学童集団疎開物語りー友人の報告から その1
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- 学童集団疎開物語りー友人の報告から その1 (えー, 2005/10/13 19:42)
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投稿日時 2005/10/13 19:42
えー
居住地: 岐阜
投稿数: 5
私の友人sweetさん(大阪)がホームページにご自分の学童集団疎開と終戦の経験をアップされていました。ご本人の了解を得て転載いたします。
えー
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学童集団疎開物語り sweet@大阪
(絵画は当時を思い出しパソコンのペイントでマウスのみで描きました。)
その1
2004年08月20日
(世界に戦争が再び起きない事を祈り、私が国民学校6年生の初秋に学童集団疎開《注1》をしました体験をお話します。
《注1 学童集団疎開》
《太平洋戦争末期、戦争の災禍を避けるため、大都市の子供たちを農山村地帯に疎開(=住まいを移す)させることになり、縁故があるものは個人で、縁故の無いものは学校毎の集団で受け入れ先の民家や寺などに送り込んだ》
昭和19年9月21日(1944年)敗戦の前年。大阪市内の国民学校《戦時中、小学校は国民学校と改称した》3~6年生の学童は、日に日に戦争が緊迫して、本土空襲が激しくなって来ましたので、田舎のお寺又は、旅館に学童集団疎開する事になりました。 私達6年生は、女子が27名でした。大阪駅の10番ホームから、「学童集団疎開」の横断幕がはってある特別列車に乗りました。
(左の小さい画像をクリックすると大きくなります。以下同じです)
私は、遠足に行く気分で嬉しいでした。でもふと考えると底知れず不安にもなりました。家族と離れて此《こ》れからどうなるのかしら??・・・やなぎ行李《やなぎこおり=柳で編んだ荷物入れ》に学用品や衣類を詰めてもらい、リュックサックを背負い「ポッ。ポッ。ポッーシューー。」と列車が大阪駅を出発した光景は、今でもハッキリと覚えています。
「撃ちてし止まん。」「欲しがりません。勝つまでは。」
と教えられていましたので、弱い気持ちは思ってもいけないと、不安な気持ちを打ち消しました。今思い出しても健気です。その時代の子供は、凛々《りり》しく、先生の教えを守り、規律正しく、直立不動そのものでした。
いつも「今日も学校に行けるのは、兵隊さんのおかげです。」 と歌っていました。
福知山のお寺に着き、地元の村の学校で歓迎会をして下さいました。
お寺に到着して、すぐ庭で記念写真を撮ってくださいました。皆ニコニコと楽しそうに笑っているセピア色の写真が今。パソコンの前にあります。私は、11才でした。
25畳の本堂がこれからの私達の住まいになります。正面に大きな立派な仏像がお祭りしてあり、私達を迎えてくださいました。とてもこうごうしく思いました。その反面ここで寝るのかしらと、不安に思いました。
お寺は高台にあり、眼下に川が流れていて、美しいのどかな盆地です。
(ペイントでマウスを上下左右に動かし遠い昔の山。川を思い出しながら描きました。)
(この川で石鹸《せっけん》も無くすすぎ洗いだけの洗濯《せんたく》をしていました。)
(川の右側の竹やぶで追っかけごっこをしたり、竹細工を作って遊びました。)
続く
えー
居住地: 岐阜
投稿数: 5
その2
朝。続経から始まり、27名の女子生徒が「こげんぎぎー いじんむぎょく にょうぜーえんみょう むぅようとうしゃ にちげつばあにぃー しゅうこうえんみょう かいじつおんぺぃ・・・・・・・・・・・・・・・・・がんにしきどくみょうとうせい いっさい どうほつぼだいしん おうじょうーらー」と毎日一斉に唱えていました。(60年の月日が経ちましたので、お経をこれだけしか覚えていません。)
続経後、お住職さんの法話をお聞きし、朝食を「箸《はし》とらば、雨 土 みよのおんめぐみ 祖先や親の 恩を味わえ。」と合唱して頂きました。そして、村の学校の間借りの教室で勉強しました。
日が経つにつれて、父や母が恋しくなり、夜。お月様に向かって「早く戦争に勝って、大阪に帰れますように。」と拝み、「シク、シク。」と先生に見られないように庭の隅《すみ》で友達と泣いていました。
この山の向うが大阪と教えてもらっていましたので、山に向かって、「お父さん。お母ちゃん。」と心の中で叫んでいました。
「大阪に帰りたいなあー?」など一言でもいえば、それこそどんなに叱《しか》られるか判っていましたので、歯をくいしばって、友達と淋しさに耐え忍んでいました。でも何時の日か戦争に勝って大阪に帰れると信じこんでいました。
私は、井戸水が合わなかったのか?ストレスか? すぐ全身に湿疹が出来ました。「先生どしたら治るのですか?」と聞きましたら「戦争がおわったら・・・」と言われました。何時終わるのかしら? と思いつつも11才の学童には、返すことばも知りませんでした。
洗濯は、上記のペイント画の川で、石鹸《せっけん》無しで、すすぎ洗いだけでしたので、虱(しらみ)が、どんどんと湧《わ》き、ついで蚤(のみ)も仲間入りしていました。頭髪にも虱が湧き放題、髪を梳《す》かすとパラパラと廊下に落ちました。
お手洗いは、本堂の横に掘っ立て小屋4箇所を作ってくださいました。
ドアも鍵も無く。莚(むしろ)が垂れ下がっているのにのには、11才の少女でしたので、恥ずかしい思いでしたが、しかたがありませんでした。
トイレットペーパーなどありません。古新聞紙の代用品でした。
習字の練習も、新聞紙です。ノートは、ざら紙でした。あまり記憶にありませんが、 とにかく物資不足で、店頭に商品がありませんでした。配給の時代です。
食べるものも、主食といえば米粒などわからないほどサツマイモの入った芋麦ご飯です。でも2糎角のバターがちょこんと毎日載せてありました。唯一の栄養源でした。隣のお友達のお汁が多いとすすりあいしたこともあります。炊事当番の時。なま芋を切りながらひもじさの為につまみ食いをして、先生に叱られました。
続く
えー
居住地: 岐阜
投稿数: 5
その3
父兄会があり、大阪より母が面会に来てくれることになりました。首をながくして母の来る日を指折り数えてまっていましたが、里心がつくといけないので3メートルほどはなされて、机をはさんで面会しました。
後でわかったのですが、「おかあちゃん。」とだきついて、離れないかも?とのことで距離を置かれたとの事です。母達が持ってきてくれた慰問の品々も先生が一括あづかりされました。母は、私達の喜ぶ様子を見たかった事と思います。顔をみただけで大阪に帰りました。
母達の帰る姿がしょんぼりと悲しげでした。半世紀以上前の出来事ですが私は、今でもはっきりとその時の光景を覚えています。今涙をながしながらホームページにタイプしています。母達はどんな気持ちで大阪に帰って行った事でしょう。悲しすぎます。
低学年で盲腸炎が原因で、亡くなった子供もありました。お寺で葬儀があり、クラス全員でお参りしました。「ジャジャジャァー ジャァンーー」と鳴り響く経音と続経を今でもはっきり覚えています。涙がとめどなくこぼれ落ちました。悲しいお別れでした。
今。思い出しても乞食《こじき》同然の食物のあさり、蚤(のみ)。虱(しらみ)との戦い。どれひとつとしても、今の子供達には想像もつかない事でしょう。「ウッソーーー。」と言われると思います。勉強の事より、空腹の為食べ物のことのみ考え、朝食。昼食が済めば、夕食の事を考えていました。
寒い寒い雪の降る日でも裸足《はだし》で、ずぶ濡《ぬ》れになり、破れた運動靴を履き、村の学校の間借りの教室で、ただただ大阪に帰りたい、帰りたいの気持ちが一杯で、勉強もそぞろでした。手の指と足の指にしもやけが、真っ赤に腫《は》れて、ひび割れしていましたが、塗り薬などありませんでした。自然に治るまで辛抱していました。少々の痛みは耐え忍ぶのがあたりまえの時代でした。「勝つまでは!勝つまでは欲しがりません。」と心に誓っていました。
親からの便りも検閲《けんえつ=調べる》され、望郷を想い起こす様な文章は墨で消されていました。その消されている文章を見たくて、見たくて夜。電球にすりつけ、親の文字を求めました。私の父は筆まめで度々手紙をくれました。とても楽しみで、毎日毎日郵便受けをのぞいて、父からの便りを待っていました。
栄養失調と不衛生で、クラス全員疥癬《かいせん》(皮膚病)に罹患《りかん》しました。ひとりつづ先生と寮母さんの前で裸身になり、隅々まで、罹患のほどを検診されました。凄《すご》く恥ずかしい思いをしたのを今でも覚えています。
サイパン島が玉砕されたと真夜中にクラス全員叩《たた》き起こされ、涙を流し黙祷《もくとう》して、又また拳《こぶし》をあげて、「撃ちてし止まん」の合言葉で勇ましい精神をうえつけられました。
寺の鐘は、いつの間にか姿を消していました。金物類は、戦争に役立ててもらう為に全て国に奉納されました。どうなるのかしら? との思いでしたが、勝利の日を信じていました。
続く
えー
居住地: 岐阜
投稿数: 5
その4
昭和20年の正月も疎開先のお寺で迎えました。お餅《もち》もひとり2個で喜び合い、お汁をすすりあいながら、淋《さび》しい気持ちを抑えて、目的意識で「勝つまでは!勝つまでは欲しがりません。」と心は充実していたように思います。戦争中の軍事教育を諸《もろ》に受けていました。学童集団疎開を引率されていた先生のご苦労も大変だったとおもいます。
お寺のお住職さん。奥さん。おばあ様。お住職さんの弟さんには、クラス全員大変可愛がって頂きお世話になりました。感謝しています。村の人々もオヤツを作って持って来てくださいました。私達は、麦踏《むぎふみ》のお手伝いをしました。イナゴも捕って焼いて食べたこともあります。その時の香ばしい食感を今も覚えています。
私達は、6年生でしたので、何とか自分の身の回りの始末はできましたが、3年生(8才)は可哀想でした。蚤(のみ)や虱(しらみ)はわき放題。寝具の敷布団に寝小便はやり放しで、シクシク泣いてる姿をまのあたりにして、6年生がお手伝いに行き吃驚《びっくり》しました。早速布団を干したり、抱きしめたり、慰めたりと私達の出来る事は一生懸命にしましたが、泣きやみませんでした。おかあさんが恋しいのでしょう。可哀想で私も涙が出そうでしたが耐え忍びました。
思い出せば限りありませんが、ひもじさと不安の日々でした。クラス全員が助け合って仲良しでした。
でも、少しのいじめもありましたが、住職さんの弟さんが庇《かば》ってくださいました。竹細工を教えてくださったり、雪すべりのそりを作ってくださったり、竹藪《たけやぶ》の竹取りに同伴してくださったり、歌を教えてくださりと私達を見守って下さいました。さすが住職さんの弟さんだったと大人になりわかりました。
昭和20年2月21日。私達6年生は、本土空襲が激しくなって来ているにもかかわらず、進学の為帰阪する事になりました。お寺のお兄ちゃんが、大きな愛の手を振り、振り、見送って下さいました。
私は、11才でした。
昭和20年7月6日の大阪大空襲の時も、お兄ちゃんは、私達の安否を確認する為大阪に来て下さったそうです。クラスの子供たちとは逢えなかったと言っておられました。私は、成人してから、その事を聴きました。子供を想う愛の深さを知りました。学童集団疎開で色々の事を学びました。
「忍耐力。暖かい真心。戦争反対。」
続く
えー
居住地: 岐阜
投稿数: 5
その5 学徒動員。終戦。
大阪駅周辺は、建物疎開(空襲の爆撃による火災の類焼を防ぐため)で家々は、立ち退きになっていました。
私は帰阪して、昭和20年3月5日に国民学校6年生の卒業記念写真をとり、すぐ空襲が激しくなって来たので、千里山の伯母《おば》の納屋の2階に家族全員疎開する事になりましたが、父一人が残り家を守るとのことでした。
空襲がはげしくなり進学する事より身の安全を守る事が優先され、私の進学の事など二の次だったのです。私は、どうなるのかしら・・・?
兄は、4年間外地の野戦で戦って、一旦帰国して、内地勤務になりました。
空襲警報が発令されると駐頓《とん》地に出動です。すぐに空気の抜けた自転車で、千里山の伯母の家から、電車で、7駅目の大阪市内の中学校のプールサイトの駐屯部隊地に出動していました。
兄は、銃後を守らなくてはなりません。責任が重かった事と思います。
昭和20年の6月7日の大阪大空襲の時。兄は妹(私の姉)の勤めていた工場が空襲の爆撃にあい燃えているのをみて駐屯地の近くなので安否を見に行き、集合時間に少し遅刻しました。上官に凄く殴られたそうです。
戦後にその話しを兄から聞き、兄妹愛も許されないはかなさに私は咽《むせ》び泣き、しました。でも戦争中は、当たり前の罰則です。
戦争で数多くの被害や悲惨な思い苦しみを、私達の世代は受けました。
昭和20年6月7日の大阪大空襲で、私の生まれ育った家もB29の爆撃機の爆撃で跡形もなく被災してしまいました。町はほとんど灰になりました。
幸い私達家族は、3月に千里山の伯母の納屋の2階に疎開していましたので全員無事でした。でも千里山の叔母の家の庭の防空壕《ぼうくうごう》の横にB29の爆撃機からの不発弾が 「ドカン。」 と落とされていました。
防空壕から出てきて、その不発弾をみて ビックリ しました。雨が降っていて、庭の土がぬれていたのが幸いしたのでしょか・・・?
もし雨が降ってくれていなかったら、私達家族全員即死です。幸運だったと感謝しました。
画像をダブルクリックして頂くとフルスクリーンになります。
千里山の田舎にも頻繁《ひんぱん》に空襲警報が発令され、B29の爆撃機が襲来し、山の手の畑に家族で避難しました。勉強どころではありません。兄は、空襲警報が発令されるとすぐ駐頓地に出動です。
私は、村の学校になんとか編入学しましたが、学徒動員で、薬品工場でエビオスの品質表示を瓶《びん》に貼《は》る仕事をしたり、農作業で田植えをしたり、牛や馬の糞《ふん》を手づかみで運んだりと、毎日、毎日黙々と働きました。
田植えには、閉口しました。栄養失調の体に蛭(ひる)が足の血を吸うのです。あちこち吸い痕《あと》ができるのには、12才でしたが悲しいおもいでした。喉《のど》がカラカラになりましたが、水筒禁止でしたので、池の濁った泥《どろ》水を手ですくいわけて飲みましたが、なぜか腹痛にもなりませんでした。田植えなどの農作業は始めてです。
続く
えー
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投稿数: 5
その6
私は、勉強がしたくても出来ない虚しさで、瓶はりと農作業を黙々としていたのを今でもハッキリ覚えています。日本が戦争に勝つ為の私達のご奉公だと頑張っていました。12才の現在の中1です。
精神を鍛える意味で、夜。暗闇《くらやみ》の中、出席簿順に墓地の内の火葬場の前に籠《かご》を置いてきて、次の生徒が取りに行く訓練もありました。私は、犬に吠えられ怖かったのを覚えています。途中で空襲警報になり中止になりました。飛んで家に帰り防空壕に潜り込みました。
姉と甥《おい》(3才)は、家に帰る途中で「ダダダーーダ。!!」ンと機銃掃射機(低空を飛び機関銃で掃射)に遭い草むらに飛び込み命拾いをしました。生きているのが不思議だと聞き、身ぶるいしました。何時も死と隣り合わせの時代でした。
私達は、何のための学童集団学童疎開だったのでしょうか ?? 国民学校6年生までの学童集団疎開だったのです。同学年の皆さんは、何処へ避難されたのでしょう?
昭和20年8月15日の正午。敗戦の玉音放送を動員先の工場の庭でお聞きしました。
晴天の猛暑下で、ギラギラと太陽が照り付けていたのを今でも不思議と鮮明に覚えていますが、ラジオからの放送の内容は、聞き取れませんでしたし理解もできませんでした。どうやら戦争が終わったようだとは、周囲の動きでわかりました。
私は、張り詰めていた気持ちに「ポカンーー」と穴があき、茫然自失《ぼうぜんじしつ=あっけにとられて我を失う》してしまいました。それからすぐ、日射病になり、農業学校に行けなくなりました。転校を母に希望しました。
人間万事塞翁が馬《にんげんばんじさいおうがうま=人生は思いがけなく幸せになったり不幸になったりするもの、という中国の諺》で、日射病に罹患したので、母も私の熱意に負け、私の希望通りにしてくれました。
12才でしたが、自分自身の将来を深く考え直して、満員電車で潰《つぶ》されそうになりながら、通学しました。
それからが私の前向きの人生の始まりです。学童集団疎開で忍耐力が身につき、「艱難辛苦《かんなんしんく》 汝《なんじ》を玉にする」を心の支えに感謝して生きてきました。
8才で大平洋戦争勃発《ぼっぱつ》。11才で学童集団疎開。帰阪してすぐ家族疎開。12才で生まれ育った家がB29の爆撃機で被災。学徒動員で工場へ。農作業。終戦と食糧難。今思い出しても悲惨です。
二度と再び戦争が起きない事を切望します。
戦中。戦後の物資不足の混乱の時代を生き抜いた世代も2005年度。平均年齢73才と聞き愕然《がくぜん》としました。
私は、今パソコンを趣味に自適で、日々変化するユビキタスの時代に、学童集団疎開物語りを、シニアになりましたが、インターネットでお話出来る事が幸いです。
<新時代 永久(とわ)にかわらぬ 母の愛> sweet
完
えー
居住地: 岐阜
投稿数: 5
その7 追記
私の知らなかった対馬丸学童集団疎開船
昭和19年8月22日(1944年)敗戦の前年。私達が学童集団疎開した日より1ヶ月早く、沖縄の学童集団疎開児童達が乗船した対馬丸が魚雷を受けて沈没していた事を1997年(平成9年)。半世紀過ぎて報道で知りました。詳しい資料は、インターネットで、対馬丸 と検索して読ませて頂きました。涙がとめどなく頬《ほほ》をつたいました。今も海底に小学生のまま眠り続けておられると思うと胸がはりさけそうに痛みます。
<対馬丸 冷たかろうに 60年>