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引揚点描 斉藤恒毅氏の記録(北朝鮮)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/9/2 17:13
団子  半人前   投稿数: 22
  
一九四ハ年〈昭和二一年)五月二九日、丁度五十年前に興南から集団で脱出し、徒歩で三八度線《南北朝鮮の境界線》を越え、収容された京城の日本人世話会の一隅で前夜、就寝するまで別に変ったこともなかった父が、夜があけたのに目を覚さず、眠っているうちに息絶えていた日です。

当時一四才だった私は詳しい死因は聞かされませんでしたが、元々、心臓が丈夫でなかったようで、少しの発熱でも苦しがっていた父が、家族を連れての長い逃避行による過労と栄養失調から、心不全を起こしてしまったと思います。

  父、斉藤 冬行 享年三十九才 余りにも短い生涯でした。

父の死を知った時の私は、涙をこぼしませんでした。それより、「これから先どうすれば良いのか。」という気持ちが強かったのだと思います。

随分年月が過ぎ、父のことを想い出すと、三十八度線を無事に越え、仁川港から引揚船に乗る日をどんなにか楽しみにしていたうちに、引揚げ目前に、妻子を残して死んで行くことがどれ位、くやしくまた心残りであったかと思わずにいられません。

さて、父のことをいろいろ述べてきましたが、私達が興南を脱出し引揚船で博多に上陸するまでのことは、年月日を含めてよく憶えておりません。人間の心理は、いやなこと、苦しかったことは思い出したくないため早く忘れてしまうのだと聞いたことがありますが、私の場合、全くそのとおりだと思います。それで、当年八七才になる母に聞いてみると、興南出発は五月九日で、約二〇〇名の梯団《ていだん=軍隊用語で部隊のこと》の人員と所要日数は、母の思い違いかも知れません。私はもっと日数を要したような気がします。三十八度線は、山の中の谷間に溝のような流れがあり、これが境界線だといわれました。

南鮮に入ると間もなく、米軍の検問所のような所で、全員が頭から白い粉末《=殺虫剤》をかけられた後、幌《ほろ=覆い》つきのトラックで京城の本願寺まで運ばれ、その後、日本人世話会があった小高い場所にあって緑の多い、元料亭だったという大さな建物に落ちついていたのです。

父の死後、どれ位の期間、京城にいたのか忘れましたが、母によると、博多に上陸したのは六月二九日だったようで、父の死から一ケ月かかったことになります。

仁川からの引揚船は、LST=《戦車や人員の上陸用の船》という米軍の船でしたが、海中の浮遊機雷《ふゆうきらい=水面近くに浮かべられた水雷》を避けるためまわり道をして相当な日数を要し、博多湾に入っても、二、三日後にようやく、上陸できました。引揚げは熊本の実家、兄の家にご厄介になりましたが、兄、私の叔父は、父の就職、学校まできめて待っていたので、大変かなしみました。

父は興南で鷹峰里朝鮮人国民学校の校長をしていました。叔父はなにくれ面倒をみてくれましたが嫂《あによめ》がつらくあたるので母はたまりかねて山口県の兄をたよってうつりました。後年、母は、私がまだ三十才でしたので嫁が嫉妬《しっと》したのでしょう。そのとき栄養不足などで、ももよりも膝《ひざ》の関節が太いくらいやせていたのにねーと笑っていましたがそんな時代でした。

私はすぐ少年工として宇部興産にはいり、ほどなく県警の試験を受けて再就職して定年まで勤務しました。母と私、弟二人、妹一人の五人は一人も欠けることなく引揚げて、人様に迷惑をかけるようなこともなく、平凡に暮らしています。
母の戦後は大変でした。感謝しています。

   1996年同窓誌への投稿から、発行者の許しを得て。


前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2006/3/21 1:02
西のちゅうさん  新米   投稿数: 1
私は満鮮《まんせん=満州と北朝鮮》国境の傍の北朝鮮側茂山で終戦を迎えました。
国民学校《戦時中の小学校》4年生でした。終戦から半年間の避難生活は大変でした。
斉藤さんの文にあるように、数千人居た収容者が一冬で殆《ほと》んど
死んでしまいました。生きて還《かえ》れたのが不思議なくらいです。
あれから60年経ち、私も70を越しました。少しずつ苦しかった思い出を書き残して置きたいと思うようになりました。
時折、新聞やテレビで脱北者の報道で茂山らしき映像を目にするたびに思うのは国交が開けたら彼の地で無くなり、葬儀もなく穴に投げ込まれた妹たちの終焉《しゅうえん=死に臨む》の地にいってやりたいです。
また、茂山から一人で日本に帰りついた友、寺田穂積さんを探しています。
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