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「民族大移動・大連引揚者の記憶」 (引力)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2007/7/27 8:07
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 はじめに  メロウ伝承館スタッフより

 インターネットが一般家庭にまで普及したのは20世紀末で、それ以前は、パソコン通信による交流が行われており、このメロウ倶楽部の出身母体もニフティーサーブの運営していたパソコン通信「ニフティーサーブ」の高齢者向けフォーラムの「メロウフォーラム」です。
 この投稿は、その当時、パソコン通信上に掲載されたものの転載です。

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 やさしい父が豹変《ひょうへん=人の態度ががらりと変わる》した95/05/19 23:30

  時 : 昭和20年5月
 場 所 :関東州 大連《中国》

 夕刻、玄関で呼鈴が鳴る。私と2才の弟が争って父を出迎え、抱っこと肩車を順番にしてもらう。弟は玄関近くで私に追い抜かれた時なぞ、泣き叫び自分が先だと訴える。そんな時、父は必ず弟を先に抱きあげた。そんな行事が我が家でしばらく続いた時があった。50年経った今の日本でもよくある光景に違いない。
 だが何時まで待っても父が帰って来ない日が増えだした。母に聞くと「大事な用事」の一言。時折、朝など顔を合わせても今までならニコッと笑顔をみせてくれた父が、難しい表情のまま相手にして呉れない。私も弟もいつのまにか行事を忘れてしまった。

 ある朝 おそらく休日の朝に違いない。
 父は家族全員を集めた。母、兄、弟、私の4人が父の前で正座させられた。
 父は厳しい顔のまま、これから毎朝 神棚に向かい日本が勝ちますようにと祈れと言った。私と弟は「日本が勝ちますように」と声を出して練習させられた。それから父は、当時面倒をみていた母の養父母を呼びつけて質問した。
 「毎朝 神棚に手をあわせて何を願っているのか?」
 母の養父は無言のまま。かわって養母がてれ笑いをしながら答える。
 「どうか長生きできますように ですけどねえ」
 父は命令するような口調で 日本が戦争に勝つよう祈らねば駄目だと言った。

 30年後 私は二人の幼い娘の父になっていた。
 機械営業一筋だった私は上司の一言で一年間 スタッフをした。
 「弓は張り詰めてばかりだと プツリと切れる。緩《ゆる》めることも必要」それまで帰宅の時間はいつも夜10時を過ぎていたのに、6時には帰宅出来る。
 娘二人が飛び出してきて私を迎える。
 順番に抱っこをしてやりながら、私は12年前死んだ父を思い出していた

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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/7/28 8:03
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
  体験で知った世相(大連《中国の港湾都市》と新京《満州の首都・現在の長春》にて)95/06/11 23:10

 (1)
 今春の母の葬儀の時、その場に今や私しか面識のある人はいないと思われる一人の老婦人がいた。同じ外地引揚げ者で母とは一緒に温泉旅行に行ったりした仲だ。最初に彼女を見たのは外地の自宅で、父母に涙を流して何度も礼を言う姿だった。
 引揚げ後我が家は私の中学時代まで借間で一部屋しか無かったから訪ねて来た彼女と父母との話は全て聞いた。それで記憶が補強された訳である。
 彼女が若い教員で新京からの旅の列車の中。刑事が乗客の一人一人を調べに廻って来たそうだ。文学少女だった彼女は数冊の本を旅行に携帯していた。持物を調べた刑事は彼女を次の駅で降ろし連行した。「アカ《注1》」と思われたらしい。
 知り合いを通じて助けを求められた父の動きで釈放されたそうだ。
 彼女との付き合いがここから始まった。現在の警察と違い、主義者や戦争に断固として反対する人達を拷問《ごうもん》し殺しながら、仮谷さん《注2》を拉致し死なせた犯人のように「お国の為にと思い懸命になって取調べてたら死んじゃった」と言い、殺したとは言わない時代だ。彼女の留置場にいた時の心境は松本サリン事件で最初に疑われた河野さん《注3》のような心境だったのだろう。だからこそ父は勿論母の葬儀に来たのだ。

 (2)
 ある日玄関に料理店の満人が来てなにやら中国語で喋《しゃべ》ると、持って来た箱から中華料理が一杯盛られた皿を次々に取り出し始めた。私は奥に向い母を大声で呼んだ。休日だったのだろう。父も出て来てにこにこしながら、礼を言ってた。
 その時初めて当地の本物のギョーザを食べた記憶が鮮やかに残っている。
 ある時、私は近所の中華料理屋(今の日本で言えばの呼称だが)の子達と遊んでた。
 満人の子と遊んじゃいけないとなってたのに、どういう訳か珍しく。
 そのうち日本人のかなり年長の大きな子が来た。なりゆきはさっぱり知らないが日本人の子が満人の子を殴りだした。体も年も差があるから一方的に満人の子は殴られていた。その内、満人の子の父親が出てきて止め、日本人の子に中国語で強く抗議らしい事を言った。すると通り掛かりの日本人が駆けつけ、突き飛ばしたうえに何処かへ連れて行った。その夜、満人の子と母親が日本語の喋れる人を連れて家にやって来て、私の父に泣きながらしきりになにやら訴えていた。
 私は柱の蔭からその様子を恐々《こわごわ》見ていた。私の父が動いたせいか満人の子の父は殴られ顔を腫《は》らしてたが無事帰って来る事ができ、そのお礼が中華料理だったのだ。

 人間は誰しも自分が可愛い。上記の二話も父が人を助け感謝された話だ。
 侵略と弾圧と殺人を行った事実や加害の思い出をわざわざ書きたくないだろう。
 血ぬられた過去を持つ占領の地「大連」を私は「ふるさと」と呼べない。
 10年程前まで「君のふるさとは?」に対し「私にふるさとはない」と答えてた。
 八才年上の上司から「ヤクザ屋さんか木枯らし紋次郎《注4》を気取ってる積もりか! 「キザな奴は客先から嫌われるぞ!」と言われた。その時の私は腹の中で「精神年令はお前より上なんだぞ! 分かんねえだろうなぁ てめえには」と答えていた。
 今は素直に「生まれは大連です」と答える。しかし「ふるさと」とは言わない。
 国会決議の「侵略」と「反省」の如く言葉にまだこだわっている。

 戦後世代の人達に戦争責任はないのだろうか?
 国内にいる時は「ない」で済むでしょう。一歩外に出た時はどうでしょう。
 民族の血を相続した日本人として「ない」では済まないと思います。
 英語を達者に喋りインターネットを操って見せても、過去の歴史に対する認識がなければ外国人と深い交流に欠ける場合が予想されます。
 「50年前に私は生まれてなかった」では済まされないのです。

注1 アカ=共産党の旗の色が赤色であるところから共産主義者の俗称

注2 仮谷さん=目黒公証役場事務長の仮谷清志さん、オウム真理教に拉致され、教団施設で死亡させられた。

注3 河野さん=1994年に長野県松本市で発生した オウム真理教による「松本サリン事件」で容疑者扱いされた、松本サリン事件の被害者。

注4 木枯らし紋次郎=作家・笹沢左保の作品、テレビ放映された人気番組の主人公

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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/7/29 8:07
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 語る人 語らぬ人 還《かえ》らぬ人95/06/18 06:39

 ここのタイトルは「私の体験・思い出」。即ち50年前の自分史を中心にした「史実」を語り合い考え合い、それを次世代の人達に語り継ごうとしている。
 記憶違いや誤解もあるし、戦争が軸になるからその人の主義主観が色濃く反映する。
 しかし生きた人間の体験史実であり、図書館や本屋の大量の昭和史より貴重だ。

 昭和50年代に多くの戦争体験記が出版されたが、一様に序文で「今聞いておかないと原体験者がいなくなる」「語り継げなくなる」と叫んでいた。
 ここでの「原体験者」とは青春から壮年までを戦争にどっぷりと浸《つ》かった世代であり武器、爆弾で人を沢山殺し、殺された 又はそれらを計画し命令した世代の人達を意味している。多くが還らぬ人になり語ってくれない。生き残った人は幸運としか言い様  生残った人達は語る人と語らぬ人にわかれた。
 いかに我が部隊が優秀で勇敢に戦ったかを語る人。地獄を書き声高に為政者《=政治を行う人》を糾弾《=罪状や責任を問いただす》し語る人。生体解剖の状況を冷静な筆で、ただ状況と事実のみを語る人。
 「思い出したくない。話したくない」と語らぬ人も複雑だ。
 「苦労なら いくらでも話すけど 地獄は語れない」と語らぬ人。「負け戦を話せるか」と語らぬ人。これを若い人向けに言えば「試合に負けたんですから、私のホームランの事を聞かれても、あまり話したくありません」と言うプロ野球選手に似てる。
 また 周囲や世間の事情を考えて意図的に語らぬ人もいた。残酷な加害である。

 それから十数年が経過した平成七年の今日。
 メロウには「敵を殲滅《せんめつ=残らず滅ぼす》した」「敵国人に加害を加えた」経験や「敵の重要施設に大損害を与えた」という経験のあるメンバーはいなくても不思議ではない。

 私の父母はどれに属するかを簡単に述べよう。終戦時 父 40才 母 36才。

 官吏で情報関係だった父は我々家族よりだいぶ遅れて運よく帰国した。
 中学時代に私は父の当時の体験を聞こうとしたが「あの当時の事を息子のお前には話せないよ」と言った父の顔は引きつっていた。語らぬ人だった。
 隣家の主人が遊びに来て、資源さえあれば日本は負けなかったとか、出陣一歩前で終戦になり残念だったとか、なつかしい思い出だ などと話して帰った。父は私に「実際に戦わなかった奴程、後で勇ましいことを言うもんだ。命のやり取りをした挙げ句の負けいくさを なつかしい などと言いやがって。分かるか お前」と言った。
 私にとっての新京と大連は父の職業生命にピリオドをうった街。その地で患った病の為、早死にした父の無念が伝わる街でもある。

 母は最初は語る人であったが、のちには語らぬ人になった。
 帰国し身をよせた親戚のいる片田舎では「還らぬ人」ばかりで復員兵の話があまり聞けなかったせいか、母の苦労話は女性達を必ず泣かせた。次第に泣かせ方が上手になり、私は また母の十八番が始まったと横を向いた事を憶えている。
 しばらくして移転した所は引揚げで有名な舞鶴《=京都府の港湾都市、太平洋戦争後大陸からの引き揚げの拠点となった》である。近辺には集団自決から奇跡の帰国をした人達。神戸、大阪の大空襲による炎熱地獄からの生残り戦災家族などが一杯いた。つまり母の話で誰も泣かないのだ。そのうち悲しい身の上話をして同情を買い粗悪品を売りつける女性が付近一帯を荒らし廻り、母も見事にひっかかった。
 そのころから母は語らぬ人になったように思う。

 昭和二桁生まれの私は辛うじて体験が残る年令で、父母達の世代がいなくなった今は、彼らの「語り」を「伝える人」になるべきなのかも知れない。
 しかし 私の父母は「語らぬ人」だった。

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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/7/30 7:33
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 悠久の大儀と忠魂碑《=戦死者を記念するために建てた碑》 95/07/01 13:30

 昭和20年の新京(現在は長春)の官舎で、ある日 私は兄のマンガ本を見てた。
 ある箇所で 難しい漢字の熟語が何度も出てきて、どうやら大切な事らしいのだがさっぱり解らない。幸いに振り仮名がついていて「ユウキュウ ノ タイギ」とある。
 父に聞いた答の要旨を会話文にすると「人は誰でもお爺さんになっていつか死ぬんだけど、名誉の戦死をすると国中の人から誉められる。お前の学校の先生が名誉の戦死をしたら学校中みんな 校長先生まで誉めるんだぞ。そして忠魂碑にもまつってもらえるんだぞ。爆弾三勇士みたいに偉い人になれるんだぞ。そうゆうのを ユウキュウ ノ タイギ ニ イキル って いうんだ。」
 私は「あの大きな忠魂碑にまつってもらえるなんて、すごいなぁ」とマンガの主人公になったようなハイな気分(高揚した気持ちを表す少し古い若者言葉)になった。
 吉本 隆明《=共同幻想論の著者》を読む 新入会の RISKYさんは わかるかな?

 帰国して身を寄せた親戚の片田舎の、いつのまにか 国民学校から小学校になってた校庭で、ある日 大人達が大勢集まってた。子供達も何事かと集まった。
 どうやら「進駐軍か 国の命令か どっちでも よいけど ようするに忠魂碑(忠霊塔だったかも知れない)を倒すらしいぞ!」と行事の内容が知れわたった。
 上級生を中心に多くの子供達は「なぁんだ」と どっかへ行っちゃった。
 わたしは「あんな立派な大きなのが倒れるんだろうか? 」という興味もあってその場に残った少数派の子供だった。
 塔の上へ西部劇の投げ縄よろしく輪を放り投げると、キリンの首にロープをかけた様になった。それを大人達が綱引きの要領で引っ張ると、最初の ひと引きで あっけなく塔は倒れた。 わたしは「なぁ~んだ」と拍子抜けした。
 台座はしばらく残ってたが、その後どうなったかを私は知らない。

 昭和二桁《ふたけた》前半生まれの私でも、この程度の記憶ぐらいは 残ってますぞ!
 どうだ! 文句アッカ! イエ-イ !

 昭和20年の事を「古い事だから よく覚えていない」という年長者達を、信用しない偏見《=かたよった見方》が いつのまにか身についた私は、会社で上司から可愛がられた試しがない。
 それで出世しなかったのだろうか? 出世しなかったのも戦争のせいだと恨んで私は「反戦主義者」で 「浅はかな平和論者」になったのだろうか?
 これこれ みなさん 人の事だと思って 笑い事ではありませんぞ!


 報暴勿以暴 95/07/08 22:45

 終戦直前に「直に帰るから軽装で」を信じ、新京《満州国があったときの首都長春の呼称》から避難した私達は平壌《ピョンヤン=北朝鮮の首都》で足留めをくらってしまった。それが苦労の始まりとは大人達も まだ気づいてない。
 仮住まいの家の側で遊んでいたら母が出てきて「戦争に負けたんだって」という。
 8月15日は ここ北鮮も日本も満州も中国も 殆どの地域が晴れた日だった。

 束《つか》の間の平穏な日々が続く。すぐ近くの小学校の校庭に不安にかられた日本人達が寄り集まり子供も寄った。朝鮮の子らが音楽の授業で 蛍の光 を朝鮮語で何度も練習してたのを憶えている。窓の雪~と 高音にあがるところをたしか サンザンソーと歌ってた。老人と婦女子ばかりのはずが、ズボンだけ国防色の屈強《=頑丈な》の男達も いつの間にか混じり始めた。目的を失い無統制となった男達が集うとすぐ喧嘩となる。
 取っ組み合いの後の ののしり合いで 流行したのが「お前のような奴がいたから日本は負けたんだ」である。この言葉は効果抜群で先に言った者が勝ちだった。
 男が女に「busu」と言い放ち、勝負あったと背を向けた時のように威力があり我々 子供達の喧嘩にも たちまち普及し流行した。

 我々が以前から平壌に居たのでなく、新京から何ひとつ持たず来た日本人だった事が幸いしたか、襲撃や略奪は経験せずに済んだ。逆に平壌の朝鮮人にかなり助けられたようだ。それが意外だったから 感激した大人達の会話の中に出てくる。
 その 助けてくれた原因を分析した大人達の大勢を占めた意見は何だったか?
 役に立つ施設を作ってあげたり、進んだ技術を教えてやったし、「情けをかけ、善い事をしてあげた日本人」に感謝して助けて呉れるのだろう。「やっぱり人間は善い事をしておく事が大切だ」というのが、皆を納得させた意見だった。
 朝鮮人の徳や自制心を誉める人は居なかったのか? 又は愛国の子の私がすでに取捨選択して記憶し、他の意見を聞く耳を持たず、記憶してないのかだ?

 ガキだった私を含めて そこにいた日本人達は 今から思えば「塀の中の懲りない面々」だった。だから「お前のような奴が、、武器が優秀なら、日本は戦争に負けなかったのに」という反省になり、「善い事をしてあげた日本人」という総括になる。
 その時点で思考がストップしたままというか、信条堅固《=かたく信じている》というか そのまま50年が経過した人も多い。タカ派といわれる人達に共通の思考の原点でもある。

 蒋介石《しょうかいせき=注1》は終戦の大詔《たいしょう=天皇の詔(ことば)》後、数時間した放送で 日本民衆は敵ではない。報復するな!
 報暴勿以暴(暴に報ゆるに暴を以てする勿れ)と言ったそうだ。権威ある文献を引用するまでもない事とされている。中国共産党も 日本人民と日本軍国政府とは区別するとしている。どちらも民衆、人民を責めない態度だ。但し 国は別だ。
 「過去の事を忘れてお互い仲良くしようよ」という言葉は 加害側から切り出すのはおかしいと思う。友人関係で「自分の方が悪かったかな」と思う時と同じだ。
 寛大に相手の非道を許そうとしてるのに、「この前 謝っただろ!」「ちょっと位の過ちをしたからといって、何時までもギャーギャー言うな」「元々 俺は悪い事はしてない」「お前を苛めたのは俺だけじゃないぞ」と言えば相手がいらだち、ムッとするのは友人関係でも、近所付き合いでも同じだ。元々 好みでないタイプなら会釈だけして黙っとりゃ良いのに、不用意な発言をしてもらったら家族が迷惑する。
 今の中国、韓国、比国が 苛立ち怒る訳だ。何しろ伊豆大島を一年間占領した程度の「ちょっと ぐらいの行き過ぎ 過ち」ではないからだ。

注1 蒋介石=軍人・政治家。中華民国((現在は台湾島と周辺の島嶼群、南沙諸島の一部 などを領有している、東アジアの太平洋沿岸に位置する共和制国家。)の国府主席 中華民国総統 1975年没

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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/7/31 8:03
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 平壌経由帰国の体験 一例 95/07/08 22:47

 避難の案内役である男子職員が たしか5-6名の他は 老人と女子供ばかり最終的に1200名程が、旧日本人中学校の二階観客席付きの体育館のような所に収容された。襲撃や略奪がない代わり、病気と冬将軍《注1》により我々はタップリと復讐された。
 持ち金が底をつき食事は悪くなり、遂には高梁《コーリャン=中国北部で栽培されるモロコシの一種》のスープ一杯がその日の食事となる。
 発疹チフス《=シラミが媒介する感染症》をはじめ疫病が流行する。零下20度の厳寒に耐える暖は乏しい。
 皆が暇があれば虱《しらみ》をつぶしていた。栄養失調の上に血まで吸われたらたまらぬと。
 多い日は数拾人が死ぬ。毛布一枚が仕切りの隣人に 我が子を頼み 死んでいく母を目の前にして 六年生のガキ大将が泣き叫ぶ。 地獄絵図の毎日をなんとか生きのびて一冬を越した。厳寒と疫病の嵐が過ぎると大人達は争って職を求め、雇い主が同情し、くれる食べ物で飢えをしのぐ。少しずつ明るさが見えてきた。
 塀の中の広場で遊びだした私が大人から聞いた話では、1200名が700名死んで500名になったとの事だった。我が家族も 母の養父母と弟が死んで半減した。
 一人ぼっちになった六年生のガキ大将は石のように喋《しゃべ》らず片隅から 我々が遊ぶのを見ていた。新しいガキ大将がたまりかねて皆を連れて彼の側に行き、一緒に遊ぼうと誘った。次第に彼も明るくなり大人達がその変貌《へんぼう=姿や様子などがすっかり変わること》を話題にするようになる。

 平壌からの脱出はたしか六月頃だった。大人達全員が貯めた金を 再び出し合って道々で交渉しながら食を得、歩き続け、夜は河原や広場でところ構わず寝ながら、一ヶ月かかって38度線《注2》にたどり着いた。釜山《プサン》経由で佐世保着の帰国であった。

 北満にいた満蒙開拓団《まんもうかいたくだん=注3》や少年義勇軍《注4》に比べれば、青島や新京などの大陸主要都市にいた日本人は格段に恵まれていた。ドイツやロシアが残したヨーロッパ風の良い住まいを利用し、内地に比べ二倍の給与報酬を得ていた人達も多い。日本人ばかりが集まった地区に住み、終戦間際まで物資が豊富で、軍需工場近く以外は空襲の被害も殆《ほとん》どなかった。貧乏で教養のない日本人は満人に対して しめし がつかぬ。
 満人に「なぁ~んだ」と思われちゃ日本人の占領支配にも影響するから、そんな日本人は内地に送り帰されるという話もあり、彼らのエリート意識をくすぐった。だから彼らの話は古き良き時代のなつかしい思い出と終戦時の苦労話が交互する。
それは東大生の同窓会での話のように どこか誇らしげだ。

民族大移動を二度体験した人達 95/07/14 11:49

 外地帰国組である私の関心事から 数字資料をひとつ。
 終戦時に外地にいた人達の統計は どの本も「正確には判らないが」と断っている。
 それを前提にして4-5冊の書物から中央値、概数を 取り出すと下記になる。

(単位は万人) 軍 人 民間人 合 計
朝鮮と満州、関東州、樺太 110 190 300
中国(満、関州を除く) 115 50 165
南方(台湾、フィリピン タイ ビルマ 125 60 185
マレー 仏印 蘭印 他諸島)
合 計 350万人 300万人 650万人
 
 荒っぽい地域三分類を最初にお詫びするとして、650万を超える日本人が徴兵や命令、新天地を夢見ての志願、嫌々志願など理由は様々だが、国策に呼応して海外へ渡り、又帰って来た。 民族大移動と言える数であり、二度大移動した人が多い。

 終戦時700万の軍人とされてるから、その50%に相当する350万の軍人が海外にいたという事実は戦勝国に多い祖国防衛戦争ではなかった事を物語る。
 
 その又 三分のニの225万、台湾を加えると70%が朝鮮と中国に終戦時にいた事は本来の「主戦場」が中国であり、ノモンハン事件以来 トンさんが紹介された関特演に連なる対ソ連を睨んだ満州であった。西欧人との戦争は昭和16年から4年間、ソ連とは7日間、中国とは右門さんが生れた年の満州事変以来15年。最近は15年戦争とか日中戦争と言い、太平洋戦争と言わずアジア・太平洋戦争と言う。
 朝鮮や満州への進出まで遡ると50年になる。「歴史とは戦争史だ」は誇張でない。

 650万人の帰国は日本が自分でやるのが当然だ。無難な言い方をする人は 帰国は「困難を極めた」と表現する。沈められて船舶もなく、油もなく、船を操る人達の多くが戦死していない。  
 黒字大国の今と違って金もない。国内は飢えている。
連合国も お国も「軍人を最優先で帰国させるべきだ。何故なら国家が命令して行かせた人達であり、命を的にして戦った最大の犠牲者だから」と配慮し、口には出さないが民間人は志願組、金儲け組も混じっていると言わぬばかりに聞こえる。
 それに憤慨した人達が 俺達も連行同様だ、嫌々志願だ、志願でも お国の為の貢献は同じだと どこかの会議室並みの揉めごともあったが「 苦労した日本人同士じゃないか 喧嘩するのは よそう」と帰国の順番について皆が言いたい事を我慢した。

 終戦時生残った350万の軍人の内、85万人がソ連の国際法違反でシベリヤやモンゴル、カザフスタンなどに抑留され約7万人が亡くなり、帰国はS21年からS25年迄かかり、長期受刑者はS31年の日ソ共同宣言まで帰国出来なかった。

 満州に居た者として、未だ語る人が現れないので若輩者で僭越《せんえつ》だが一言紹介 民間人300万人の内、少年義勇軍を含む満州開拓団は約27万人だった。
 その内 殺されたり、集団自決、病死、不明者が約10万名とされ、死傷率37%軍隊なら全滅に近い。せめて異国で生きていて呉れ と中国人に預けたり売ったりした子供。親子供を助ける為に満州人と結婚した女性など中国残留孤児問題は若い人でも知っている。その人達にとっては8月15日は戦争の始まりだった。

注1 冬将軍= モスクワを攻めたナポレオンが厳寒に勝てず敗走したことから
寒気の厳しさを擬人化していう語。

注2 38度線=韓国と北朝鮮の軍事境界線である。北緯38度付近に位置することからこう呼ばれている。また韓国と北朝鮮の事実上の国境でもある

注3 満蒙開拓団=国策によって推進された、中国大陸の旧満州、内蒙古、華北に入植した日本人の移民。

注4 少年義勇軍=戦局の悪化による兵力動員で1942年以降は成人男子の入植が困難となり、15歳?18歳の少年男子で組織された

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編集者 (代理投稿)

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