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歩兵第七十七聯隊のレイテ戦績」の証言に逢う

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2006/8/27 18:23
自然  半人前 居住地: 横浜(福井)  投稿数: 22
終戦《1945年》61周年を迎えた8月15日は 戦没者追悼平和祈念の日で あった
総理の靖国神社《やすくにじんじゃ=(注1)》参拝で幕を開けこの日は 追悼式場に天皇陛下をお迎えし 戦陣に散り戦火に倒れた人々を追悼 就中《なかんずく=中でも》 靖国神社に祭られた英霊は弐百万を超え わが聯隊《れんたい=連隊》のフィリッピン戦線で玉砕した戦友も合祀《ごうし=共にまつる》され 人の運命の不可思議に思いを新たにした
 「大野東頭点々の 山又山の尽く所 頂上一面洋々の 水は千古に変わりなき 古き都に屯《たむろ》する 歩兵七十七聯隊」と歌う

この聯隊は大正5年《=1916年》4月18日軍旗を拝受して第十九師団に編入され後第二十師団から昭和18年に第三十師団に編入変えされ 平壌師管区部隊として駐屯していた
 
 現役17年次の我は 昭和18年《=1943年》3月現役で入営し翌19年4月にフィリッピン方面への動員下令し 出動聯隊に編成されて身辺整理等々を終え完結の日の29日 補充隊の基幹要員に転属され 以降 20年8月15日の終戦に引続くソ聯邦《=ソビエト社会主義共和国連邦》への強制抑留を経て 22年11月に復員帰郷と 4年8ヶ月間の兵籍を終えた

 出陣母隊の戦績については 「比島《=フィリピン諸島》ミンダナオに上陸し 間無くレイテ戦線へ出撃して玉砕《=玉が砕けるように潔く死ぬ》した」との風聞だけで 戦績の詳報とて無く在営時は勿論《もちろん》復 員後も確認できず 辛うじて「レイテ戦史」・フイリッピン戦績記の「さぁふらんす戦史」等の書や パソコンの検索記録を蒐集《しゅうしゅう》して自分なりの補遺を加えて 60年の歳月を経過していた

 2006年7月に至り 平壌中学同窓会誌で歩兵第七十七聯隊の慰霊碑建立 を知り 戦友・遺族会との連絡がとれたのは8月に入りまさに満60年を終え ようとしたこのとき 母隊の実証言が得られたのである

 わが母隊に関する証言の概要

 第30師団は19年5月8日平壌を出発し 6月6日ミンダナオ島スリガオに上 陸した77聯隊は東部リアンガに布陣したが 11/3 Ⅲ大隊の10・3MG両中隊は カガヤンを出航して 11/7 レイテ島イピルに上陸し 11月中旬にはⅡ大 隊の5・2MG中隊が引き続き上陸 12月上旬には9・11中隊も上陸し 12/7 米軍のイピル海岸上陸に応戦し「全滅寸前」まで戦闘して 米軍戦史に「血染めの竹薮《やぶ》の激戦」との名を残した

 引き続くオルモック防衛戦でもⅡ-5,・2G中隊は「全滅に瀕《ひん》し」ながらも 米軍を5日間に亘《わた》って阻止し 他方ブラウエンに向かったⅢ-10・ 3GM中隊は  12月10日の「切込み」を最後に作戦は中止になり 西方への「撤退《てったい=退却》」が指示されたが その兵力は60名だった

 聯隊の主力は 12/9バロンボンからオルモック に向かうが 聯隊長以下2個中隊程度に過ぎず リボンガオでオルモック街道に入り南下してバレンシアを過ぎるころから味方の「敗兵を吸収」した
 12/17前後 聯隊最後の戦闘が行われ「砲力なき軍」の戦は「肉薄攻撃」だけで 爆雷や手榴弾《しゅりゅうだん=手で投げる小型の爆弾》での挺身《ていしん=自分の体を投げ出す》攻撃です 一方オルモックのⅡ大隊の60名は 北方山地を抜けた街道辺りで砲撃を受け「四散」する

 12/25最後の終結地カンギポットに入ったのは18名で  この後各地の生存者 が徐々に集まり 最後には100名前後の「集団となり自活」するが終戦の日 「生きてこの谷を出られた」のは2名だけで 聯隊旗の行方も新郷大佐の死も不明のままである
 また ミンダナオ残留部隊は上陸してきた米軍と戦いながら 「奥地」に入り  食糧不足のため「自然と消滅」していき8名の将校を含む93名が生き残った

戦友会と慰霊碑の建立趣意書には

  故陸軍少将新郷栄次聯隊長以下三千余名が勇躍征途に赴きたるも時既に 戦勢我に利あらず 遂に比島のレイテミンダナオ両島にて玉砕せり 勇士達が 故国を離れし最后の思い出の地関門を選んで有縁の遺族や戦友たちが英霊 の冥福《めいふく》を祈りて建立する
   昭和五十七年五月  歩兵第七十七聯隊有志一同

 まとめて私考

 レイテ戦線に 緒戦から米軍の恣意《しい=思うがまま》の戦場に抛《ほう》り出された兵 の驚愕《きょうがく》は察して余りあり ここに聴く出陣の経緯は「全滅・切込・敗兵・肉薄・挺身・自活・四 散・自活・消滅」と敗残に冠される戦況の羅列で 米軍のレイテ戦線での「落武者狩り」に出会い 反撃の手立てすら選び得ぬ無垢《むく=純真》な兵士の心情 加え今にして 自身の往時を回顧せば 終戦一週間前のソ聯軍迎撃出陣に編成下に在って 聯隊本部電報班長の最終責務たる「聯隊総攻撃す」との師団への発信を終えれば 全員突撃すると決意が 今も記憶に新たである しかして《=そうして》 残留の補充隊も「無辜《むこ=罪の無い》の悲しみ」と表されたソ聯邦の強制抑留に遭い 故国の土を踏めなかった将士も併せ ここに哀悼の意を表するのである

注1 靖国神社  1879年招魂社を改称 明治維新以後戦争など国事に殉じた250余名の霊を合祀 
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2006/10/1 11:55
自然  半人前 居住地: 横浜(福井)  投稿数: 22
 「歩兵第七十七聯隊戦績」の証言に遇ぅて間ない9月9日慰霊碑の建つ下関の願王寺で 彼岸法要に併せ聯隊戦没者の追善供養と慰霊碑参拝供花が執り行われました

 この行事を主催した「慰霊碑保存会」の戦友会役員代表か「式後一年振りの戦友・遺族の再会 を喜び合ひました唯残念なのは集まった会員が激減した事 で御座います

この一年で会員諸兄が 病没・老齢・病気のため出席不能となった方が多く 従来十名で構成されて居た保存会役員が一挙に二名になろうとは思いもよらぬことでした」

 続けて 「・・・今後保存会の運営は 戦友会を離れ遺族会にお渡しする格構《かっこう》となりました・・・小生存命中は何かに付けお手伝い致す所存では御座いますが・・・永い間有難う御座いいました」との返信に接しました

 想い起こせば 動員下令時に最若年次兵だった自身ですら傘齢《さんれい=80歳》半ばに至っていることを思えば 必然の摂理が訪れたと愕然《がくぜん》とし 人生の箴言《しんげん=格言》たる「自《おの》ずから然らしむ」の現実を稟受《りんじゅ》するより他無く 戦友会員の自然消滅は避けられぬことと存じた次第です

 ここに 戦友会・遺族会・慰霊碑保存会への深甚なる謝意をしますとともに 補遺として 次のことを付加させて頂きます

 1. 歩兵第77聯隊の歴史として
  T. 5/4/18 軍旗親受 朝鮮平壌府駐屯
  S.19/4/12 動員下令 豹12025部隊としてミンダナオ出陣聯隊歌一節
        「大野東頭点々の  山又山の尽く所
         長城一面洋々の  水は千古に変りなき
           古き都に屯する    歩兵七十七聯隊」
    
 2. 戦友会 S.49 戦友会・遺族会設立
            生存者 レイテ    10名 (3名) 
                ミンダナオ 93名 (24名)
                 ()内は事務局確認 
3. 慰霊碑建立 S.57/5/16 保存会設立 爾来《じらい=その後》毎年慰霊祭を継続した

 4. 慰霊碑建立地は 今次動員の徴募の中心だった「山口北九州出身であったことから 当時平壌へ赴任するには下関から朝鮮海峡
   をわたった事でもあり 結局下関近くの山上に」と選定されました 
      「下関市菊川町の願王寺」境内


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