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父と島崎藤村・その5

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通常 父と島崎藤村・その5

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/1/21 20:05
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
  その日、三月四日の父の日記には次のように記されている。
 「夜来の降雪、午後二時頃まで降る。後、西の烈風。夕方五時半頃に、今日はこの雪ゆえ来はすまいと思った島崎氏が雪を冒してやってきた。丁度余《よ=われ》は入浴中だったので直ぐ出て、それから夕食後、何という事なしに話して一時過ぎ迄。話題は今後の新作『破戒』の大略に就いて色々、挿絵に就いて、装釘に就いて等色々。」

 猛吹雪の中を難行の末にやっと辿り着いた藤村を、父がどんなに感激して温かく迎えたかは想像に難くない。母や家中の歓待も受けてその日は夜中の一時まで、翌日もまた朝から四方山《よもやま=さまざま》の話に花を咲かせて午後まで。そして三時帰路につくのであるが、その間、わざわざそのために雪を冒して訪ねてきたはずの肝腎《かんじん》な金四百円借用の件は、ついに話し出すことが出来なかった。そしてその夜、長い手紙を書いて出している。長文なので、梢《やや》抄記《しょうき=抜書き》する。

 「あたたかき湯に身の疲れを忘れ、終宵の物語り、時のうつるを覚えざりしは昨日のことに候ひき《そうらいき》。昨日の今は兄と令閨《れいけい=夫人》と互におかしくおもしろき談話に興ぜしことを思い出でて、身はなお羨《うらやま》しき兄《けい=先輩、同輩に対する敬称》の家庭のうちにある心地いたし候。
 この行、風雪を衝《つ》きて静かなる御住居を驚かせしは、兄を見てたのしき日を送らんとの願いの外に、別に生《せい=男子の謙称、小生》の前途に展《ひら》けつつある新事業につきて兄の同情と助力とを得度《た》きの念に満ちたるにて候ひき。されど、静慮《せいりょ=心を静めて考える事》すれば兄に対して交《まじわり》未だ浅き身なり。たとえ文芸の事業に深き感興と同情とを寄せらるる兄とは頼みながら、こは《=これは》あまりに無遠慮なるわざなりと考へ、遂に生は語る能《あた》わず《=語ることが出来なかった》して兄の家を辞したるにて候。
 甚《はなは》だ勝手なる申し出ながら、兄にしてもし生を信ぜられ、生の事業を助けむ《ん》との厚き御志もあらせられ候はば、向後《きょうご=今後》三年のあかつきに御返済するの義務を約して、補助費として四百円を御恩借《人の情けによって借り受ける》いたしたきこと。・・・西の国《=西欧》の詩人の上をも見るに、その人を得たるためにゲエテは生き、その人を得ざりしためにシェレイは死せり。
 かかる御依頼は甚だ申し上げにくき次第なれど、今は死生を新しき事業に托《たく》するの身、兄の如き人を力として進むより外なき境遇、万々《ばんばん=充分》御賢察御推読を仰ぎ申し候。」

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