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異国での敗戦(北朝鮮)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2006/9/23 16:33
きぬ子  新米   投稿数: 9
はじめに

 北朝鮮、鎮南浦《チンナムボ》で生まれ育った私は、敗戦の日をその地で迎えた。勝つとばかり思ってきた戦争は、八月十五日をもって終わり、生活は一変した。昭和二十一年九月三十日《1946年》、脱出までの一年余りは様々な出来事に遭遇《そうぐう》した。

ソ連(ロシア)の参戦によって満州(中国)から女、子どもの疎開者が現地に住む日本人と同数の八千人も入ってきた。全ての官庁、学校、工場が朝鮮の手に渡った。銀行などの金融機関も止まった。ソ連軍の進駐《しんちゅう注1》とともに目ぼしい家がつぎつぎ接収《せっしゅう注2》された。朝鮮人とソ連の兵士たちの略奪、強盗などは、日常茶飯事《=いつもやること》だった。

 北朝鮮の冬の寒さは、零下10度以下にもなる。冬を越さねばならない倉庫暮らしの疎開者達は何千人もいた。コンクリートの床、吹きさらしの高い天井は幼児の命を奪った。山には沢山の墓標が立ったという。

 敗戦後、私達は小さくなって、ひっそりと暮らした。植民地として日本が治めていた頃は随分、朝鮮人を馬鹿にしていた。その反動もあって、日本人が投獄されることも少なくなかった。

 昭和二十一年《1946年》十月末、祖国に帰ってきたが、この貴重な体験を幼かった妹達に、わが子や孫達に知ってほしいとの思いで綴《つづ》ってきた。引揚げ後、なぜ戦争が起こるのかという疑問をもって暮らしてきた。戦争への足音が聞えそうな今、憲法九条を死守しなければとの思いと、朝鮮半島の南北統一を願ってやまない。

                            斉藤 絹子_1931

注1 進駐=軍隊が他国の領土に進軍しとどまっている
注2 接収==権力が強制的に人民の所有物を奪うこと
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2006/9/23 16:34
きぬ子  新米   投稿数: 9
女学校三年生の八月十五日

 毎朝、校門を入ると奉安殿《ほうあんでん=御真影・教育勅語謄本などの奉安所・学校の敷地内につくられた》前で最敬礼をした。白い鉢巻きをしめて廊下に並び、厳粛《げんしゅく》な気持で教室に入る。ここは動員《どういん=戦争目的のため資源や人間を統一管理のもとにあつめる》の作業場でもあった。日本軍の火薬を入れる袋を作るのである。婦人従軍歌《じゅうぐんか》「ほづつのひびき《火筒の響き》遠ざかる」を歌って作業にとりかかった。誰の顔にも緊張した血が漂っている。作業は午後四時まで続けられた。

 昼食は黒くて小型のかたいパンニ個、おかずもバターもない。お茶だけでもぐもぐと食べた。作業が終わると班ごとに成績が発表される。

 女学校三年生の八月十五日。もちろん、夏休みなどなかった。学校へ行くと、いつもとちがった空気が漂っていた。登校する時、電柱や掲示板に、重大ニュース十二時発表と大きく書いたものをだれもが見ていた。その日の作業は午前中で中止になった。マイクが故障のため、生徒達はニュースを聞くこともできない。静かに待っていた。

 職員室を覗《のぞ》いてきた組長が「先生達みんな神妙な顔して聞いていらっしゃったわよ。なんのことだかさっぱり分からないわ」と報告してくれた。私達が不安な気持ちでいた時、隣の席の警察署長の娘のKさんが私にそっとささやいた。「日本は負けるらしいんだって」「えっ」。信じられない。絶対勝つんだ。こんなに一生懸命やってきたのにうそだろう。負けるなんて私には考えられなかった。


戦争が終わった日

 私たち生徒は、講堂に集められた。校長先生のひきつった顔と落ち着かない態度は只事ではない。難しい言葉で話は続き、「国状」という言葉が何度もくり返されたが、私達には、理解できなかった。
 
 「十八日に登校するように」と言われ、いつものように集団で下校した。三キロの道を黙って歩いた。国防色《=元陸軍軍服のカーキ色》に染めた夏服に、モンペ《戦時中には、足首をゴムでくくったようなズボン》姿、救急袋《=常備していた》を肩から下げ、下駄履《げたば》きだった。暑い夏の盛り、家についても静かで、ひっそりとしていた。、大きく開かれた仏壇の前には、木の枠に紙をはった十字形の燈籠(とうろう)がゆれていた。その目はお盆だったから。

 父の店を覗《のぞ》くと、他の人に混じっていつものように朴さんと鄭さんの姿が見えた。裏に回った。チョンガー《俗に独身男》も変わらず働いている。

 母を探し、周りを伺ってそっと聞いた。「いったいどうなったの、おかあさん」。「戦争は終わったのよ、日本は負けたの」。母は小声で言った。やっぱり友達が言っていたことが本当だった。

 母の言葉は続いた。「朝鮮は独立するから気をつけるのよ」。日が暮れかかった頃、母はもう黒い幕なんかしなくていいのと言った。怒ったような口調だった。

 電灯をあかあかとつけ、その下で久し振りに明るい食事をしたのを覚えている。父は、「これから大変なことになるかもしれない。うっかりしたことは言わないように。遠くへ行ってはいけないよ」と妹や弟に言い聞かせた。

 夜遅く、遠くで「まんせい、まんせい」と大勢の現地の人が叫ぶ声がした。私はなかなか寝つけなかった。


翌十六日

 十六日、街の様子は一変した。丘の上に府庁がある。そこの火の見櫓(やぐら)から、朝鮮語の放送が始まった。音楽を流しては同じ放送をくり返している。二階の窓から見ると、警察署の前には両手を上げた男達が十数人も並んでいる。朝鮮の女の人は、鮮やかな色のスカートをなびかせ、お祭り気分で歩いている。

 夕方近くになった頃、朝鮮人町から続々と人が出てきて海岸の方に向かって走っていった。口々に何か叫ぶ。「朝鮮独立万歳」という声が何度も聞こえた。人の波はどんどん大きくなっていった。アメリカ軍が港に上陸するというデマが飛んだらしい。私達家族は家の中で息をひそめ、じっとしているしかなかった。

 人の波が下火になった頃、子どもを背負った若い女の人が泣きながら駆け込んできた。「助けて欲しい」と言うのだ。ソ連参戦のため満州からこの地に沢山の人が疎開してきたばかりであった。うちの二階にも一家族がいたが、その女の人も疎開してきたばかりだというので心細かったのであろう。母は、「まあまあお入り、逃げたらかえってあぶないからね。今晩はうちでお泊まり」と言って部屋へ通した。女の人は、ほっとして、翌朝帰っていった。

 店で働いていた現地の人の姿も見えなくなった。店に来る人もほとんどいない。だが、見なれない男の人が二人いる。母に聞くと、日本の警察官として働いていた朝鮮人が逃げてきたのだそうだ。「かくまってくれ」と言ったらしいが、それはできることではない。府庁も警察も朝鮮の人々の手に渡った。私たちはもう覚悟しなければならない時がきた。夜、父を囲み話を聞いた。日本も空襲で大変なことになっている。いつ日本に帰ることができるか分からない、戦地の兵隊さんも皆大変だから辛抱《しんぼう》しよう……。そんな話だった。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2006/9/23 16:35
きぬ子  新米   投稿数: 9
北朝鮮の町

 私が生まれ育ったのは北朝鮮の「鎮南浦《チンナムポ》」という町である。大同江《だいどうこう=テドン・ガン》の大きな河口に位置し、川は黄海に流れている。住民は五万人、そのうち日本人が八千人いた。

 ソ連参戦によって八月十三日、満州から八千人の疎開《注1》者がこの地に送られてきた。しかも、女、子どもが多かった。二目後の十五目、敗戦を迎えたので、受け入れ側もいかに大変であったかがわかる。そのうえ、官公庁の官舎などはもちろん日鉱精錬所、三菱マグネ、理研、昭電エなどが接収《せっしゅう注2》され、社宅に住む家族達は追い出された。埠頭《ふとう》の倉庫に沢山の家族が住むことを余儀なくされた。わが家にも一時は三十人も暮らしていたが、九月十一日に接収されることになる。

 警察署には保安隊の看板が掲げられた。そこには日本人から没収《=とりあげる》した刀剣類、ラジオ、自転車などが集められた。長と名のつく責任者が次々と保安隊に連行されたり、呼び出しにあったりし、留置《=一定の支配下におく》される者も少なくなかった。父にも呼び出しがきた時は、本当に心配した。だがその日に帰され、ほっとしたことだった。

 山の上のスピーカーからは相変わらず朝鮮語の放送が流されていた。「日本人の生命財産は保障します」と、日本語で時々放送するようになった。銀行が封鎖《注3》され、商売も停止になって、収入の道も断たれた。

 間もなく三十八度線以北の北朝鮮は、ソ連軍が進駐することになり、事態は急変していく。私達の暮らしはどうなるのだろう。不安はつのるばかりであった。


わが家を接収される

 九月五日、ソ連の将校十数名が町に入ってきた。朝鮮の役人とソ連の将校がわが家にやってきて、倉庫に積まれたビールを全部運び出していった。治安隊の看板と並んで赤衛隊《広義には赤軍》の看板も出ている。(当時、保安隊の中に赤衛隊と呼ばれた組織があったようである)

 接収は民間の住宅にまで及んだ。最初に狙われたのは、わが家から数軒はなれた角の店である。富田儀作という方の家で、大きなウインドウにはIメートル以上もある高麗焼きの壷がいくつも並んでいた。町のために沢山貢献《こうけん》した人だと聞いていた。お寺の近くにあった三和花園は、四月の末には桜が見事に咲いて町の人達で賑わった。生物の時間にそこで勉強もした。その三和花園も富田氏によるものであった。

 九月十一日、わが家が接収された。朝九時頃、赤衛隊が来て家を取り囲み、五時までに明け渡せという。家の前には牛車や馬車が並んだ。一人の兄は海軍兵学校へ行っていて居ない。残ったきょうだい六人の長子として私は、父を手伝い、店の帳簿を祖父の家に何度も運んだ。帳簿が重くニキロ近くの道のりを必死で歩いた。

 満州からの疎間者と社宅を追われた家族も同居していたので、家の中はごったがえした。運び出す物は点検され、身の回りの物を運び出すのがやっとだった。

 家を明け渡す最後の別れに、父は「家に礼をして行こう」と言った。私達は横一列に並んでお辞儀《じぎ》をした。このときの父が忘れられない。母は冬のオーバーやセーターが入った衣装缶を二つも押さえられたと、悔しがった。


身重な母

 祖父の家にも満州からの疎間者が三家族十人もいた。わが家の引っ越し荷物は祖父の家に近い赤レンガの倉庫に一時入れた。わが家が接収されたことは、家族にとって「悔しい」ではすまされなかった。タンスにしまってあった父や母の着物は、もちろん、私や妹たちの服や晴れ着に骨董品、軸《じく》ものまで押さえられ、裏の大きな倉庫に入れられたのだ。

 母は隣近所の人達の手助けでやっと働いていた。九月半ばになると、朝鮮は冷涼な季節になる。母はセルの着物を着ていた。急な引っ越しに動転《どうてん》もしたであろう。母は身重であった。当時の引っ越しは馬車や牛車を使った。引き手は朝鮮の現地の人である。

 私たち八人は祖父の家に落ち着くことになった。ひと月後には、またそこも追い出される。
 祖父の家に移って間もない九月十五日、ソ連の軍隊が入ってきた。巨大な戦車、装甲車《そうこうしゃ注4》、トラックが列をなし、兵隊達は二部合唱で足並みを揃えて行進していった。町には、ソ連兵が腕時計を狙っ《ねらって》て民家を襲ってくるという噂《うわさ》が広がった。十月に入った頃、二人のソ連兵が自動小銃をかかえてやってきた。祖父がかねて用意していた時計を二人に渡して事なきを得た。私達女、子どもは、小屋の中で震えていた。

 わが家は貿易商だったので、商品は総て倉庫にあった。臨港鉄道のそばに二つ、埠頭に一つ、家の裏の一つ。どれもこれもすべて鍵をとられてしまった。ソ連が来てからトラックが家の前を引っ切りなしに通った。母は、「この先を思うと夜はねむれない」と嘆いた。倉庫の中のわが家の財産は全てなくなった。

注1 疎開=戦争の被害を避けるため分散する
注2 接収=強制的に人民の所有物をめしあげる
注3 封鎖=強制的にりょう不可になる
注4 装甲車=小火器弾を防御できる程度の装備をつけた軍用自動車
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2006/9/23 16:37
きぬ子  新米   投稿数: 9
強 奪

 ソ連兵による時計の強奪ばかりではなかった。民家の接収と朝鮮による現地人の略奪も各地で次々と起きていた。

 祖父の家から近かったM子とは、家同士の付き合いがあった。M子の家で、一緒に食事をしたり、お風呂にも入った思い出もある。

 十月、天気の良い日であった。春には、ボタンの花が見事に咲くM子の家の庭石に腰掛けて、私たち二人は冬支度の編み物に精出していた。前触れもなく数人の現地人がやってきて、家の者を広間に集めた。「俺達は本も買えなかった」と怒鳴り、本を全部かっさらっていった。

 祖父の家に、顔の角張った宗という朝鮮の男が突然、上がり込んで、祖父がチンタオで買ってきた、螺鈿《らでん注1》の応接台と飾り棚を置いていけと言う。家を接収にきたのである。正に強奪だ。何の抵抗もできず、一人の男に家を明け渡す悔しさ、屈辱を、祖父母や両親はどれほど情けなく思ったか。日本が戦争に負けたことで、世の中が引っ繰り返ってしまった。確かに日本は朝鮮を馬鹿にしてきた。馬車ひきや肥え汲み《かわやの糞尿を汲み取る》など、下働きはみな現地の人だった。

 明治四十三年《1910年》に日韓併合が行われ、以来、終戦まで三十六年間、植民地として日本が支配してきた。ある記録によると、太平洋戦争中、日本が連行し奴隷のように働かせた朝鮮人はおよそ百万人とみられる、とあった。私が知覧特攻平和会館を見学した時、南の海と空に散っていった勇士は四百三十六人、そのうち八人が朝鮮の人と記録されていた。

 私はこの一連の文章を書きながらいつも泣いている。書いていると五十八年前の私に帰ってしまう。だが祖父母も両親もこの世には、もういない。


水道山近くの家で

 十月の半ばすぎ、祖父の家を出て、指定された水道山に近い高台の家で暮らすことになった。家までの坂道は二十メートル以上もあった。喘息《ぜんそく》の祖父は杖にすがって何度も休まなくてはならなかった。現地は十月も末になると雪がちらつく。四畳半一間だけのオンドルが一つの救いだった。その家で三世帯十六人の暮らしがはじまった。

 日本人会が創立され、対ソ連、対朝鮮の窓口ができた。日本人会にだけ一台のラジオがあった。父は、毎日のように出かけてはラジオや、人々からの情報を聞いて帰ってきた。日本入会の指導で、ソ連と朝鮮の旗を玄関に掲げることになった。赤い布に鎌《かま》と槌《つち》を描き、日の丸を二つ巴《ともえ》に描き四隅に拍子木をかくと、それらしくできた。

 山の手の一軒家だったせいか、かつて店にいた朴さんや子守をしていたチェーニもこっそり訪ねてきてくれた。売り食いの暮らしである。父の大切な時計やホームスパンの背広を手放したのもこの頃であった。

 日本のお札がソ連紙幣になり、赤い紙幣が一番高く、百円であったかと思う。私と妹は、その赤いお札を持って市場へ何度もお米を買いに行った。市場は朝鮮町の広場でかなりの道のりがあった。乳母車にお米を乗せて、山道を帰る途中、現地の子ども数人に「イリボンチョッパリ」「イリボンチョッパリ」とはやしたてられ、石をなげつけられた。お米を取られては大変と、必死で帰った日もあった。

 朝はお芋の入ったお粥《かゆ》、お昼と夕食には大根や野菜を沢山刻み込んだご飯と、おかずは一品だった。誰も一言の不平や文句も言わず黙って食べた。お陰でみんな元気で暮らした。そんな中でも銃声の聞こえない夜はなかった。


母のお産

 仮のわが家となった高台の一軒家は、南側に二間続きの縁側があって、その外が藤棚だった。庭木や庭石もあって眺めがよく、日本人町が一望できた。水道山の近くにありながら、水道がなく、下の家まで行って水を汲み上げた。

 十一月の曇った寒い日、身重だった母が産気づいた。私たちきょうだい七人をとりあげた小柄な産婆さんが、坂をあえぎあえぎ登ってきてくれた。私は裏で、一斗缶《18リットル缶》で作ったかまどでお湯を沸かし、母の身を案じていた。どうしてよいか分からず、かまどの火を見ながら待つしかなかった。

 だいぶ時間が経っても、泣き声がしない。そのうち父が、真っ赤な水の入った洗面器をかかえて出てきた。裏の溝に捨てにきたのだ。十五歳の私には、ショックだった。お産というものは、こんな血に染まった苦しみなのか。産声はなく、死産であった。産婆さんは、「お腹にいる間は生きていたのに」と残念がった。

 お寺さんにお経をあげてもらい、それをみんなで聞いた。隣の部屋の母が一人泣いていた。死んで生まれた男の子の、長細い頭や顔は難産であった証拠だと今になって思う。妹たちは、「お爺ちゃんに似て長い顔だ」と言った。小さなお棺に入れられた子は、名前も付けられず、父に抱えられ、山に埋められた。

 当時十歳だった妹が高校卒業後、奈良の百済観音《くだらかんのん》に出会い、詩をかいた。

   百済からいらしたひょろ高い仏さま

   百済に残してきた弟に

   おもゆを一ぱいのませてください

   戦争のあとのどさくさに 死んで生まれた弟です

   死んで生まれたことが せいいっぱいの 親孝行だった弟です

注1 螺鈿=漆器に蝶貝の薄片などはめこんで装飾する
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2006/9/23 16:38
きぬ子  新米   投稿数: 9
正月を迎える

 寒さが日増しに身にしみた。祖国日本への思いは日毎に募《つの》るばかりである。帰国は全く見通しがたたなかった。冬の厳しい寒さに向かって、年を越さねばならないと、誰もが覚悟を決めた。

 倉庫で暮らしている沢山の人達を思うと申し訳なかった。仮のわが家では、暖かいオンドルもあるし、お風呂に入ることもできた。

 戦勝の喜びで踊るのか、キリスト教会の広間では、アコーデオンの音楽に合わせて、社交ダンスに打ち興じているソ連の人々の姿を、妹とガラス越しに見た。ソ連軍の兵士達は隊を組み、一部合唱で町を移動した。そのメロディーを私たちはすっかり覚えた。商工学校は兵舎になった。シベリアに流されていた囚人だろうと噂された坊主頭の兵隊達は、白い布を足に包んだ靴下に軍靴《ぐんか》を履いていた。若い婦人兵は、黒の長いブーツにカーキ色のコーートを着て、雪道を歩く姿は格好《かっこう》よかった。太った胸の大きな中年の婦人兵もよく見かけた。

 十二月も末近くなると雪の季節になる。雪の積もった藤棚の下で正月を迎えるための餅つきをした。父や叔父が杵《きね》をつき、「ひゅ、ひゅ」という叔父のかけ声が面白く、みんなで大笑いした。臼《うす》のまわりはすぐ凍りついた。道具や材料はどうしてそろえたのか記憶にない。明かりの見えないなかで、家族が楽しんだ一時だった。おせち料理はなくても、とっておきの油で野菜の天ぷらを沢山揚げた。

 家族全員、病気もせず暮らせたことに感謝してお雑煮《ぞうに》を祝い、昭和二十一年の正月を無事に過ごすことができた。


現地の人のやさしさにふれる

祖父は、昔から決まったように、朝、お天道さま《おてんとうさま=太陽》に手を合わせ、仏壇で、朝夕のお勤めをすませ、その後で食事をした。「がんがしんにょう、によころう」。妹達もお経を覚えて唱えていた。

 暖かな春がくれば、日本に帰る見通しも見えてくるだろう。春が待たれる日々であった。
 ある夜、私と妹は、父に連れられ、朝鮮の呉さんの家を訪ねた。呉さんは、以前わが家で「チョンガー」とよばれ、下働きをしていた青年である。呉さんは、「お世話になったお礼をしたいから、暗くなってからきて欲しい」と招いてくれたのだ。三人は、こっそり朝鮮町の家を訪ねた。暖かい部屋に通され、やき肉をご馳走《ちそう》になった。

 隣の部屋はきれいに整頓され、赤や黄色、みどりなど色鮮やかな布団と、刺繍《ししゅう》された枕が飾ってあった。日本の暮らしでは、押入に布団をしまうが、呉さんの家には押入がないらしかった。きちんとたたんだお布団の上に枕が飾ってあったのが印象に残っている。新婚生活も見て欲しかったのかもしれない。

 わが家に泊まり込みでいた頃、お酒の場で、バカチ(すいかに似た果実を半分にして中をくり抜き、干して水汲みに使う)を背中に入れて踊って見せ、みんなを笑わせてくれたことを思い出した。

 敗戦後、現地の人々のやさしさに触れることもしばしばあった。日本の有名な人の書いた、小磯国昭《注1》の軸物《巻物》や伊藤博文《注2》の扁額《へんがく注3》を朝鮮の金持ちに買ってもらったと言って喜んでいた父の言葉も覚えている。私達家族を助けてくれたのも、そんな朝鮮人だったと思う。


厳しい満州からの引揚げ者

 私の生まれ育ったこの土地は冬の寒さが厳しく、マイナス十度になる日も珍しくなかった。海岸では流氷が見られ、町を歩く牛車の牛達は白い息をはき、よだれがつららになった。

 この寒さを利用して携帯用の食料を作った。人伝えに教えられたのだが、炊きあがったご飯をもろぶたにいれ、庭の木に吊《つる》しておくと一晩で凍りつく。それを天日で干すと、軽く少量になった。いつの日か祖国へ帰る日のため、長い道中を予想して準備した。後日、このご飯は引揚げの時、祖母と二歳の妹の糧となって大いに役立った。

 仮のわが家でも暖かいオンドルがあり、お風呂にはいることもできた。しかし、埠頭《ふとう》の倉庫には満州からの疎開者が沢山暮らしていた。私の住む山の手から埠頭の倉庫まではかなりの距離があったので、暮らしの様子を見ることはできなかった。

 この寒さで幼子が次々に死んでいったことを聞かされていた。当時の記録を調べてみると、六歳以下の子どもが冬期間、五百三十人死んでいる。(六歳以下の在往者千二百四十人中、四十人死亡〈昭和二十年〉、六歳以下の疎間者千七百八十人中、四百九十人死亡〈昭和二十年〉)。倉庫はコンクリートにむしろを敷いただけで、天井は高く吹きさらしだった。医者に見せても薬もなかったという。何人かの子どもが毎日肺炎やはしかで亡くなり、リンゴ箱に入れられた。トランクを台にして線香やろうそくを立てて供養し、男達が山に埋めてくるという状況であった。山には沢山の墓標が立ったと記されている。

 戦争の悲劇では、幼子達が犠牲《ぎせい》になった。今生きていたら六十歳代になる。母に負われて帰った、当時二歳の妹は、栄養不良のため足が弱かった。でも今は二人の孫もできて、幸せに暮らしている。


注1 小磯国昭こいそこにあき=陸軍大将 政治家
注2 伊藤博文=明治の政治家・内閣制度を創設し初代総理大臣
注3 扁額=室内に架ける細長い軸
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2006/9/23 16:39
きぬ子  新米   投稿数: 9
祖父の死

 敗戦翌年の三月一日のことだった。前日から熱を出して床に伏せていた祖父が家族全員を集めて、「聞いてくれ」と言って話し始めた。

 祖父は喘息もちのうえに高熱のためか、息づかいが苦しそうだった。私たちは膝《ひざ》《そろ》えて座った。

 「わしはこの病気で死ぬと思う。よう聞いてくれ。朝鮮の土になる覚悟で渡ってきたのじゃから、なんの悔いもない」。ここまで聞いて、私たちはわっと泣き出した。

 祖父は「泣かんでもいい。聞いてくれ。朝鮮に渡ってきたのは国が奨励《しょうれい》してきたからじゃ。わしは、国のためにも朝鮮のためにも、精一杯働いてきた。思い残すことはないが、梅子さん(私の母)どうか後を頼みます」「みんなよう見てくれ。わしは大往生《だいおえじょう=安らかに死ぬ》するから心配せんでいい」。

 翌日医者に診てもらうと肺炎だった。母は薬局へ走ったが、熱は引かなかった。お寺さんを呼んで欲しいという祖父の頼みで、懇《ねんご》ろにしていた方丈《ほうじょう=住職》さんが来られた。祖父は、お経を聞いてほっとしたのか、翌朝、祖母と父に看《み》取られ大往生を遂《と》げた。三月六日、七十二歳だった。

 祖父の存在は大きく家族の誇りであった。明治三十八年、小学一年の父を連れて山口県からこの地に渡ってきた。現地の言葉で現地の人と仲良く話している姿を、私はよく見ていた。西鮮電気、商工会、学校、寺、神社などの世話役も務めた。明治生まれの気骨《きこつ》があった、あの祖父は忘れられない。


春の日が待ち遠しい

 大同江の流水が解けるまで、ここから私達日本人は脱出することはできない。暖かくなる日を誰もが待った。抑留生活が長くなり、暮らしも苦しくなってくる。

 人の噂《うわさ》どおり商工学校の先生が馬車を引いている姿を見た。幼稚園の先生はリヤカーに野菜を積んで売り歩いている。お世話になった弟は、先生の姿を見て、「お母さん、先生の野菜を買って」と大きい声で訴えた。先生は二人の子どもを抱えていた。ご主人は出征《しゅっせい》したまま行方不明だった。

 父は今までやったことのない、わが家の便所のくみ取りをした。家の東側の空き地に穴を掘る。凍っているのでツルハシで三十センチ掘ると、柔らかな土になった。あとはスコップでIメートルくらいの深い穴を掘った。三世帯十六人が暮らしていると、少々ではない量になる。私達も手伝った。父の友達のブリキ屋さんにソ連兵から仕事がきた。父は仕事を習いながら手伝った。こんな時期もあった。

 私は同じ屋根の下に住む女学校の家庭科の先生に初めて洋裁を習い、ワンピースを縫った。祖父が着ていたインバネス(着物の春物コート)のリフォームだった。先生もご主人をフイリピンで戦死で亡くしていた。母親と二人の女の子を連れていた。そのとき習った洋裁の知識は、のちに役立ち、妹達の服が縫えるようになった。

 祖国日本へ帰る日を私たちは夢に見て、励まし合って生きてきた。日本人会では、脱出の計画を練っていた。現地の桜は日本のソメイヨシノだ。四月の終わり頃に咲く。春はすぐそこまで来ていた。


強盗におそわれる

 祖父が亡くなって、高台のわが家にはお悔やみの訪問客が続いた。ソ連軍が進駐しても治安は悪く、いつ日本へ帰れるか当てもない。日毎に暮らしは苦しくなった。あるお客が祖父のことを、「うらやましい。私も死にたいんじゃ」と言っていたのが忘れられない。
 それから間もない三月の終り頃、三世帯が住むわが家にとんでもないことが起きた。すっかり寝静まった真夜中だった。雨戸をどんどんと叩《たた》き、雨戸をはずして容赦なく、ガラス戸をこじ開けられた。父が出て財布を渡しても五、六人の男がどやどやと上がりこんできた。家の者は全員目をさまし震え上がった。押入の中にみんな押し込められた。部屋の中では物を探す音がした。

 金も金目の物もないと知ると押入の戸をあけ、父の胸ぐらにピストルを突きつけて「金を出せ」と迫った。私達子どもにもピストルを向けて、「殺すぞ」と脅した。祖母は震えながら、「ナンマイダ、ナンマイダ」と唱えていた。どのくらい時間が過ぎたのだろうか。静かになったのを確かめて、押入から出てみると、部屋の中には、山のように物を積み上げていた。米の中まで探したらしく、米がまき散らしてあった。

 私は一番気にしていた仏壇を見た。遺骨の入った木の箱は手をつけられていなかった。遺骨の箱には細工がしてあり、お金も入っていた。強盗は父の服と僅《わず》かな金を取って行った。明るくなって私は、ソ連のゲーペーウ(憲兵隊)へ走り、憲兵を遺《つ》れてきた。妹が、「きのう家を覗《のぞ》いていた男だ」と言うので、父と妹は治安隊へ行った。

 おじいさんをこんな恐ろしい目にあわせなくて良かった。誰も傷つかず無事であったことが何よりだったと私は思った。後に九人の強盗が捕まったと聞いた。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2006/9/23 16:41
きぬ子  新米   投稿数: 9
税務署に差し押さえられる

 高台の一軒家だったわが家に強盗が入った。それで身の危険を感じ、町へ降りることになった。商売で親しかったH氏宅へ割り込ませてもらった。H家は大きかったが、六、七世帯十七、八人が暮らしている。その中の一部屋を空けていただき、私達家族の生活が始まった。

 H氏は、敗戦まで金物とガラス商を営んでいたので、通りに面した広い店はバザールになっていた。日本人の世話で、売りたい品物をバザールで売ることができた。買いにくる客は、ほとんどがソ連兵、ソ連兵の将校の奥さん達であった。

 私や同級生など年頃の子どもが七、八人もいて、にぎやかだった。バザールに来るソ達人に影響されて、片言のロシヤ語を覚えた。「オオチンハラショ」「ニエット」「タワリシュ」「ロシビダニヤ」。片言を今も覚えている。ロシヤ民謡もロシヤ語で歌えるようになった。近所にも友達がいて流行歌「紫煙る」「青い背広で」「誰か故郷を」を日本語で大きな声で歌っていた。

 ところが四月のある日、わが家に朝鮮の税務署がやってきた。去年の所得に対する税金を払えという。家も倉庫もめぼしい物はみんな取られているのに、税金を払えとは…。
未だに日本に帰る目途《めど》もない暮らしである。父は役人と掛け合ったが、相手は一歩も引かず、差し押さえの赤紙を残った僅《わず》かな荷物にべたべたと貼《は》っていった。

 子どもの私でさえ悔しいと思ったのだから、父や母はどれほどの思いをしただろう。山の手の拡声器で、「日本人の生命財産は保証します」と何回も放送したではないか。
あれは嘘《うそ》だったのか。私達が頼る日本の国からは手が届かない。敗戦の惨めさ、悔しさをたっぷり昧わった。


第一陣、祖国に向かって出発

 唐国の三とせ見ぬレンギョウの花

 この句は、私が朝鮮から引揚げて、転校した先の先生が詠んだ句である。先生も朝鮮から引き揚げてきたのだろう。日本がサクラの国なら、朝鮮はレンギョウの国と言ってもいいほど、真っ黄色の花が街に野に咲き乱れる。

 北朝鮮の厳しい冬を越し、大同江の流氷が解け、サクラやレンギョウの花が咲き出すと、私達日本人は、祖国への思いに胸を膨らませた。今年こそ帰らなくては、日本人会の指示を待ち、準備も考えた。長い冬の間、日本人会では脱出の策を練り、帰路ルートの研究、ソ進軍と朝鮮側との交渉も重ねた。

 五月半ばすぎ、ソ進軍の移動許可を得て、第一陣が出発した。倉庫で暮らしていた二百人ばかりの人達である。広い大同江を艀(はしけ)で渡り、黄海《ファンヘ》道の沙里院《サリウォン》から南下して行く。第一陣を送るためには、周到な準備がなされたろう。三十八度線を越えると南側はアメリカの支配下になる。開城《ケソン》という町にたどりつけば、まず一安心である。

 日本人会を通した集団脱出が待ちきれなくて、個人や小集団で夜逃げした例もいくつかあった。なかには、盗賊に襲われ、命からがら戻ってきた人達もいた。集団脱出が六、七月と続くと、日本人は三分の一になり、町は寂しくなった。そのうえコレラが流行って、外出禁止となり、引き揚げも一時中止になった。幸い、コレラは日本人町には入ってこなかった。六月から七月にかけてアカシヤ並木の白い花の房に蜂が群がった。夏には朝鮮の国花ムクゲの花が咲く。

 現地人たちが次第に幅をきかせてきた。敗戦の日から抑留生活も一年が過ぎた。八月十五日の敗戦の日は、ソ連や朝鮮にとっては、戦勝記念の日である。マンセイ、マンセイと叫んで喜び祝っている。われわれ日本人は益々小さくなって暮らしていた。


九月に次々と脱出決行

 北朝鮮は大陸的気候である。九月になるとすっかり涼しくなる。ここで引揚げ中止命令が出れば、また寒い冬を迎えることになる。そこで九月十三日、三千八百人の大集団で脱出することになった。続いて九月十七日、病院船が南の仁川《インチョン》に向けて出るという。船賃は高かった。

 わが家では、祖母と叔父達がこの船に乗ることになり、父と私達きょうだいは、埠頭へ見送りに行った。年寄りや担架《たんか》に乗せられた病人のほか、身障者《しんしょうしゃ》の姿が目を引いた。この人たちの道中の苦労を思った。乗船者は三千人だった。日本に帰って分かったことだが、この船は南へは行ってなかった。編《だま》されたのだ。

 九月三十日、私達が最後に引き揚げる日となった。一番下の妹を母が背負い、あとの者はリュックを担いだ。子ども達はセーターをきて身支度をした。父は大事な書類のほか、なべやおわんなど、道中の食事の道具も用意し、冬の掛け布団を一枚担いだ。みんな揃って家を後にした。

 埠頭に集まった最後の日本人二千六百人は、艀(はしけ)に乗って向こう岸ヘー昼夜かけて渡るはずだった。ところが、四十人ばかりの技術者が残された。日鉱、理研、日産化学、三菱マグネなどの工場が立ちゆかないための措置であった。残された人達に見送られて、私達の乗った艀は岸を離れた。

 もう帰ることのない北朝鮮の鎖南浦、私が生まれ育った地、十五年間の思い出がいっぱい詰まったふるさとである。この一年余り、次々と事件にあい、怒り、悲しみ、恐怖、悔しさ、惨めさの中でこの日を夢に見、待ちに待ってきた。父は祖父の遺骨を抱いていた。どんな思いをしていただろう。母はちょうど日本にいる長男の身を案じていたと思う。船は闇《やみ》の中を滑るように走っていった。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2006/9/23 16:42
きぬ子  新米   投稿数: 9
三十八度線に向かって

 大同江《テドン》一夜を船の上で明かし、十月一日、黄海道《ファンヘ》に上陸した。その夜は倉庫のむしろの上で眠った。石を積み、持ってきた鍋《なべ》でご飯を炊いた。駅まで全員長い行列を作り田舎道を歩く。荷物の検査を受け、夕方に乗った貨物列車に荷物を床にぎっしり積み、その上に私達は座った。

身動きできないほどぎゆうづめだったが、列車に乗れたことだけでもありがたかった。夜中、トンネルの中で汽車が止まった。

 汽車を運転する朝鮮人達が、「金や物をよこせ」と要求してきた。私も仕方なく学校の制服を出した。母が縫ってくれた服だった。やっと動き出したら雨になった。無蓋車《むがいしゃ=屋根のない貨車》も何両かあったと聞く。外側が真っ黒にすすけた鍋でご飯を炊く。

 細いたんぽ道、高いポプラの並木、小高い山道を遅れないように歩いて広場に出た。また荷物の検査が待っていた。歩いては休み、また歩く。

 ある田舎町にきたとき、牛車が雇えることになった。牛車に母と二歳の妹が乗り、私達の荷物も乗せた。父と私達、四歳の妹もいっしょに歩いた。天気が良かったことは幸いだった。みんな励まし合い助け合って歩いた。

 夕方、山に囲まれた広場にきた。そこで野宿することになった。父は家族の健康を心配し、民家を探して交渉してきた。四畳半より狭いオンドルだった。オンドル《温突》は暖かく父が持ってきた一枚の布団でハ人が眠った。この布団がどれほど役に立ったか知れない。私達はぐっすり眠って元気になった。布団はそこの家において出た。

 十月五日、いよいよ国境三十八度線に向かって歩く。「もう少しだから頑張ろう」。誰もそう言い合って歩いた。長い休憩があって、夜十時頃だったろうか。空には丸い月が光って見えた。班ごとにまとまり、坂道を隊を組んで出発した。みんな緊張して静かだった。みんなの歩く足音だけが聞こえた。


国境を越える

 夜十時、国境に向かって出発した。私達の足音が次第にサクサクと砂地を歩く音になってきた。川に近づいて来たらしい。川には板が渡してあった。大きい石などいくつも置いて渡りやすくしてあった。夜だし、子どもや年寄りもいる。男の人が二、三人いて、手を取ってくれた。川はあまり深くなかった。砂地の道をしばらく歩き、山道を下る頃、空か白みかけてきた。見ると遠くに民家が四、五軒。ぼんやり灯りがともっている。

 三十八度線の国境を越えたのだ。「やった、やった」「やったぞ」「青丹だ」。人々は口々に叫んだ。長い間の念願が叶《かな》った瞬間の喜びの表現だったのだ。歌を歌う人、喜び抱き合う人びと、涙を流す人もいた。父も母も妹も弟もみんな無事に越えてきた。あの薄明かりの中にぼんやりと灯のともる民家が浮かんだ光景は、今も私の目に焼きついている。天気が良かったことと、川を渡してくださった人たちに感謝した。

 国境に近い青丹の倉庫で夜を明かし、開城《ケソン》の町に向かう列車に乗った。列車を降り、町の中を並んで歩いた。そのとき一人の朝鮮人の男性が父に近づいてきた。「鈴木さんじゃないですか。ちょっと待ってください」と言って朝鮮のもちを沢山買ってきて、「大変でしたね、食べてください」と差し出した。父と以前親交のあった人であろう。父は丁寧《ていねい》にその男性に礼を言った。ここでも現地の人の優しさに元気づけられた。

 私達はアメリカ軍の幕舎《ばくしゃ注1》に落ち着いた。毛布をもらいテント生活がしばらく続いた。二回の食事は、いつもトウモロコシやコウリャンのお粥だった。二歳の妹には極寒の中で凍らせて作ったご飯を食べさせた。元気な者は物と交換した大根をよくかじった。

 白髪の医者I先生がそこにいた。倉庫の中も、幕舎もよく回って診療を続けていた献身的な先生の姿は神々しく見えた。


開城《ケソン》の幕舎暮らし

 南浦《ナムポ》港を艀(はしけ)で出発して、三十八度線を越えて開城についた。一週間足らずだったろう。開城《ケソン》での幕舎生活は二週間余りにもなった。満州、北朝鮮からの引揚げ者が多く、受け入れ側は大変であったと思う。

 鉄条網に囲まれたテント村からは一歩も外には出られなかった。現地の人と鉄条網越しに食べ物をお金や品物で買った。やわらかい四角の朝鮮のおもち、リンゴ、大根などが手に入った。

 沢山の幕舎のなかで、私は、平壌《ピョンヤン》へ転校していった友達のMさんにばったり出会った。山口県の徳山に帰ると言っていたMさんとは、今でもお付き合いが続いている。親しい友達同士は、お互いに帰るところを教え合った。一応は寝食に困らないテント暮らしのなかで、一緒に出発した仲間が亡くなった。六十歳代の男性二人だった。

 昭和五十六年《1981年》、京都で帰国して初めての同窓会を開いた。各地方から四十人が集まった。お互い顔を見て、ただただ涙、涙だった。一人の恩師が挨拶のなかで、「私は亡くなった方を担いで三十八度線を越えました」と話した。祖国を目の前にして亡くなった人達は、女、子ども、お年寄り…。その裏で様々な困難や災難、苦難を支えてくれた人達があった。

 朝鮮の秋はリンゴがたわわに実る。「リンゴ照りそう丘つづき」と校歌にも歌われた。あさひ、祝い、紅玉、インドリンゴなど、テント村で手に入れたリンゴはどれも美味しく、よく皮のままかぶりついた。大根は味噌をつけると格別だった。

 わが家の家族が無事に越境できたのは、秋の実りの多い季節で、しかも、天候に恵まれたせいではないかと思った。第一陣から、次々に引き揚げた人達の経験が生かされたことも幸いした。


注1 幕舎=野外につくったテント張りの営舎
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きぬ子  新米   投稿数: 9
釜山《プサン》から興安丸に乗る

 幕舎生活から解放され、釜山に向かう列車に乗った。貨物列車ではなく客車に乗った。十月二十日すぎ、釜山港の埠頭の倉庫に落ち着いた。白髪の医師、I先生がここでも具合の悪い人達の診療に当たっていた。その姿に頭が下がった。

 港には夢にまで見た客船、興安丸が停泊していた。見上げる客船の舳先(へさき)には日の丸の旗がはためいている。この船をどれほど待ち焦《こ》がれていたことか…。私は、しばらくの間、じっと立って心にその姿を焼き付けた。誰もが同じ思いだったろう。

 乗船してしばらくすると、ドラが鳴り、博多港に向かって出航した。甲板下の部屋に雑魚寝《ざこね》のような形で横になった。夜九時以後は絶対に甲板に出ないように注意があった。甲板から上の客室にはアメリカ兵が乗っていた。興安丸に日の丸はあっても、敗戦国だったのだ。

 船中では夕食後、ホールでのど自慢が始まり、三晩ぐらい続いた。もうすぐ日本に帰れる喜びで歌謡曲や民謡、昔の唄がよく歌われた。「花つむ野辺に日はおちて――」「誰か故郷を思わざる」などが、特によく歌われたが、見ている人も一緒に声を出して歌った。気持ちが誰もそれぞれのふるさとに飛んでいた。

 私達家族も、祖父母や父のふるさとを目指した。家もお墓も、田や畑もあると聞いてはいるか、私達きょうだいは、初めて見る土地である。おとぎ話で読んだ、かぐや姫、すずめのお宿、こぶとり爺さんなどは、全部日本の話ばかりだった。幼い頃から私は、日本はおとぎの国とあこがれていた。

 日本は、もうすぐだ。兄もきっと元気でみんなを待っているだろう。


博多港から祖国へ

私達は、何度も甲板に出ては舳先(へさき)の方向を見た。「あ、対馬だ」「そうだ、そうだ」。人々は口々にうなずき合った。次に見えたのは壱岐《いき》である。もう本土は近い。しかし、船はなかなか港に入らなかった。検査を受けたりして、十月二十五日、やっと博多港に着いた。

 船の上から博多の埠頭を見た。はじめて見る婦人警官の姿がまぶしかった。船を降りると、白い粉の消毒を受け、手続きも時間がかかった。尋ね人を書いた書類が沢山あった。やがて粗末な小屋に案内され、白いおにぎりを一つずつもらった。お米は何日ぶりであろうか。おいしくいただいた。

 夕方近く、軽くなった荷物を持って私達一家は同郷の人達と汽車に乗った。八幡製鉄が車窓から見えた。爆撃のひどさに、「やられているな」と父は小声でつぶやいた。山陽本線に入ると、窓から竹藪《たけやぶ》が見えた。絵本で見たとおりだ。私はかぐや姫の話を思い出していた。

 辺りは暗くなり夜の十一時過ぎ、山口県のY駅に着いた。ここからはバスに乗らないと家に帰れない。バスが出る明日の朝まで駅で待つことになった。家族の少ない人たちは旅館に泊まりに行き、駅から家が近い同行の人達は駅から出て行った。残ったのは八人家族のわが家だけになった。待合室の隅に荷物をかたよせて、その上に妹達三人と弟を寝かせた。あとの四人は椅子に腰掛けて夜が明けるのを待った。さすがに夜がふけてくると寒さが身にしみた。

 夜明け近くなると、駅には行商や通勤の人たちがやってきた。私は顔をあげられなかった。周りの人には、私達の姿が、どう映っただろうか。私達は乞食に近いのかも知れないと思った。


祖国の土をふむ

 朝の六時半、一番のバスに乗った私達は瀬戸内の水場で降り、すぐそばにあった、知り合いのお寺にひとまず落ち着いた。住職と奥さんにいたわられ、座敷に上がった。話は広島に落ちた原爆のことや、この近くに沈んでいる巡洋艦のことなどだった。

 早速、お風呂を沸かしていただいた。ひと月近くの垢《あか》を落とすことができた。母は一番最後に入り、掃除が天変だったのよ、と言っていた。そのうえ、お昼には、大きなざるにイモを沢山ふかしてくださった。それを食べて二階で休んでいた時、船着き場を眺めていた父が立ち上がり、「亮蔵さーん」と叫んだ。見ると男の人が手を振りながらやって来た。父の従兄弟の亮蔵さんは、水場の前に浮かぶ島に住んでいた。

 父や母が一番心配していたのは、兄の行方と病院船に乗せた祖母達のことだった。私達より二週間早く出た祖母達はまだ帰っていないと分かり、父の顔が曇った。兄は四月から山口の学校に入り、寮で暮らしていると、亮蔵さんが教えてくれた。亮蔵さんは、父が戦後、朝鮮から出したハガキをポケットから出して見せた。これにはどうかよろしくたのむ、と筒単に書いてあった。

 お寺の広い庭の門の近くに大きな柿の木があった。高い枝先に赤い実が五、六個残っている。ポタッと柿の実がひとつ落ちた。すみきった空に、トンビがピーヒョロと飛んでいった。あーこれが日本の国だ、帰って来たんだなあと、その時しみじみ思った。

 私達は亮蔵さんの船に乗って島に渡り、亮蔵さんの大きな家にしばらくお世話になった。この島には、父の従兄弟達の家が三軒あった。祖母のきょうだい達の家である。この小さな島には電灯がなく、夜はランプを灯していた。国木田独歩が若い頃、この島の分教場で教鞭《きょうべん》をとっていたと聞いた。翌朝、父と母が兄を訪ねて山口へ発った。


祖国日本に帰って

 島での暮らしは一週間ほど続く。暦は、十一月に入っていた。島では、初めて見たザクロの大きな実がたわわに実っていた。はじけた実のなかには、ルビーのような赤く甘い実がびっしり詰まっていた。

 三軒の親類が世帯道具を揃えてくれた。お布団も皿小鉢も、それに古い鏡台まであった。全てを船に乗せ、私達も乗って、父のふるさと、瀬戸へ向かった。父の生まれた瀬戸には船着き場(がんぎ)があり、荷下ろしは簡単にできた。

 日曜日には兄も帰ってきて、一家全員が揃った。海軍兵学校にいた兄は、敗戦後、同郷の友人と学校のカッターに乗って手旗信号で、「曳航《えいこう》せよ」と言って、漁船に引っ張ってもらってここまで帰ったんだよ、と得意げに話してくれた。家の前には祖母の親元の家、ほかに何軒かの親類があってお世話になった。

 それからまもなく祖母達が無事に帰ってきた。行く先を騙されたうえ、伝染病も出て散々な目に合ったという。一ヶ月半もかかって、やっと帰った年寄りの気持ちを思った。すでにできていたお墓に、祖父のお骨を納めた。

 そのころ、出征《しゅっせい注1》してシベリアに抑留《よくりゅう注2》されていた父の弟が帰るという知らせがあった。バスの終点へ迎えに父と出た。バスが止まり、叔父が降りてきた。そのとき、側にいた人が、父に祖父の悔やみを言った。祖父が死んだことを知らない叔父は、「お父さんは」と言って絶句した。家の近くまで来たとき、家にいた祖母が待ちきれず走り出て叔父にしがみついた。祖母と叔父の嘆く姿に、私は母子の情愛を強く感じた。

 叔父は船の中でもらった菓子折を祖父の写真に供え、手を合わせた。シベリアの厳しい寒さを越した叔父の顔のしわや、歯が欠けていたのが痛ましかった。

     斉藤 絹子_1931

注1 出征=軍隊の一員として戦地にいく
注2 抑留=強制的にとどめおく
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