八瀬物語
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投稿日時 2007/7/26 10:46
ほのぼの
投稿数: 33
八瀬《やせ=京都市》物語
追憶 その1
♪♪ 高商の相撲の選手に勝てるなら
やがて西から満月が ホイホーイ! ♪♪
これは曽って岩倉にあった、同志社高商の相撲部の応援歌である。 私の子供の頃、夏には、八瀬の遊園地に土俵が造られていて、そこで高商と何処かのチームとの相撲大会があり、私達家族で見物に行った覚えがある。 あの頃は、父がまだ「京都電燈株式会社」に勤めていた関係からか、わが家のメンバー全員に、叡山《えいざん》電車の優待パスがあったこともあり、何かというとよく全員で、八瀬遊園地の催し物を見に出かけたものだった。
まだ私が小学校に入る前時分だったと思うが、高商の相撲の選手が、取り組みに勝つ度に、上の応援歌が歌われ、それを何度も聞いている内に覚えてしまって、それが今でも思い出せるのだから、子供の頃の記憶とは凄いものである。 高商の選手が負けたときには、どうしていたのかは覚えていない。 同志社高商は戦後、同志社大学商学部となった。
昭和12-13年頃、八瀬は京都市内での、ちょっとした遊園地であった。 小さな池ではボート遊びが出来、規模は小さいがサンショウオの入った水槽のある水族館があり、猿や孔雀《くじゃく》のいる動物園があった。 広げられた孔雀の羽根の美しさ、猿山の猿の動きなどいつまでも見飽きないものだった。 水力発電所の建物のとなりには、昆虫博物館があって源氏蛍と平家蛍のイラストが書いてあった。 発電所からの水の流れの中に、大きな鯉が何匹も、悠々と泳いでいたのも、新鮮な思い出である。 発電所に引かれてきた水の一部は、大きな滝となって落下しており、夏の夜などはこの滝の周りで、多くの人達が、涼んで居たものだった。 こんな時、先の相撲大会も催されたのである。この滝の名前は「竜王滝」ということを、あれから60年後の先日、平成7年10月14日になって発見した。
当時の八瀬には、俗称「大人のプール」と「子供のプール」があり、やはり夏の昼間などは多くの大人や子供で賑わった。 大人のプールの方だけは、有料で水もきれいであった。子供のプールの方は要するに大人のプールの二番煎じで、皆の間で「ションベンプール」と言われていた。 なかなか現在の都会のプールのようにクリーンではないけれども、しかしまん中に噴水があったりして、安心して遊べる子供の練習プールとして、結構皆に人気があった。 プールからの坂の上にはローラスケート場があり、遊び疲れると、ここの熱いコンクリートの上に腹ばいになって、よく甲羅干し《こうらぼし=腹ばいになって日光浴をする》をしたものだった。 プールの東側を流れている高野川《たかのがわ》の水は清く、所々深みの有る流れの中でも良く泳いだものだった。泳ぐと言っても、特別に指導者や先生がいるわけでもなく、皆それぞれに我流で泳ぎを楽しめ、夏休みを楽しんでいた。 その時に皆の拠点となっていた、流れの途中の大石は、50年後の今も残っている。 私なんかの水泳は、全く八瀬の川原で覚えた落合流のものである。競泳には向かないが、軍艦や輸送船が沈められたとき、救命艇がきてくれるまで、ゆっくり泳いで待っていられると言うタイプのものである。
さて高野川に沿って池の端を通り、遊園地を抜けると、わらび茶屋がある。そこの坂を上がると、ケーブルの西塔橋駅がある。 今は八瀬遊園駅と呼ばれている。 このケーブルは、大正の末期に造られたものであるが、その駅の右手上には、御影石《みかげいし》と青銅で造られた立派な記念塔が立っている。銘板《=物事の来歴の書かれた板》に「平安遷都《せんと=都を移す》記念棠」とある。多分平安遷都1100年を記念して建てられたものだろう。 当時はその塔の周辺はきれいな芝生だったが、今は笹薮になってしまっている。
ケーブルに乗っている時間は只の9分間であるが、窓からは岩倉や八瀬の景色が見おろせて素晴らしい。 戦前の夏の比叡山では、この終点駅から、蛇が池遊園地広場までの、ダラダラ坂の片側に、日本の歴史の有名な物語の一場面、例えば屋島の合戦、那須の余一の弓を射る絵や、忠臣蔵討入の場面とかが大きく描かれていて、それらを見ながら、そして父や母からの話を聞きながら登って行く内に、蛇が池に着くと言う趣向になっていた。その道中には、もちろん、いろいろな出店があって、子供心をそそったものであった。 夏でも比叡山の蛇が池は涼しく、電車賃がタダということもあって、何かというとよく家族で出かけたものであった。 当時のわが家は、長屋住まいの貧しいファミリーではあったが、子供心には豊かな豊かな思い出のあるファミリーであった。
八瀬に向かう叡山電車の乗り場は修学院《しゅがくいん》の駅である。修学院の次は、当時山端(ヤマバナ)と言われた。現在は宝が池という名になっている。子供の頃、夕方になると、妹を連れたりして、修学院の駅へよく、父の帰りを迎えにいったものだった。 次の電車で、次の電車でと、父が電車から降りて来るのを待っている子供心は、いま思い出しても懐かしく、やっと5台目くらいに父が降りてきたときなんかは、二人して父に飛びついていったものだった。
こんな事もあって、修学院駅は子供心にも「なじみ」になっていた。 そんな事もあってか、一日、妹とまだ、昼間の間からなんとなく修学院の駅に遊びに行き、そのまま、八瀬に行こうと言うことになって、電車に乗ってしまったことがある。八瀬に着いて外の遊園地の方に出かけようとしたら、幸か不幸か、雷が鳴りだして、激しい夕立となった。二人は外に出られず、八瀬の駅の二つ並んだ電車のどっちが次ぎに発車するのだろうか、こっちかな、あっちかなと、行ったり来たりして駅の中を走り回っていた。 やっと発車の電車に二人して乗り合わせ、修学院の駅に降りたとき、もちろん、無賃乗車だったのだが、車掌さんから「こんどから、こんなことしたらいかんよ」と優しく叱られた。 思えば、あの当時、八瀬の駅長さんは、近所の安部さんのオジさんだったから、駅の中を走り回っている私達を見つけて、車掌さんに耳打ちしたのだろうと、後になって思った。
先日京都に帰ったとき、昔を懐古しながら、家から八瀬まで散歩した。八瀬の駅の姿、格好は60年前とちっとも変わっていない。 全く不思議な駅である。
(1995,10,06)
八瀬物語--追憶:その2--蛙(かわず)の合唱
子供の頃、家の周りには、田園が連なっていた。 六月頃、水田に水が敷き詰められる。と、夜ともなると、蛙の合唱が面白い。 面白いと言うより、喧しい《やかましい》のだが、実にいろいろな、鳴き方があるものだと感心する。 この合唱は、梅雨近くにもなると、一段と激しい。
田圃《たんぼ》の向こう側には蛍雪《けいせつ》荘という名の下宿があった。 この下宿は、当時では珍しく、平屋一戸建ちの、今風に言うならば、1Kタイプで、それが、数軒並んでいたのである。 その下宿の、お兄さんが、ある一夜、田圃の蛙たちに向かって、「満場の蛙(かわず)諸君、!」と演説を始めたことがある。、その大声で、一瞬、蛙の鳴き声が静まる。お兄さんは、続ける。 「我が輩は、目下、難解な哲学の学問をなしつつある。かわず諸君、我が輩の学問のために、一時、諸君のその合唱を止めてくれないか。いや、止めるべきである。諸君、・・・」との大演説である。 田圃のこちら側の住人達は、当時子供だった、私も含めて、その面白い演説に聴《き》き入った。 演説が始まると、一瞬、合唱は小さくなるが、次第にまた、大きくなる。 するとまた、お兄さんは、より大きな声で、演説を続ける。 即興《=即座に詩歌などをつくる》にしては、なかなか筋が通っているし、リズムがあり、聴かせる。
と、突然、演説が止まった。 お兄さんの隣の下宿人が、「お前、もういい加減その演説を、止めてくれないかな。我が輩の勉強が進まんではないか。」と二人でやり合っているのが聞こえてきた。 二人は、呵々大笑《かかたいしょう=カラカラと大声で笑う》して、演説は終わり、そして、また、蛙の合唱が、再開したのだった。 もう六十年も前の、故郷、京都修学院での、思い出である。
その田圃の前の、小さな畑を我が家は借りていて、今で言う家庭菜園を、やっていた。いや、一坪菜園ではなく、結構広く、五十坪はあった。畑には、ネギ、水菜、大根、里芋、トマト、キュウリ、そして、四季折々に、ダリヤや、菊、コスモスなどが咲くように、植えられていた。日曜日には、兄と私は父を手伝って、畑の手入れをしたものだった。兄、私、妹と、それぞれは、半坪ぐらいずつの場所をもらって、そこには、自分の好きな種を播《ま》いたり、苗を植えたりしたものだった。
畑のすぐ西側には、叡山電車が走っている。電車は今でもあるし走っている。 今でもそうであるが、終点は八瀬駅、そこからケーブルに乗れば、凡そ10分で、比叡山に登れる。 私が、我が家の畑に、側の小川から柄杓《ひしゃく》で「拡散注水」していたとき、ヒットラー総統配下のドイツの高官連を乗せた電車が通った。 高官は私を見つめ、私は柄杓を振り上げて挨拶した。 アッという間の出来事だったが、私の記憶は鮮明である。 当時、ドイツの高官連が、来日し、京都を訪れ、比叡山に登ったことがあった。 その日の出来事である。
私の、子供の頃の、故郷、修学院の、田圃の、思い出である。
八瀬物語--追憶:その3--
京都は戦災に遭わなかったので、少年兵として、故郷の京都に復員して帰ってきた夜、家の窓から、比叡山を仰ぎ見たとき、その裾野の、田圃の向こうの家々に、明々と、まさしく公明正大に、電気がともっているのを見て、震えるように感激した思い出がある。便数は、さすがに、少なかったが、八瀬への叡山電車も、電気をつけて走るようになっていた。薄暗かったが、修学院の駅にも、電気がついた。
その頃、一般家庭では停電は当たり前のように、一日に何回も行われた。日本国内での発電の絶対量が足らないのだから、仕方ないのだが、戦争中の暗黒よりはよいとして、別に、どこからも不平も出なかった。
当時の電気は、すべて最優先に、進駐軍《注1》に送電されていたのである。 アメリカさんの家々では、ライトが煌々《こうこう》と輝いていた。 その次には、電気は公共交通機関に配電された。従って、我々の家が停電したときでも、修学院の駅に行けば、たいてい電気は点いていた。
復員学徒の小生、その頃の試験勉強シーズンの夜に、停電するのには、ほとほと、困った。家にある数少ないロウソクを使わしてもらうか、試験を諦めるか、さもなくば、近くの駅まで、教科書とノートを持って、通ったものである。その駅の電灯も、今のようには、明るくないので、英語の辞書などは読めなかったくらい(暗い)である。 だから、一度覚えた単語は、暗闇の中でも決しても忘れまいと、必死的(?)であった。 そう言えば、あの頃、みんな必死で生きていた。すがすがしい思い出である。
その頃、大陸からも、復員してくる人、帰国してくる人が多かった。 ほとんど日本中、焼け野原の中、誠に珍しく、昔のままの、たたずまいで、京都の町は残っていた。 清楚《せいそ》で、平和な趣《おもむき》の、京都御所の雰囲気もそのままであった。 東山三十六峯の連なり、その麓《ふもと》の、寺院、お社《やしろ》、そして祇園甲部《ぎおんこうぶ=京都で最大の花街》の町並み、弥栄《やさか》会館の映画館は堂々としていた。
修学院の我々の町内にも、モダンな家族が転居してきた。 そこの奥さんは大柄で美しく、いつも活発で、近所の人達に大きな声で挨拶をするご婦人であった。 一方、そこのご主人は、やや小柄で物静かな紳士であった。 子供たちは三人いた。 いずれも元気いっぱいの、やや、やんちゃなところのある連中だった。
終戦後のある日、そこの奥さんが、新京極に出た折り、全く偶然に、大陸から引き揚げてきた昔の恋人に出会ったと言う。 奥さんが言われる所では、昔のこととて、若い頃の二人の恋愛は、親に許されず、男性は大陸に去り、奥さんの方は、親が決めた別の男性と結婚式を挙げさせられたのだ、と言うことであった。 みすぼらしく大陸から引き揚げてきた、昔の恋人ではあったが、快活な奥さんに出会って、その男性は元気百倍した。 新しい生活を立て直す意欲が出てきたのだった。 そして、必然的に、二人の間には、昔の情熱が沸き上がったのである。 情熱は常に理性を凌駕《りょうが= 他をしのぐこと》する。 まさしく、「焼きぼっくりに火がついた」のであった。
奥さんは昔の恋人の下《もと》に走った。三人の子供達は・・・母親に従った。 そして五人家族の広い家の中には、紳士風のご主人一人が残されたのである。 この事件は、もちろん、町内の話題になったことは当然だが、その奥さんの悪びれた様子のない態度に、町内の連中は「時代が変わる」とはこういう事か、と半ば憧憬《しょうけい=あこがれ》にも似た気持ちで、見つめていたのだった。
奥さんと子供三人が家を出た夜、そこのご主人は黙然と、しかし軒先に火が届くのでないかと、皆が心配するほど、大きな焔《ほのお》を挙げながら、書籍や家財を燃やし続けた。叡山電車のガラス窓にも、その炎が映っていた。そして、火が消えたとき、紳士は再び黙然と京都を去っていったのだった。
60年も昔の出来事である。
注1 進駐軍=第二次大戦後、日本に進駐した連合国軍隊。
講和条約発効後は「駐留軍」と称するようになった。
追憶 その1
♪♪ 高商の相撲の選手に勝てるなら
やがて西から満月が ホイホーイ! ♪♪
これは曽って岩倉にあった、同志社高商の相撲部の応援歌である。 私の子供の頃、夏には、八瀬の遊園地に土俵が造られていて、そこで高商と何処かのチームとの相撲大会があり、私達家族で見物に行った覚えがある。 あの頃は、父がまだ「京都電燈株式会社」に勤めていた関係からか、わが家のメンバー全員に、叡山《えいざん》電車の優待パスがあったこともあり、何かというとよく全員で、八瀬遊園地の催し物を見に出かけたものだった。
まだ私が小学校に入る前時分だったと思うが、高商の相撲の選手が、取り組みに勝つ度に、上の応援歌が歌われ、それを何度も聞いている内に覚えてしまって、それが今でも思い出せるのだから、子供の頃の記憶とは凄いものである。 高商の選手が負けたときには、どうしていたのかは覚えていない。 同志社高商は戦後、同志社大学商学部となった。
昭和12-13年頃、八瀬は京都市内での、ちょっとした遊園地であった。 小さな池ではボート遊びが出来、規模は小さいがサンショウオの入った水槽のある水族館があり、猿や孔雀《くじゃく》のいる動物園があった。 広げられた孔雀の羽根の美しさ、猿山の猿の動きなどいつまでも見飽きないものだった。 水力発電所の建物のとなりには、昆虫博物館があって源氏蛍と平家蛍のイラストが書いてあった。 発電所からの水の流れの中に、大きな鯉が何匹も、悠々と泳いでいたのも、新鮮な思い出である。 発電所に引かれてきた水の一部は、大きな滝となって落下しており、夏の夜などはこの滝の周りで、多くの人達が、涼んで居たものだった。 こんな時、先の相撲大会も催されたのである。この滝の名前は「竜王滝」ということを、あれから60年後の先日、平成7年10月14日になって発見した。
当時の八瀬には、俗称「大人のプール」と「子供のプール」があり、やはり夏の昼間などは多くの大人や子供で賑わった。 大人のプールの方だけは、有料で水もきれいであった。子供のプールの方は要するに大人のプールの二番煎じで、皆の間で「ションベンプール」と言われていた。 なかなか現在の都会のプールのようにクリーンではないけれども、しかしまん中に噴水があったりして、安心して遊べる子供の練習プールとして、結構皆に人気があった。 プールからの坂の上にはローラスケート場があり、遊び疲れると、ここの熱いコンクリートの上に腹ばいになって、よく甲羅干し《こうらぼし=腹ばいになって日光浴をする》をしたものだった。 プールの東側を流れている高野川《たかのがわ》の水は清く、所々深みの有る流れの中でも良く泳いだものだった。泳ぐと言っても、特別に指導者や先生がいるわけでもなく、皆それぞれに我流で泳ぎを楽しめ、夏休みを楽しんでいた。 その時に皆の拠点となっていた、流れの途中の大石は、50年後の今も残っている。 私なんかの水泳は、全く八瀬の川原で覚えた落合流のものである。競泳には向かないが、軍艦や輸送船が沈められたとき、救命艇がきてくれるまで、ゆっくり泳いで待っていられると言うタイプのものである。
さて高野川に沿って池の端を通り、遊園地を抜けると、わらび茶屋がある。そこの坂を上がると、ケーブルの西塔橋駅がある。 今は八瀬遊園駅と呼ばれている。 このケーブルは、大正の末期に造られたものであるが、その駅の右手上には、御影石《みかげいし》と青銅で造られた立派な記念塔が立っている。銘板《=物事の来歴の書かれた板》に「平安遷都《せんと=都を移す》記念棠」とある。多分平安遷都1100年を記念して建てられたものだろう。 当時はその塔の周辺はきれいな芝生だったが、今は笹薮になってしまっている。
ケーブルに乗っている時間は只の9分間であるが、窓からは岩倉や八瀬の景色が見おろせて素晴らしい。 戦前の夏の比叡山では、この終点駅から、蛇が池遊園地広場までの、ダラダラ坂の片側に、日本の歴史の有名な物語の一場面、例えば屋島の合戦、那須の余一の弓を射る絵や、忠臣蔵討入の場面とかが大きく描かれていて、それらを見ながら、そして父や母からの話を聞きながら登って行く内に、蛇が池に着くと言う趣向になっていた。その道中には、もちろん、いろいろな出店があって、子供心をそそったものであった。 夏でも比叡山の蛇が池は涼しく、電車賃がタダということもあって、何かというとよく家族で出かけたものであった。 当時のわが家は、長屋住まいの貧しいファミリーではあったが、子供心には豊かな豊かな思い出のあるファミリーであった。
八瀬に向かう叡山電車の乗り場は修学院《しゅがくいん》の駅である。修学院の次は、当時山端(ヤマバナ)と言われた。現在は宝が池という名になっている。子供の頃、夕方になると、妹を連れたりして、修学院の駅へよく、父の帰りを迎えにいったものだった。 次の電車で、次の電車でと、父が電車から降りて来るのを待っている子供心は、いま思い出しても懐かしく、やっと5台目くらいに父が降りてきたときなんかは、二人して父に飛びついていったものだった。
こんな事もあって、修学院駅は子供心にも「なじみ」になっていた。 そんな事もあってか、一日、妹とまだ、昼間の間からなんとなく修学院の駅に遊びに行き、そのまま、八瀬に行こうと言うことになって、電車に乗ってしまったことがある。八瀬に着いて外の遊園地の方に出かけようとしたら、幸か不幸か、雷が鳴りだして、激しい夕立となった。二人は外に出られず、八瀬の駅の二つ並んだ電車のどっちが次ぎに発車するのだろうか、こっちかな、あっちかなと、行ったり来たりして駅の中を走り回っていた。 やっと発車の電車に二人して乗り合わせ、修学院の駅に降りたとき、もちろん、無賃乗車だったのだが、車掌さんから「こんどから、こんなことしたらいかんよ」と優しく叱られた。 思えば、あの当時、八瀬の駅長さんは、近所の安部さんのオジさんだったから、駅の中を走り回っている私達を見つけて、車掌さんに耳打ちしたのだろうと、後になって思った。
先日京都に帰ったとき、昔を懐古しながら、家から八瀬まで散歩した。八瀬の駅の姿、格好は60年前とちっとも変わっていない。 全く不思議な駅である。
(1995,10,06)
八瀬物語--追憶:その2--蛙(かわず)の合唱
子供の頃、家の周りには、田園が連なっていた。 六月頃、水田に水が敷き詰められる。と、夜ともなると、蛙の合唱が面白い。 面白いと言うより、喧しい《やかましい》のだが、実にいろいろな、鳴き方があるものだと感心する。 この合唱は、梅雨近くにもなると、一段と激しい。
田圃《たんぼ》の向こう側には蛍雪《けいせつ》荘という名の下宿があった。 この下宿は、当時では珍しく、平屋一戸建ちの、今風に言うならば、1Kタイプで、それが、数軒並んでいたのである。 その下宿の、お兄さんが、ある一夜、田圃の蛙たちに向かって、「満場の蛙(かわず)諸君、!」と演説を始めたことがある。、その大声で、一瞬、蛙の鳴き声が静まる。お兄さんは、続ける。 「我が輩は、目下、難解な哲学の学問をなしつつある。かわず諸君、我が輩の学問のために、一時、諸君のその合唱を止めてくれないか。いや、止めるべきである。諸君、・・・」との大演説である。 田圃のこちら側の住人達は、当時子供だった、私も含めて、その面白い演説に聴《き》き入った。 演説が始まると、一瞬、合唱は小さくなるが、次第にまた、大きくなる。 するとまた、お兄さんは、より大きな声で、演説を続ける。 即興《=即座に詩歌などをつくる》にしては、なかなか筋が通っているし、リズムがあり、聴かせる。
と、突然、演説が止まった。 お兄さんの隣の下宿人が、「お前、もういい加減その演説を、止めてくれないかな。我が輩の勉強が進まんではないか。」と二人でやり合っているのが聞こえてきた。 二人は、呵々大笑《かかたいしょう=カラカラと大声で笑う》して、演説は終わり、そして、また、蛙の合唱が、再開したのだった。 もう六十年も前の、故郷、京都修学院での、思い出である。
その田圃の前の、小さな畑を我が家は借りていて、今で言う家庭菜園を、やっていた。いや、一坪菜園ではなく、結構広く、五十坪はあった。畑には、ネギ、水菜、大根、里芋、トマト、キュウリ、そして、四季折々に、ダリヤや、菊、コスモスなどが咲くように、植えられていた。日曜日には、兄と私は父を手伝って、畑の手入れをしたものだった。兄、私、妹と、それぞれは、半坪ぐらいずつの場所をもらって、そこには、自分の好きな種を播《ま》いたり、苗を植えたりしたものだった。
畑のすぐ西側には、叡山電車が走っている。電車は今でもあるし走っている。 今でもそうであるが、終点は八瀬駅、そこからケーブルに乗れば、凡そ10分で、比叡山に登れる。 私が、我が家の畑に、側の小川から柄杓《ひしゃく》で「拡散注水」していたとき、ヒットラー総統配下のドイツの高官連を乗せた電車が通った。 高官は私を見つめ、私は柄杓を振り上げて挨拶した。 アッという間の出来事だったが、私の記憶は鮮明である。 当時、ドイツの高官連が、来日し、京都を訪れ、比叡山に登ったことがあった。 その日の出来事である。
私の、子供の頃の、故郷、修学院の、田圃の、思い出である。
八瀬物語--追憶:その3--
京都は戦災に遭わなかったので、少年兵として、故郷の京都に復員して帰ってきた夜、家の窓から、比叡山を仰ぎ見たとき、その裾野の、田圃の向こうの家々に、明々と、まさしく公明正大に、電気がともっているのを見て、震えるように感激した思い出がある。便数は、さすがに、少なかったが、八瀬への叡山電車も、電気をつけて走るようになっていた。薄暗かったが、修学院の駅にも、電気がついた。
その頃、一般家庭では停電は当たり前のように、一日に何回も行われた。日本国内での発電の絶対量が足らないのだから、仕方ないのだが、戦争中の暗黒よりはよいとして、別に、どこからも不平も出なかった。
当時の電気は、すべて最優先に、進駐軍《注1》に送電されていたのである。 アメリカさんの家々では、ライトが煌々《こうこう》と輝いていた。 その次には、電気は公共交通機関に配電された。従って、我々の家が停電したときでも、修学院の駅に行けば、たいてい電気は点いていた。
復員学徒の小生、その頃の試験勉強シーズンの夜に、停電するのには、ほとほと、困った。家にある数少ないロウソクを使わしてもらうか、試験を諦めるか、さもなくば、近くの駅まで、教科書とノートを持って、通ったものである。その駅の電灯も、今のようには、明るくないので、英語の辞書などは読めなかったくらい(暗い)である。 だから、一度覚えた単語は、暗闇の中でも決しても忘れまいと、必死的(?)であった。 そう言えば、あの頃、みんな必死で生きていた。すがすがしい思い出である。
その頃、大陸からも、復員してくる人、帰国してくる人が多かった。 ほとんど日本中、焼け野原の中、誠に珍しく、昔のままの、たたずまいで、京都の町は残っていた。 清楚《せいそ》で、平和な趣《おもむき》の、京都御所の雰囲気もそのままであった。 東山三十六峯の連なり、その麓《ふもと》の、寺院、お社《やしろ》、そして祇園甲部《ぎおんこうぶ=京都で最大の花街》の町並み、弥栄《やさか》会館の映画館は堂々としていた。
修学院の我々の町内にも、モダンな家族が転居してきた。 そこの奥さんは大柄で美しく、いつも活発で、近所の人達に大きな声で挨拶をするご婦人であった。 一方、そこのご主人は、やや小柄で物静かな紳士であった。 子供たちは三人いた。 いずれも元気いっぱいの、やや、やんちゃなところのある連中だった。
終戦後のある日、そこの奥さんが、新京極に出た折り、全く偶然に、大陸から引き揚げてきた昔の恋人に出会ったと言う。 奥さんが言われる所では、昔のこととて、若い頃の二人の恋愛は、親に許されず、男性は大陸に去り、奥さんの方は、親が決めた別の男性と結婚式を挙げさせられたのだ、と言うことであった。 みすぼらしく大陸から引き揚げてきた、昔の恋人ではあったが、快活な奥さんに出会って、その男性は元気百倍した。 新しい生活を立て直す意欲が出てきたのだった。 そして、必然的に、二人の間には、昔の情熱が沸き上がったのである。 情熱は常に理性を凌駕《りょうが= 他をしのぐこと》する。 まさしく、「焼きぼっくりに火がついた」のであった。
奥さんは昔の恋人の下《もと》に走った。三人の子供達は・・・母親に従った。 そして五人家族の広い家の中には、紳士風のご主人一人が残されたのである。 この事件は、もちろん、町内の話題になったことは当然だが、その奥さんの悪びれた様子のない態度に、町内の連中は「時代が変わる」とはこういう事か、と半ば憧憬《しょうけい=あこがれ》にも似た気持ちで、見つめていたのだった。
奥さんと子供三人が家を出た夜、そこのご主人は黙然と、しかし軒先に火が届くのでないかと、皆が心配するほど、大きな焔《ほのお》を挙げながら、書籍や家財を燃やし続けた。叡山電車のガラス窓にも、その炎が映っていた。そして、火が消えたとき、紳士は再び黙然と京都を去っていったのだった。
60年も昔の出来事である。
注1 進駐軍=第二次大戦後、日本に進駐した連合国軍隊。
講和条約発効後は「駐留軍」と称するようになった。
ほのぼの
投稿数: 33
中学や高校への通学には、京福電車(俗に叡山電車と呼ばれていた)を利用することが多かった。
その頃の思い出である。
男女共学、そして死
昭和23年、我々が旧制中学4年生の頃、京都市では、進駐軍の命令により、突如、実際に学生達にとっては正に「突如」、それまでの男子の中学校と高等女学校が、男女共学体制をとる事となった。 それまでは男子中学生は、硬派であれ、軟派であれ、道ですれ違う女学生達に、常に強い関心と興味と、そしてあわよくばという冒険心を持っていたものだった。 その原点には、女学生に対する憧憬《しょうけい=あこがれ》があった。 その故にこそ数々の青春の詩歌が詠まれた。 小説が書かれた。 学生達はラブレターの哀歓を体験するのであった。 かの琵琶湖周航の歌の歌詞の中に、何度「乙女御《おとめご》」という憧憬の言葉が出てくることか。
それが、幸か不幸か、いや、やはり大方の意味では幸であったのだろう、有無を言わさない進駐軍からの絶対的命令によって、強制的に、夢にまで見た共学の中の学生とされてしまったのである。 男子学生と女学生が、机を並べるごく身近な存在となったのである。
それまでお互い声をかけることすら遠慮していた学生同士が、いつでも話が出来る環境となった。 これだけでも、我々にとっては、正に天地がひっくり返る大事件だったのである。 今から思えば、あのときのあの事態は、例えば青年心理学的実験として、関係する心理科学者には、実に面白い課題であったに違いない。
男子学生の中に、純粋に恋愛するものが出始めた。 その多くは、しかし片想いであった。 或いは恋愛すると言うことに恋していたのかもしれない。 憧憬が具象《ぐしょう=具体》化されたと見ることもできるかもしれない。 しかし、当時はまだまだ、それまでの儒教《注=1》的教育概念、或いは教育勅語的躾(しつけ)が、学生達の身にしみこんでいたこともあって、今の世に見るような無軌道的行動は少なかった。
事はあくまでも純粋であった。 純粋はそれ自体、貴いのであるが、それ故に危険でもあった。 片想いの男子学生は、真面目な彼の恋が成就《じょうじゅ》できないという事実に直面したとき、彼は一人で、鉄道自殺してしまったのだった。 純粋な、真面目な、静かな学生だった。
或る男子学生はまた、多くの女子学生にアッピールするべく、いわゆる「目立ちたがりや」、自己顕示《じこけんじ=自分をはっきり示す》的になった。 それは多分、決して意識的ではなく、自然とでそうなったのであろうと思う。 彼は我々男子学生でも、惚《ほ》れこむ様な剛毅《ごうき》、快活、且つ行動的な人物だった。 学業成績も優秀で、常に好奇心の強い積極的な男性であった。 彼はある時には、登校に際して、学校の正門前まで、タクシーで乗り付けたりした。 その時、新制高校生でありながら、高下駄にマントのスタイルであった。 当時は未だ、タクシーの数も少なく、それらはいわゆるブルジョア階級の乗り物であった頃である。 確かに彼のこの行動は学生達にアッピールしたことは事実である。 このような子供じみた無邪気さは、或る意味で明るい話題ではあった。 しかしアッピールが遂に不幸を導くこととなった。 彼は、理科事典で調べた青酸カリの、人間に対する致死量を実験的に確認するとして、自ら、その辞典に記載された致死量の半分の量を、これだったら致死量ではないはずだと、言いながら、服用したのだった。
彼は苦しみ悶《もだ》えて、そして死んだ。救急車というものも未だ無い頃だった。 これも事故死と言うのであろうか。 それにしても、実に勿体ない彼の生命だった。
今一人の男子学生は、私のピンポンの強敵手であった。 しかし彼はいわゆる年頃になっても背が伸びなかった。 周りの学生達が、大人びた姿格好、体格になり、女子学生は眩《まばゆ》いばかりの姿に、成長して行くのに、己は何時までたっても子供子供した体格である。 精神的には皆と同様に成長しており、成績も優秀であった。 男子学生だけの環境にあるのであったら、例えそれで、からかわれることがあったとしても、そんなことは、あまり気にはしなくて済んだであろうが、女子学生から「可愛いい」なんて言われたら、男としては極めてつらいものだ。 彼は悩んだ末、ある日、遂に、自らの頸動脈《けいどうみゃく》を切って、出血多量で死んでしまった。
これら3人の男子学生は、いずれも、有能有才な青年達であったし、もし今まで生きていてくれたのであれば、今の世にあって、それぞれに、大成したであろう人物である。 誠に惜しい、彼らの死であった。 男女共学の始まりという、学制維新に於ける過渡的な時期での犠牲者である。 合掌。
それにも拘《かか》わらず、女子学生からは、遂にただの一人の犠牲者、自殺者も出なかった。 そして、私はこの事実に気づいたとき、まこと「女は強い」と言うことを実感し、恐怖したのだった。
注1 儒教=仁を根本とする政治・道徳を説いた孔子を祖とする中国の教説
その頃の思い出である。
男女共学、そして死
昭和23年、我々が旧制中学4年生の頃、京都市では、進駐軍の命令により、突如、実際に学生達にとっては正に「突如」、それまでの男子の中学校と高等女学校が、男女共学体制をとる事となった。 それまでは男子中学生は、硬派であれ、軟派であれ、道ですれ違う女学生達に、常に強い関心と興味と、そしてあわよくばという冒険心を持っていたものだった。 その原点には、女学生に対する憧憬《しょうけい=あこがれ》があった。 その故にこそ数々の青春の詩歌が詠まれた。 小説が書かれた。 学生達はラブレターの哀歓を体験するのであった。 かの琵琶湖周航の歌の歌詞の中に、何度「乙女御《おとめご》」という憧憬の言葉が出てくることか。
それが、幸か不幸か、いや、やはり大方の意味では幸であったのだろう、有無を言わさない進駐軍からの絶対的命令によって、強制的に、夢にまで見た共学の中の学生とされてしまったのである。 男子学生と女学生が、机を並べるごく身近な存在となったのである。
それまでお互い声をかけることすら遠慮していた学生同士が、いつでも話が出来る環境となった。 これだけでも、我々にとっては、正に天地がひっくり返る大事件だったのである。 今から思えば、あのときのあの事態は、例えば青年心理学的実験として、関係する心理科学者には、実に面白い課題であったに違いない。
男子学生の中に、純粋に恋愛するものが出始めた。 その多くは、しかし片想いであった。 或いは恋愛すると言うことに恋していたのかもしれない。 憧憬が具象《ぐしょう=具体》化されたと見ることもできるかもしれない。 しかし、当時はまだまだ、それまでの儒教《注=1》的教育概念、或いは教育勅語的躾(しつけ)が、学生達の身にしみこんでいたこともあって、今の世に見るような無軌道的行動は少なかった。
事はあくまでも純粋であった。 純粋はそれ自体、貴いのであるが、それ故に危険でもあった。 片想いの男子学生は、真面目な彼の恋が成就《じょうじゅ》できないという事実に直面したとき、彼は一人で、鉄道自殺してしまったのだった。 純粋な、真面目な、静かな学生だった。
或る男子学生はまた、多くの女子学生にアッピールするべく、いわゆる「目立ちたがりや」、自己顕示《じこけんじ=自分をはっきり示す》的になった。 それは多分、決して意識的ではなく、自然とでそうなったのであろうと思う。 彼は我々男子学生でも、惚《ほ》れこむ様な剛毅《ごうき》、快活、且つ行動的な人物だった。 学業成績も優秀で、常に好奇心の強い積極的な男性であった。 彼はある時には、登校に際して、学校の正門前まで、タクシーで乗り付けたりした。 その時、新制高校生でありながら、高下駄にマントのスタイルであった。 当時は未だ、タクシーの数も少なく、それらはいわゆるブルジョア階級の乗り物であった頃である。 確かに彼のこの行動は学生達にアッピールしたことは事実である。 このような子供じみた無邪気さは、或る意味で明るい話題ではあった。 しかしアッピールが遂に不幸を導くこととなった。 彼は、理科事典で調べた青酸カリの、人間に対する致死量を実験的に確認するとして、自ら、その辞典に記載された致死量の半分の量を、これだったら致死量ではないはずだと、言いながら、服用したのだった。
彼は苦しみ悶《もだ》えて、そして死んだ。救急車というものも未だ無い頃だった。 これも事故死と言うのであろうか。 それにしても、実に勿体ない彼の生命だった。
今一人の男子学生は、私のピンポンの強敵手であった。 しかし彼はいわゆる年頃になっても背が伸びなかった。 周りの学生達が、大人びた姿格好、体格になり、女子学生は眩《まばゆ》いばかりの姿に、成長して行くのに、己は何時までたっても子供子供した体格である。 精神的には皆と同様に成長しており、成績も優秀であった。 男子学生だけの環境にあるのであったら、例えそれで、からかわれることがあったとしても、そんなことは、あまり気にはしなくて済んだであろうが、女子学生から「可愛いい」なんて言われたら、男としては極めてつらいものだ。 彼は悩んだ末、ある日、遂に、自らの頸動脈《けいどうみゃく》を切って、出血多量で死んでしまった。
これら3人の男子学生は、いずれも、有能有才な青年達であったし、もし今まで生きていてくれたのであれば、今の世にあって、それぞれに、大成したであろう人物である。 誠に惜しい、彼らの死であった。 男女共学の始まりという、学制維新に於ける過渡的な時期での犠牲者である。 合掌。
それにも拘《かか》わらず、女子学生からは、遂にただの一人の犠牲者、自殺者も出なかった。 そして、私はこの事実に気づいたとき、まこと「女は強い」と言うことを実感し、恐怖したのだった。
注1 儒教=仁を根本とする政治・道徳を説いた孔子を祖とする中国の教説