であり、非常に身の危険を感じ、野営には必ず道路から脇に入り込んでおこなった。又襲撃を受けバラバラになった場合は、戦中に行ったことのある山中を集結の場所に決めていた。途中ある町の通過に住民が作った「抗日軍歓迎連軍」と大書した門をくぐるときは、襲撃を覚悟したが無事に本隊に復帰することが出来た。

このことは小隊長殿のブンタウにおける沈着した行動態度で、小隊全員の生命を保つことが出来たと思う。指揮官の決断の大切さ今でもわすれない。

10月1日ランゴス移動、10月21日メンキポールとなっています。
この間の移動中に小阪第5分隊長が下痢の激しい重病にかかり、分隊員がかわるがわる肩にかけ用便を助け、心からなる戦友愛を発揮していました。非常に衰弱がひどく野戦病院に送られることになったのですが、私は輸送トラックにゴム枝を切り日陰を作り乗せました。その時に上半身をおこし、私に班長殿長い間お世話になりましたと言われたことが、ハッキリ脳裏に残っています。3日後に英霊として帰ってこられました。中隊全員で穴を掘り、ゴムの枯れ枝を積み重ねて火葬致しました。(以下省略)

*菖蒲田元分隊長の手紙(宮崎県南郷町 農業)

終戦後兵器弾薬糧秣の引継ぎという大任を負わされた隊長殿としては大変なご苦労があったのだなとしみじみ感じています。

若し武装解除がおこなわれていたら、私どもは部隊復帰が出来なかったでしょう。小隊長殿の勇気ある決断があったばれこそ、最後まで敵中横断が出来たのです。
ここで思いだしたのが最後の糧秣の引継ぎを終えて引き上げる途中 地名は忘れましたが、ある町のはずれでイギリスの将校と出会い、「何故敬礼しないのか」と文句があり、小隊長殿は相手をにらみつけて刀の柄に手をかけられ、一触即発《いっしょくそくはつ=ちょっと触れても爆発する》の場面がありました。私も瞬間やるぞと自覚したことを覚えています。イギリスの将校はそのまま黙って立ち去り難を逃れました。

私はこのことを時々自分の子供達や友達との談合の折に話すことがあります。(以下省略)
                               
我々の小隊は、「一寸先は闇」《=先のことは全く分からない》の戦線で、望外《ぼうがい=思いのほか》の幸運に恵まれて殆《ほとん》ど無傷であった。

精鋭を謳《うた》われた我々の熊本46師団(静兵団)はオーストラリア侵攻作戦のため、北方の小スンダ列島へ昭和18年展開《てんかい=部隊が散開すること》したが、最後尾の鹿児島連隊は硫黄島《いおうとう》へ転進《てんしん=進路を変える、または退却》を命じられ、全員玉砕《=戦死》した。

我々の都城連隊主力乗船の日南丸はバリ島北方海上で米潜水艦に轟沈《ごうちん=瞬時に沈没する》され連隊長、連隊旗手以下147名戦死した。

我々の中隊乗船のボロ船赤城山丸は最前線のスンバ島に無事到着した。
昭和20年初頭、転進を命じられ、スンバワ、ロンボック、ジャワ、経由同年4月シンガポール上陸、マレー半島南部に展開した。
                         てっちゃん  
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/8/23 8:31
toshy  常連   投稿数: 42
 てっちゃんさんの句集恋飯によりますと、終戦後はレンパン島の
捕虜収容所で飢えに苦しんだ生活をされたと書かれて居ました。

 インターネットで検索すると、「レンパン島」で幾つも記述が
有りますね。

 思い出したくない記憶かも知れませんが、後世に残す事実として
ここにお書き下さると宜しいかと存じます。
                toshy
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