@





       
ENGLISH
In preparation
運営団体
メロウ伝承館プロジェクトとは?
記録のメニュー
検索
その他のメニュー
ログイン

ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失

うさぎ狩り

  • このフォーラムに新しいトピックを立てることはできません
  • このフォーラムではゲスト投稿が禁止されています

投稿ツリー


前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/9/29 11:25
かれい  一人前   投稿数: 137
♪うさぎ追いし かのやま~ 
 小鮒《こぶな》釣りし かの川~

という歌は私たちには懐かしい唱歌ですが、私の通った小学校では
冬の行事で「うさぎ狩り」がありました。6年生の時の、一度だけの
体験でしたが。

私は5年生から大阪市内の小学校に転入したのですが、転入先の
学校では、5年生の夏は一泊の臨海学校、6年生の夏は林間学校
が恒例になっていました。確かではありませんが、冬の「うさぎ狩り」
は6年生恒例《こうれい=決まって行われる行事》の冬の行事だったような気がします。

私たちは、うさぎ狩りってどんな風にやるんだろうと興味津々《きょうみしんしん》、ドキドキ
わくわくしながら、その日を待っておりました。

行き先はマキノだったと思います。多分、スキー場として有名な
マキノのどこかだったのでしょう。

狩はどのようにしたかといいますと、生徒たちは山すそのあたりで、
両手を広げた程の間隔をとって、全員が山を囲むように一列横隊に
並びます。この辺はちょっと記憶があいまいで、幾つかのグループ
に分かれて、持ち場に配置されたのだったかも知れません。

その体勢で待機していて、先生からの合図があると、全員がワーと
声をあげながら、ゆっくり山を登るのです。びっくりすると上へ上へと
逃げるうさぎを下から追い上げ、上の方では、飛び出してくるうさぎ
を狙《ねら》って、猟師《りょうし》さんが待ち構えているわけです。
しばらくするとダダーンという鉄砲の音がして、それでお終い。
逃げるうさぎの姿を見たものは誰もいませんでした。

先生が高いところから、獲物《えもの》を高々と掲《あ》げます。
それを見て、生徒たちはワーイ!と喜んで歓声をあげたのでしょう。
その情景はあまり記憶に残っていないのですが、私はうさぎを哀れに
思ったような気もします。

《と》ったうさぎの肉は「あしたの給食にはいるんやろ」とか「職員室
で先生が食べるんやろ」とか、子供たちはガヤガヤ云ってましたが、
どう処分されたのか、結局わからずじまいでした。

終戦から数年たったその頃は、もはや飢餓《きが》の時代は脱《だっ》していました
ので、みんなうさぎを食べるのは嫌だと思っていたのです。
もしかしたらその行事も、その年で最後だったかも知れません。

1951年、大阪市内の学校行事「うさぎ狩り」の想い出です。

                       かれい
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/9/29 22:06
マーチャン  長老 居住地: 宇宙  投稿数: 358
かれいさん

 大阪で「うさぎ狩り」とはびっくりしました。
 今だったら動物愛護連盟から「こどもにそんな残酷《ざんこく》なことを」とクレームが来たかもしれませんね。

 子どものころ、私の家でもニワトリを飼っていました。可愛がっていましたが、トシをとって玉子を生まなくなったトリはつぶしてトリ鍋《なべ》にしました。
 ボールに入っていた、まだ暖かい肉に触《さわ》ったときはショックでした。でも、夕食のときは、そんなことを忘れて美味しくいただきました。

 昔の子どもはタフだったのですね。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/9/30 18:18
フランク  新米 居住地: 千葉県船橋市  投稿数: 5
かれいさん、

 うさぎ狩りを拝読。懐かしき限りです。大阪でうさぎ狩りができたとは驚きですが、私の場合は九州の草深い山村、昭和16年《1941年》頃のことです。
 追い上げるのは、かれいさんたちの方法に同じですが、捕獲《ほかく》するのは残酷至極でした。上級生たちが、岡の上の兎の逃げ道に数丁の鉈《なた》をセットして待ちます。農村の山作業用鉈の刃はピカピカに研《と》いであるのです。
 刃先を踏んだ兎は半ば脚がちぎれて走行不能《そうこうふのう》となるわけです。捕《つか》まえた野うさぎ数羽、誰が食べたのか記憶にありません。少なくとも、私ら小さい子は食べる気になりませんでした。

 すっかり忘れていたのですが、お陰で後年パリ郊外辺り《あたり》で食した獣肉《じゅうにく》類中の野うさぎの際立った美味も思い出します。
(フランク古川記)

--
S.Furukawa

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/10/1 12:21
かれい  一人前   投稿数: 137
マーチャン

今なら動物愛護連盟からだけではなく、父兄からのグレームもつきそうですね。

ただ、あの時も、死んだうさぎは遠くから見せられただけでしたから、あるいは
そういうことも、職員室での議論の結果だったのかも知れないと思えます。

飼っていたにわとりをつぶすということは、どこの家でもやりましたね。
にわとりは、ペットではなく、貴重な食料源として飼われたわけですから。
私も毛をむしられたにわとりの嫌な場面が目に残っています。
母の話によりますと、絞《し》める役の父がおびえてしまって、その日は気まずい
食事になったそうです。

私たちは他の生き物の命を奪って生きていますが、きれいにさばかれた肉片
からは、もはや、他の命を思い出すこともなく、勝手で、都合よく生きていますね。

                        かれい

                      
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/10/1 12:47
かれい  一人前   投稿数: 137
フランクさん

引用:
 追い上げるのは、かれいさんたちの方法に同じですが、捕獲するのは残酷至極でした。

捕まえかたもいろいろあったのですね。
うさぎ用ではなかったかもしれませんが、トラバサミという道具もあったと聞きます。
なんとも残酷な方法ですね。まぁ、ゴキブリホイホイにしてもそうなんですけど。(^^;

フランクさんのお話を伺って、長年の疑問が氷解《=とける》しました。
やっぱり「兎の逃げ道」があったのですね。
私たちはワーワーと声を出すだけでしたが、うさぎの姿など全く見ませんでしたので、
そんなにいっぱいいたわけではないうさぎを、猟師さんがすぐに仕留め《しとめ》たということが
不思議だったのです。

引用:
捕まえた野うさぎ数羽、誰が食べたのか記憶にありません。少なくとも、
私ら小さい子は食べる気になりませんでした。

そうでしょうね。必要なら、そういうことにも、やがて慣《な》れるということでしょうね。

                        かれい

      
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/10/12 8:59
紫竹の  一人前 居住地: 神戸  投稿数: 92
かれいさん 思い出しました

中学の時ですから、戦中のことです。二年生くらいだったでしょうか。とすると、1940年くらいでしょう。
雪の日でした。山を囲《かこ》むようにではなく、山の片側から横一列になって追い上げたと思います。兎は後ろ足が長いから、登るのは早いけど、降りるのは下手なのだ、向こう側で降りてくるのを捕《つか》まえるのだ、などと教わりましたが、本当でしょうか。
ともかく、一匹も捕まえることは出来ず、あとで何を食べたのやら。場所は、京都市の北の方だったと思います。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/10/30 17:36
ほのぼの  半人前   投稿数: 33
かれいさん

地球一周遅れの 亀レス です。
が、ほのぼのの拙ホームページのエッセイ欄に、下のような文章が、ありましたので、関連する話題として、up させていただきました。 御笑覧《ごしょうらん》下されば、幸甚《こうじん》です。

 ☆★☆葉山 兎追いしあの山☆★☆

洛北曼珠院《らくほくまんじゅいん》の近くに、葉山と言う小高い丘のような、小山が横たわっている。
私が子供の頃、この山でも、松茸がとれた。土地の人達が集まって、葉山の稜線《りょうせん=尾根》近くで、松茸すき焼きなど、楽しんでいた情景が、懐かしく思い出される。冬になると、うっすらと、この山にも雪が積もる。昼頃になると、雪は消えてしまうのだが、この葉山にも、野兎がいた。

私が、小学校一年生の頃、この葉山で、修学院小学校の全校生を動員して、兎狩りをしたことがある。上級生や若い先生達は、葉山の稜線近くに、長い網を張り巡《めぐ》らした。我々小学生は、葉山の麓の道に一列横隊に並び、めいめい竹や棒の小枝を持って、「始め!」の合図と共に、一斉に「ワー」とかけ声をあげながら、尾根筋に向かって、まっすぐに攻め上るのだ。みんなが一列になってないと、飛び出してきた兎が、隙間《すきま》から逃げ降りてしまうので、それでは意味がない。だから、先駆け《さきがけ》は絶対禁止である。

皆は半時間ほどで、尾根筋に出た。逃げ上がった兎が網に引っかかっているその姿を見るのを、楽しみにしていたのだ。だが、兎は一匹も捕《と》れてなかった。それでも、楽しかった。我々一年生は、わいわいがやがやと、はしゃぎながら、学校に帰った。
上級生達は、続いて、次の山の尾根で、今一度、兎の捕獲を試みると言うことであった。

次の日、学校に行くと、その収穫、兎3匹のなめし革《注》が、理科の実験室に、展示されていた。兎の皮は、戦地の兵隊さんの防寒帽になるのだ、と言うことであった。
一年生には、その後、お椀《わん》一杯の、兎汁が給食された。私達にとって、給食と言うものの最初であった。
昭和13年《1938年》の、或る冬の日のことであった。
                                           (1999.01.29)
注 なめし皮=動物の皮を薬品で処理し腐敗を防ぎ柔軟性弾性などをつけたもの
  条件検索へ