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父と島崎藤村・その6

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通常 父と島崎藤村・その6

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/1/22 19:50
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 これを披《ひら》いて見た父の困惑は大きかった。四百円といえば、今の金額で約二百五十万円である。いくら赤壁の当主だとはいっても未だ二十三歳の身では、それを右から左にできる力はない。しかし、何とかしなければならない。それで子供の養育費の中から工面してまず百五十円を送り、大正五年までで三百九十円を用立てている。その後も屡々《しばしば》救援の依頼があり、藤村研究家の並木張氏によれば、後のフランス滞在費の援助まで含めると父の支援額は一千八十円に達している。
 因に《ちなみに=関連して》藤村からの返金は、生涯を通じて八百六十円だったということである。

 実際、「破戒」の執筆に命を賭《か》けて歩み始めた藤村の苦闘と、それを支える父の友情との交錯は劇的ともいえるものだった。四月二十九日、藤村が小諸を去って東京西大久保の寓居《ぐうきょ=仮住まい》に入った翌月に三女縫子が死亡。六月に次女孝子が死去。七月には長女みどりが死亡。冬子夫人も栄養失調で失明した後逝去している。その間、父は西大久保の家を五回も訪ねているが、父の力もここまでは及ばず、如何《いかん》とも為し得ないことに父も藤村と同じ心の痛みを共に苦しんだに違いない。そして一家全滅の中で、幽鬼のようになって只《ただ》ひたすら書き続けた「破戒」の原稿が完成したのは、上京してから七ヵ月を過ぎた十一月二十七日だった。
 「草稿全部完了。十一月二十七日夜七時、長き々々労作を終る。章数二十一、稿紙五百三十五。無量の感謝と長き月日の追懐とに胸踊りつつこの葉書を認む《したたむ》」という歓喜のハガキが父に宛《あ》てて届いている。

 藤村はこの原稿を持って、岩波書店へ出版の交渉に行った。ところがその原稿を見た社長の岩波茂雄は「いくら自費出版でも、こんな汚い原稿では活字が拾えない」と言って受け取らず、突っ返されてしまった。困って相談された父も憤慨したが、それでは書き直そうということになり、父が特製の原稿用紙を作る事になった。例の得意な篆刻《てんこく》の人脈を生かして大型の版木に枡目《ますめ》を刻み、美濃紙《みのがみ=紙質が強く半紙より大判の上質紙、美濃の国の産物》に朱色で刷った原稿用紙を作らせ、藤村がもう一度こんどは毛筆の楷書で丁寧に書き直した。私は学生時代志賀に帰ってこれを何回も読んだので、「破戒」という小説は活字で読んだことがない。「破戒」というと、あの朱で罫《けい》の引かれた美濃紙の原稿用紙に独特の風格で書かれた美しい楷書の文体が、そのまま小説の内容として頭に浮かんでくるのである。

 こうして、藤村の出世作「破戒」は、上田屋から明治三十九《1906》年三月「緑蔭叢書《りょくいんそうしょ》」第一編として自費出版され、絶賛を博した。直ぐに七月、小山内薫《おさないかおる》の脚色演出で伊井蓉峰《いいようほう》一座により、真砂座《まさござ》で上演された。その後、「春」、「家」と次々に名作を発表して文壇に不動の地歩《ちほ=地位》を築いていくのであるが、ここまでに到達するまえ七年間小諸の寓居で「落梅集」、「旧主人」をはじめ、「破戒」もその上で書かれた簡素な松村の机は、小諸を去る時、原稿そのものや愛用の硯《すずり》などと一緒に、お礼のための記念品として父に贈られてきた。私は高等学校の受験で志賀に浪人生活中、一年間その上で勉強して山形高等学校に合格させてもらったので、この机には恩義を感じている。

 その後藤村は、昭和十《1935》年に「夜明け前」を完成してから、「日本ペンクラブ会長」に就任、昭和十一《1936》年「朝日文化賞」を受賞、昭和十五《1940》年「帝国芸術院会員」を受諾するなど、急速に社会的繁忙を極めるようになったが、この間も含め、父は四十年の間に二百三十八通の手紙を藤村から受け取っている。

 私が物心ついた頃は、先生の作家活動に最も油が乗りきっていた時代で、実業之日本社や春陽堂から「島崎藤村集」が出たり、小諸懐古園に「千曲川旅情の歌」の藤村詩碑ができたりした時分である。この時、昭和二《1027》年七月、詩碑の建立に立ち会った長男楠雄さんと三男蓊助さんが上田の家に寄って、団扇《うちわ》をバタバタさせながら、兄達と談笑していた情景が目に浮かんでくる。二男鶏二さんや柳子さんも来た事があるが、その頃美術学校の学生だった鶏二さんの風格に憧《あこが》れた私は、府立五中を出る頃、美術学校を受けたいと言って、長兄からえらく怒られたことを覚えている。

 何れにしても、子供の頃、父や母と一緒に囲む夕餉《ゆうげ》の食卓では、話題に島崎先生の話が出ることが多かったので、私は今でも文豪「島崎藤村」のことを先生と言ってしまう。

 以上、父と島崎藤村との関わりについて述べてきたが、前述したように父は非常に懐の広い人だったので、知人の人脈にもまた多士済々なものがあった。父の招きに応じて志賀村の「赤壁の家」を訪れて下さった方は、島崎藤村、高浜虚子の外私の知る限りでも、三宅克己、丸山晩霞、田山花袋、小山内薫、有島生馬、柳田国男、室生犀星などの方々がある。
 大正十一年九月には、東久邇宮《ひがしくにのみや》聡子内親王殿下も来臨されている。

 すべてもう故人となってしまわれたこれらの方々とともに、父と島崎先生のご冥福《めいふく》をお祈り申し上げたいと思う。

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