絵日記による学童疎開600日の記録 <英訳あり>
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投稿日時 2005/10/14 20:14
えー
居住地: 岐阜
投稿数: 5
---この記事の元のサイトは「リンク集」の「絵日記による学童疎開600日の記録」です---
---(「リンク集」へはこのページ左側のメニューからお入りください)---
私の知人で、戦争当時東京で小学校へ行っていて集団疎開の経験をもった方がおられます。
その方が同級生と集まってその当時のことを本に出されました。
そしてまた・平和祈念プロジェクト21として、ホームページも作られています。
そのホームページの責任者のかたのご了解が得られましたので転載いたします。
《注1 学童集団疎開》
《太平洋戦争末期、戦争の災禍を避けるため、大都市の子供たちを農山村地帯に疎開(=住まいを移す)させることになり、縁故があるものは個人で、縁故の無いものは学校毎の集団で受け入れ先の民家や寺などに送り込んだ》
えー
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絵 日 記 第 1 回 ー 疎 開 以 前 -
---ホームページ責任者注---
この絵日記は年数が経っていますし、紙質も悪いので実物は見にくいと思います。
ここでは絵日記をクリックすると拡大されて、少しは見易いような方法で工夫してあります。
また文章は旧かなづかいで読み慣れない方が多いと思いますので、あえて現代かなづかいに直し,ひら仮名も読みやすい程度の漢字にして、右の欄に抽出してあります。
記録として見ていただく為に ○年女子・○年男子として名前は出して居りません。
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戦争が始まった
昭和16年12月8日(月)晴 1年女子
朝の七時ごろのニュウスでせんそうがはじまったことをいいました。
学校で時々ニュウスをききに外へ出ました。今日は一日中ラジオをつけていました。
先生の評
へいたいさんにまけぬよう、りっぱなこどもになりましょう。
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はじめての空襲
昭和17年4月18日(土)曇 2年女子
一時間目は少し学げい会のおけいこをして、二時間目からいよいよ始まりました。入ぢようけんをきるのは、大谷さんと久米さんと杉崎さんと私の四人でした。
開会のじは3部二年森士郎さんでした。閉会のじは一部二年岩田のり子さんでした。 ー中略ー 先生が「さっきの学げい会はとてもお上手でしたね」とほめてくださいました。
おひる休みの時、あそんでいますと、アメリカのひこうきがとんで来て、なにかおとして行きました。すこしたつと、空しゅうのさいれんがなりました。おきょうしつにはいってって待っている間お話会をしました。 ー中略ー
四時ごろかいじょになりまして安心いたしました。
先生の評
みんながまもっています。あわてたりこわがったりしてはいけません
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疎開出発の日
昭和19年8月21日(月)晴 6年女子
今日からは、日記を鉛筆で書きます。いよいよ今日、集団疎開で、家を離れます。隣組の人に、一応ごあいさつにあがりました。
お風呂に二度入って身を清めてから、隣組《となりぐみ=戦時中町内会の下に作られた班》の方に送られて出発しました。学校で、始業式、壮行式《そうこうしき=旅立ちを送る式》のあった後、高田の馬場へ行軍しお母様達と高田の馬場で別れました。
荷物ほどきは、大変でしたが、万力を出してやりました。
私の泊めていただく所は、村野さんの家です。寝る時なんだか
おかしいやら楽しいのでついおしゃべりしてしまいましたが、私は皆よりずいぶん早く寝てしまったようです。
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疎開出発の日
昭和19年8月21日(月)晴 4年女子
今日は、いよいよ出発の日です。朝出る時、みんなに「さよなら」とご挨さつをして、おうちを出ました。学校で始業式をすましてから疎開をする人たちの壮行式をしました。それがすんでお教室へ帰って少し休んでから、お母様にお荷物を持って行っていただいて、私達は高田馬場までみんなで行進しました。
着くと、お母様方がにこにこして荷物を持って待っていらっしゃいました。その荷物を受け取って電車に乗りました。
久米川に着いてすぐ昼飯をたべました。とてもお腹がすいていたので、とてもおいしいでした。晩御飯も草原でいただきました。晩豊島さんと同じおふとんで寝ました。
平和祈念プロジェクト21
--
えー
えー
居住地: 岐阜
投稿数: 5
疎開生活 初期
準備期間が短く、しかも他の学校のようにお寺や宿屋のような屋根のある場所での生活ではないので、寝る場所のみ近くの農家などに分宿したが、朝起きると先ず農園(疎開学園)まで歩き(離れている宿舎の場合は20分ぐらい)洗面をするところから1日の生活が始まる。
3度の食事も勉強も全て戸外なのである。はじめのうちは食事をする椅子《いす》も机もなく、地面の上にじかに座っての生活であった。
昭和19年(1944)から20年(1945)にかけての冬は、例年になく寒く食料も充分ではない、幼い子どもにとって過酷な日々がはじまるのである。
警戒警報・空襲警報が頻繁に発令されるようになるのは11月に入ってから、初期はまだ穏やかな日記が多い。防空壕は男子高学年の生徒と先生が5ヶ所に掘った。
地面でご飯
先生のお給仕
地べたで食事
地べたで食事
平和祈念プロジェクト21
準備期間が短く、しかも他の学校のようにお寺や宿屋のような屋根のある場所での生活ではないので、寝る場所のみ近くの農家などに分宿したが、朝起きると先ず農園(疎開学園)まで歩き(離れている宿舎の場合は20分ぐらい)洗面をするところから1日の生活が始まる。
3度の食事も勉強も全て戸外なのである。はじめのうちは食事をする椅子《いす》も机もなく、地面の上にじかに座っての生活であった。
昭和19年(1944)から20年(1945)にかけての冬は、例年になく寒く食料も充分ではない、幼い子どもにとって過酷な日々がはじまるのである。
警戒警報・空襲警報が頻繁に発令されるようになるのは11月に入ってから、初期はまだ穏やかな日記が多い。防空壕は男子高学年の生徒と先生が5ヶ所に掘った。
地面でご飯
先生のお給仕
地べたで食事
地べたで食事
平和祈念プロジェクト21
えー
居住地: 岐阜
投稿数: 5
面 会 日
面会は隔年ごとで2週間に1度、先ず第一回は8月27日、3年と5年であった。
第二回は9月3日、4年と6年。面会日に当たらない学年は非常に寂しそうであり、また面会日であっても親が帰ったあとの子どもたちは尚いっそうつらいような様子が見えたので、先生方は紙芝居をするなどして子どもたちの気がまぎれるような工夫をした。
親が我が子に食べ物を与える為、面会日の夜から翌日にかけては腹痛や下痢が多発した。面会のときの食べ物に制限を加えてみたが、それはまた親の不満を招き、隠れて食べさせるなどの行為によって、面会日のあとはお腹をこわす子が絶えなかった。
-----------------------------
9月3日 (日) 4年女子
今日は待ちに待った面会日です。私はお母様がいらっしゃるかと、目を皿のように見ひらいて待っていました。少したってから斉藤先生が「1部5年なぎの」とおっしゃったので行きました。それからお母様の所に行って「いらっしゃいませ」と言ってから林の方へ行ってからいろいろお話を始めました。お父様のお写真を見せていただきました。
田中さんから送って来た へら も見せて頂いて、着替えも持って来て頂きました。お部屋でお布団の敷布を縫いつけて頂いたり、いろいろなことをしました。1時半から対話会をしました。 それからお話を沢山してお母様と握手をして別れました。お母様が見えなくなると、何となくつまらなくなってしまいました。
先生の評 たのしかった1日。又2週間目が待ち遠しいですね
-----------------------------
9月10日 (日) 晴 3年女子
今日は楽しい面会日だ。朝会がすむと2部3年の人皆で草の上にむしろを敷いて、その上で遊んでお父様やお母様のいらっしゃるのを待っていた。
私のお母様は組で一番早くいらっしゃった。お母様のさしていらっしゃる日傘が草色なのですぐわかった。うれしくて何から話して良いかわからないほどだった。
はじめはお母様の持っていらっしゃった小さなトランクに持ち物を入れかえて整理した。それもすぐ終わったので2人でゆっくりといろいろなことをお話した。お昼ごはんがうれしいのでとても早くいただけた。おやつには、甘いおいしいなしを一人ひとつずついただいた。
すんでから、紙芝居大会があった。お母様方は後ろで見ていらっしゃった。3つあって題は「母の翼」「戦う小国民」「何(南?)進丸」だ。
3っともためになる面白い紙芝居だった。
それがすむと4時になったので、お母様はお帰りになった。
反省
1 積んであるおふとんに寄りかかりました。 2 お母様に甘えたのがいけません
-----------------------------
11月29日 (日) 6年女子
今日は楽しい面会日。お父様もめずらしくいっしょで家中そろって来てくださった。1日中楽しく暮らして4時少し前にお母様方はお帰りになってしまった。そのあと持って来て下さった小布などを整理していると阿部先生が「2の6来いっ」とおっしゃったので炊事場の裏へ行き、そこで今日面会人から食べものをもらったことで、さんざん叱られた。
わかれてからも涙がとめどなく流れ、おうちの人のことなど思い出されいろいろなことを考えて涙にくれていた。
そしてこれからはやめようと思った。帰りもいろいろ考え涙がほほを伝わり夜の風が冷たかった。夜寝てからもなんとなく家が恋しく悲しくてたまらなかった。
叱られて 月の夜道に 家恋し
平和祈念プロジェクト21
面会は隔年ごとで2週間に1度、先ず第一回は8月27日、3年と5年であった。
第二回は9月3日、4年と6年。面会日に当たらない学年は非常に寂しそうであり、また面会日であっても親が帰ったあとの子どもたちは尚いっそうつらいような様子が見えたので、先生方は紙芝居をするなどして子どもたちの気がまぎれるような工夫をした。
親が我が子に食べ物を与える為、面会日の夜から翌日にかけては腹痛や下痢が多発した。面会のときの食べ物に制限を加えてみたが、それはまた親の不満を招き、隠れて食べさせるなどの行為によって、面会日のあとはお腹をこわす子が絶えなかった。
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9月3日 (日) 4年女子
今日は待ちに待った面会日です。私はお母様がいらっしゃるかと、目を皿のように見ひらいて待っていました。少したってから斉藤先生が「1部5年なぎの」とおっしゃったので行きました。それからお母様の所に行って「いらっしゃいませ」と言ってから林の方へ行ってからいろいろお話を始めました。お父様のお写真を見せていただきました。
田中さんから送って来た へら も見せて頂いて、着替えも持って来て頂きました。お部屋でお布団の敷布を縫いつけて頂いたり、いろいろなことをしました。1時半から対話会をしました。 それからお話を沢山してお母様と握手をして別れました。お母様が見えなくなると、何となくつまらなくなってしまいました。
先生の評 たのしかった1日。又2週間目が待ち遠しいですね
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9月10日 (日) 晴 3年女子
今日は楽しい面会日だ。朝会がすむと2部3年の人皆で草の上にむしろを敷いて、その上で遊んでお父様やお母様のいらっしゃるのを待っていた。
私のお母様は組で一番早くいらっしゃった。お母様のさしていらっしゃる日傘が草色なのですぐわかった。うれしくて何から話して良いかわからないほどだった。
はじめはお母様の持っていらっしゃった小さなトランクに持ち物を入れかえて整理した。それもすぐ終わったので2人でゆっくりといろいろなことをお話した。お昼ごはんがうれしいのでとても早くいただけた。おやつには、甘いおいしいなしを一人ひとつずついただいた。
すんでから、紙芝居大会があった。お母様方は後ろで見ていらっしゃった。3つあって題は「母の翼」「戦う小国民」「何(南?)進丸」だ。
3っともためになる面白い紙芝居だった。
それがすむと4時になったので、お母様はお帰りになった。
反省
1 積んであるおふとんに寄りかかりました。 2 お母様に甘えたのがいけません
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11月29日 (日) 6年女子
今日は楽しい面会日。お父様もめずらしくいっしょで家中そろって来てくださった。1日中楽しく暮らして4時少し前にお母様方はお帰りになってしまった。そのあと持って来て下さった小布などを整理していると阿部先生が「2の6来いっ」とおっしゃったので炊事場の裏へ行き、そこで今日面会人から食べものをもらったことで、さんざん叱られた。
わかれてからも涙がとめどなく流れ、おうちの人のことなど思い出されいろいろなことを考えて涙にくれていた。
そしてこれからはやめようと思った。帰りもいろいろ考え涙がほほを伝わり夜の風が冷たかった。夜寝てからもなんとなく家が恋しく悲しくてたまらなかった。
叱られて 月の夜道に 家恋し
平和祈念プロジェクト21
えー
居住地: 岐阜
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面 会 の 写 真
面会日には生徒に衛兵の役を与えた。
衛兵は面会者の名前を本部に報告に行く。
*衛兵
警備・取締りのために配置・巡回させる兵。守衛・護衛の兵・番兵。
疎開学園の看板の前に
衛兵がいるところ
―――――――――――――――――――――――――――――
面会日に当たらない学年は非常に寂しそうであり、また面会日であっても親が帰ったあとの子どもたちは尚いっそうつらいような様子が見えたので、先生方は紙芝居をするなどして子どもたちの気がまぎれるような工夫をした。
先生が紙芝居を
―――――――――――――――――――――――――――――
面会日は1ヶ月に2回、隔週ごとに1年置き、6年と4年、5年と3年というような括りで実施されました。面会には原則として、食物を持って来てはいけない規則でしたが,しかし親はどうしても我が子に食べ物を持って来てこっそりと食べさせる為、翌日は下痢の続出でした。
先生としても、ある学年の子はお腹いっぱい食べ、ある学年の子はそれをうらやましくながめているのは不公平だからということで、そのような決まりで規律を保たなくてはならなかた・・・私達も いまになってみれば理解できることです。
ある学年の親は一計を考え出し、疎開児童全員に渡せる数の食べ物を持ってくれば良いだろうということで、当時配給だったパンの食券を人数分かき集め(親戚や近所の人に頼んだりして大変な思いをして集めたそうです)何人かでリュックで背負って疎開学園にたどりついたもの先生に絶対に受け取れないと断られ、泣く泣く又持ち帰った というはなしもあります。
疎開はとにかく、空腹・帰りたい・かゆい(蚤・虱)・寒い・が原体験として私達の世代のトラウマになっているのです。
面会日には生徒に衛兵の役を与えた。
衛兵は面会者の名前を本部に報告に行く。
*衛兵
警備・取締りのために配置・巡回させる兵。守衛・護衛の兵・番兵。
疎開学園の看板の前に
衛兵がいるところ
―――――――――――――――――――――――――――――
面会日に当たらない学年は非常に寂しそうであり、また面会日であっても親が帰ったあとの子どもたちは尚いっそうつらいような様子が見えたので、先生方は紙芝居をするなどして子どもたちの気がまぎれるような工夫をした。
先生が紙芝居を
―――――――――――――――――――――――――――――
面会日は1ヶ月に2回、隔週ごとに1年置き、6年と4年、5年と3年というような括りで実施されました。面会には原則として、食物を持って来てはいけない規則でしたが,しかし親はどうしても我が子に食べ物を持って来てこっそりと食べさせる為、翌日は下痢の続出でした。
先生としても、ある学年の子はお腹いっぱい食べ、ある学年の子はそれをうらやましくながめているのは不公平だからということで、そのような決まりで規律を保たなくてはならなかた・・・私達も いまになってみれば理解できることです。
ある学年の親は一計を考え出し、疎開児童全員に渡せる数の食べ物を持ってくれば良いだろうということで、当時配給だったパンの食券を人数分かき集め(親戚や近所の人に頼んだりして大変な思いをして集めたそうです)何人かでリュックで背負って疎開学園にたどりついたもの先生に絶対に受け取れないと断られ、泣く泣く又持ち帰った というはなしもあります。
疎開はとにかく、空腹・帰りたい・かゆい(蚤・虱)・寒い・が原体験として私達の世代のトラウマになっているのです。
えー
居住地: 岐阜
投稿数: 5
敗戦を知る
5年男子
今日朝食後宮地先生から、日本が米英に対してついに無じょうけんこうふくしたという事を聞いて、僕の心はにえくりかえるほどのこうふんをおぼえました。僕はなきました。
先生もなきました。みんななきました。「今にみろ、この仇《かたき》はきっと討ってみせるぞ、げんし爆弾がなんだ。僕たちはその上に出るような発明をして日本を今よりりっぱな強い国にして天皇陛下の御心をやすんじたてまつるぞ」青い空をじっと見つめながら僕は心に堅く堅くちかうのでした。
昭和20年8月15日は僕たちの一生外(涯)忘れる事の出きない日です。午前中「大東亜戦争の詔勅《しょうちょく》を拝して」という感そう文を書きました。
午後寮へかえってざっしを読みました。3時におやつがありました。とてもおいしいでした。夜先生から「これからどうして行かなければならないか」という事のお話がありました。
----------------------------------------------------
6年女子
今朝はいつもより涼しいような気持ちがしたが、朝食の頃はもういつものようにお日様が出ていた。朝食後情報があった。かねてうわさに聞いたように生まれて始めて来く(聞)本当に悲しい情報だ。それは我が日本が米《アメリカ》英《イギリス》支《支那(中国)》ソ《ソビエト社会主義共和国連邦(ロシア)》国に無条件降伏をしたのだ。天皇陛下にはいろいろ御前会議をなさって大東亜戦争の終結の事をお考えになったそうだ。おそれ多くも天皇陛下には大東亜戦争終結の詔書をお下しになった。そうしてラジオを通してほうそうされたのである。敵は原子爆弾を持ってやって来る。科学戦でやって来るのだ。もうこれからは私共の手でこれからはやるのだ。
敵が原子爆弾で来るならば、こちらでは殺人光線でもなんでも発明してやれ、宮地先生の御声もふるえていた。私達も泣いた。これから今まで以上のくるしみが私達の上にやってくるかもしれない。しかし、しかし私達は必ず必ず日本を立て直すのだ。この日の朝、この感激を忘れず私共はがんばって頑張り抜くのだ。
午前中「大東亜戦争終結の大詔を拝して」という題で感想文を書いた。又防衛召集の兵隊さんが講堂に入るので運動場の方を廻って行かなければならない。お昼かぼちゃのお荷(煮)つけが出た。とてもおいしくいただけた。午後は日記を書いたりトランプをしたりした。外では蝉《せみ》がじぃじぃと戦争もなにもあるものかというように、暑そうになき立てている。夕食の時寺谷先生がいらっしゃった。とてもお元気だった。
--------------------------------------------------------
5年女子
朝食後宮地先生が悲しい悲しい情報を知らせて下さった。それは残念にも敵米英に無条件降伏をしなければならなくなったのだ。
おそれ多くも大元帥陛下《だいげんすいへいか=天皇陛下》が、原子爆弾などでいつくしんで来た国民を殺すのはかわいそうだ。これ以上戦争をしてもだめだと思し召しからだそうだ。これをおっしゃった時は有がたくて泣かずにはいられません。
宮地先生も涙ぐんでいらっしゃった、「今日で情報も終りにします」と宮地先生がおっしやったので、いっそう泣いてしまった。
ごちそう様をして立ち上がってどうやら廊下に並んだが号令がかけられない。食器を洗って来てから山崎さんと2人で日影にいった。朝会は外だった。いくら戦いにやぶれてもこの大日本帝国はいつまでもほろびないぞ とかたくかたく心に誓った。
朝会がすんでから、5年生だけお風呂に使う薪を前田寮まで運んだ。いつもより力が出たような気がした。学校に戻るとみんな紙を1枚づつ机の上に乗せて高田先生のお話を聞いている。お話が終わると「題は 大東亜戦争終結の大詔を拝して と言うのです」とおっしゃって黒板に書いて下さった。 思った事、書きたい事をどんどん書いた。一番あとに、これからのじぶんの決心を書いて終りにした。
お昼は甘い甘いカボチャがあった。こんなに有がたい国はないと思った。午後は寮へ帰った。2班3班の人がかみ洗い(髪)に行くと、先生がかみ洗い中止上へあがっていらっしゃいとおっしゃった。「梛野さん」と先生がおっしゃたので行ってみると「下へ行っておうちの方におやかんをおかりして水を入れて来て下さい」とおっしゃった。恥ずかしかったけれど思いきっておやかんをおかりして来た。そうして氷水にビスケットと迫水さんのお父様からのお菓子をいただいた。氷を口の中に入れると、ちぎれそうに冷たかった。それからかみ洗いの番になるまで荷物の整頓をした。
かみ洗いがすんでから今度はお洗濯をした。お風呂は一番あとに入ったので、のんびりと あかをぼろぼろと出した。そのうちに四時半になり出発用意になってしまった。
又寮に帰ってから歌のかいをした。山崎さんは小包みが来たので、必死になってほどいていらっしゃる。私はお兄様に教えていただいたのを歌った。
先生の評 8月18日検
ここ4~5日世の中はひっくりかえりました。かなしい、残念なことになりましたね。もう一度シンガポールやマニラに日章旗を立てるよう あなた方は苦しみがどんなにひどくても 頑張って下さいね、 考えられない本当のことが やって来ますよ。
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5年男子
今日朝食後宮地先生から、日本が米英に対してついに無じょうけんこうふくしたという事を聞いて、僕の心はにえくりかえるほどのこうふんをおぼえました。僕はなきました。
先生もなきました。みんななきました。「今にみろ、この仇《かたき》はきっと討ってみせるぞ、げんし爆弾がなんだ。僕たちはその上に出るような発明をして日本を今よりりっぱな強い国にして天皇陛下の御心をやすんじたてまつるぞ」青い空をじっと見つめながら僕は心に堅く堅くちかうのでした。
昭和20年8月15日は僕たちの一生外(涯)忘れる事の出きない日です。午前中「大東亜戦争の詔勅《しょうちょく》を拝して」という感そう文を書きました。
午後寮へかえってざっしを読みました。3時におやつがありました。とてもおいしいでした。夜先生から「これからどうして行かなければならないか」という事のお話がありました。
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6年女子
今朝はいつもより涼しいような気持ちがしたが、朝食の頃はもういつものようにお日様が出ていた。朝食後情報があった。かねてうわさに聞いたように生まれて始めて来く(聞)本当に悲しい情報だ。それは我が日本が米《アメリカ》英《イギリス》支《支那(中国)》ソ《ソビエト社会主義共和国連邦(ロシア)》国に無条件降伏をしたのだ。天皇陛下にはいろいろ御前会議をなさって大東亜戦争の終結の事をお考えになったそうだ。おそれ多くも天皇陛下には大東亜戦争終結の詔書をお下しになった。そうしてラジオを通してほうそうされたのである。敵は原子爆弾を持ってやって来る。科学戦でやって来るのだ。もうこれからは私共の手でこれからはやるのだ。
敵が原子爆弾で来るならば、こちらでは殺人光線でもなんでも発明してやれ、宮地先生の御声もふるえていた。私達も泣いた。これから今まで以上のくるしみが私達の上にやってくるかもしれない。しかし、しかし私達は必ず必ず日本を立て直すのだ。この日の朝、この感激を忘れず私共はがんばって頑張り抜くのだ。
午前中「大東亜戦争終結の大詔を拝して」という題で感想文を書いた。又防衛召集の兵隊さんが講堂に入るので運動場の方を廻って行かなければならない。お昼かぼちゃのお荷(煮)つけが出た。とてもおいしくいただけた。午後は日記を書いたりトランプをしたりした。外では蝉《せみ》がじぃじぃと戦争もなにもあるものかというように、暑そうになき立てている。夕食の時寺谷先生がいらっしゃった。とてもお元気だった。
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5年女子
朝食後宮地先生が悲しい悲しい情報を知らせて下さった。それは残念にも敵米英に無条件降伏をしなければならなくなったのだ。
おそれ多くも大元帥陛下《だいげんすいへいか=天皇陛下》が、原子爆弾などでいつくしんで来た国民を殺すのはかわいそうだ。これ以上戦争をしてもだめだと思し召しからだそうだ。これをおっしゃった時は有がたくて泣かずにはいられません。
宮地先生も涙ぐんでいらっしゃった、「今日で情報も終りにします」と宮地先生がおっしやったので、いっそう泣いてしまった。
ごちそう様をして立ち上がってどうやら廊下に並んだが号令がかけられない。食器を洗って来てから山崎さんと2人で日影にいった。朝会は外だった。いくら戦いにやぶれてもこの大日本帝国はいつまでもほろびないぞ とかたくかたく心に誓った。
朝会がすんでから、5年生だけお風呂に使う薪を前田寮まで運んだ。いつもより力が出たような気がした。学校に戻るとみんな紙を1枚づつ机の上に乗せて高田先生のお話を聞いている。お話が終わると「題は 大東亜戦争終結の大詔を拝して と言うのです」とおっしゃって黒板に書いて下さった。 思った事、書きたい事をどんどん書いた。一番あとに、これからのじぶんの決心を書いて終りにした。
お昼は甘い甘いカボチャがあった。こんなに有がたい国はないと思った。午後は寮へ帰った。2班3班の人がかみ洗い(髪)に行くと、先生がかみ洗い中止上へあがっていらっしゃいとおっしゃった。「梛野さん」と先生がおっしゃたので行ってみると「下へ行っておうちの方におやかんをおかりして水を入れて来て下さい」とおっしゃった。恥ずかしかったけれど思いきっておやかんをおかりして来た。そうして氷水にビスケットと迫水さんのお父様からのお菓子をいただいた。氷を口の中に入れると、ちぎれそうに冷たかった。それからかみ洗いの番になるまで荷物の整頓をした。
かみ洗いがすんでから今度はお洗濯をした。お風呂は一番あとに入ったので、のんびりと あかをぼろぼろと出した。そのうちに四時半になり出発用意になってしまった。
又寮に帰ってから歌のかいをした。山崎さんは小包みが来たので、必死になってほどいていらっしゃる。私はお兄様に教えていただいたのを歌った。
先生の評 8月18日検
ここ4~5日世の中はひっくりかえりました。かなしい、残念なことになりましたね。もう一度シンガポールやマニラに日章旗を立てるよう あなた方は苦しみがどんなにひどくても 頑張って下さいね、 考えられない本当のことが やって来ますよ。
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えー
居住地: 岐阜
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アメリカ人をみた
12月3日(月)曇雨
6年女子
昨日の寒さはどこへやら。今日はからりとしたよいお天気だ。まわりの山々は真っ白。朝の光が反射してとても美しい。昨日のうちにすっかり冬景色になってしまった。
午後寮へ帰る時、見かけた事のない自動車が来た。ちょっと見ると、鼻の高い目の青いアメリカ人が乗っている。私のそうぞうしていたアメリカ人は、もっときみの悪いアメリカ人だ。今日見てあんがいだなぁと思った。
---------------------------------------------------------
12月3日(月) 曇雨
6年女子
昨日あんなにみぞれが降ったり雪が降ったりしてたのに、今日はお天気だ。山の雪が冬の日に白く光って、とても美しい。今日から新時間割表。今日は第1日目をした。国史の時間は、五箇条のご誓文《ごかじょうのこせいもん=1868年、明治新政の5つの基本政策》のところをお習いした。宮地先生の国史はとても面白い。
午後寮へ帰るとき、前に白星のついた妙な自動車が来るので、おやっ と思って見ると、アメリカ人が乗っている。鼻の高い青い目をして。始めて見た。でも思っていたよりそれほど気持ち悪くはなかった。
おこたに入って、みんなでいろいろなお話をした。おかしな話も出て、先生を始め、みな大笑いをした。
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12月6日(木)晴曇
5年女子
今日は第3日めの授業をした。1時間めの国語は今日で柿の色を終った。
地理の時間の前に降登口(ママ 昇降口?)でアメリカ人を見た。面白いぼうしを横にちょっとかぶって、向こうの方からちょっとこっちをのぞいた時にはびっくりしてしまった。10人ぐらい小型の自動車のそばに立っていてにこにこしていた。
12月3日(月)曇雨
6年女子
昨日の寒さはどこへやら。今日はからりとしたよいお天気だ。まわりの山々は真っ白。朝の光が反射してとても美しい。昨日のうちにすっかり冬景色になってしまった。
午後寮へ帰る時、見かけた事のない自動車が来た。ちょっと見ると、鼻の高い目の青いアメリカ人が乗っている。私のそうぞうしていたアメリカ人は、もっときみの悪いアメリカ人だ。今日見てあんがいだなぁと思った。
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12月3日(月) 曇雨
6年女子
昨日あんなにみぞれが降ったり雪が降ったりしてたのに、今日はお天気だ。山の雪が冬の日に白く光って、とても美しい。今日から新時間割表。今日は第1日目をした。国史の時間は、五箇条のご誓文《ごかじょうのこせいもん=1868年、明治新政の5つの基本政策》のところをお習いした。宮地先生の国史はとても面白い。
午後寮へ帰るとき、前に白星のついた妙な自動車が来るので、おやっ と思って見ると、アメリカ人が乗っている。鼻の高い青い目をして。始めて見た。でも思っていたよりそれほど気持ち悪くはなかった。
おこたに入って、みんなでいろいろなお話をした。おかしな話も出て、先生を始め、みな大笑いをした。
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12月6日(木)晴曇
5年女子
今日は第3日めの授業をした。1時間めの国語は今日で柿の色を終った。
地理の時間の前に降登口(ママ 昇降口?)でアメリカ人を見た。面白いぼうしを横にちょっとかぶって、向こうの方からちょっとこっちをのぞいた時にはびっくりしてしまった。10人ぐらい小型の自動車のそばに立っていてにこにこしていた。