捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部
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- 捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・41 (編集者, 2008/11/4 8:36)
- 捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・42 (編集者, 2008/11/5 7:55)
- 捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・43 (編集者, 2008/11/14 8:15)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
恩人を捜すアメリカ軍中尉との再会に涙して・2
私は上京の翌日、七月二十七日にブロードウォーターさんとホテル・オークラで再会した。
私の到着を待ちかまえていた。特別に二人だけ会ってゆっくり話せるようにと、別室まで借りて待っていてくれた。TBSテレビやサンケイ新聞のはからいで、テレビカメラや報道関係者も来ていたのには驚いた。
どちらからともなく、ことばの前に手を差し出した。握手した。お互いにじ一つと見つめ合い、交わした握手に力が入ったが、彼に捕虜だったあのころの若々しい面影はみられない。もちろん、私も当時二十二、三歳、丸坊頭に戦闘帽、国民服の若者姿だったのが、いまや六十二歳。禿《は》げた白髪まじりの年輩になっている。お互い、小首をかしげ、見合わす顔には微笑みをたたえながらも、本人なのか、どうか確かめ合う風に見えた。二人の表情には走り寄って飛びつき、抱き合いたい衝動さえ感じられた。やっと三十七年ぶりに〝旧交″が蘇《よみがえ》ったのだから。嬉しかった。
「コバヤシさん、本当に久しぶりですね。元気で何よりです」
「この日を長い間、待って八方、手を尽くしていたんです。こんな形で会えるのが夢のようです。本当に嬉しい。ブロードウオーターさんもお元気で何よりです」
お互い、これだけいうのがやっとだった。昂奮《こうふん》がかえって口を閉ざしたのだろう。彼は、終戦後、同じ捕虜仲間だったオエル・ジョンソン中尉(OEL・J0HNSON)の紹介で、世界的に有名なコカ・コーラ(COCA・COIA)会社に就職した。世界各地の支店に勤務、上級副社長にまでなったのを最後にいまは引退、ジョージア州日米協会の専務理事に就任して日本とアメリカの文化、経済交流と協力に活躍。同時にアトランタ市を中心にしたジョージア州に住む日系人や日本人の生活向上と快適な暮らしのために奔走している。彼の落ち着いた口調には貫禄が感じられ、戦後に歩んだ経歴を象徴するようだった。均整のとれた知的な紳士からは、収容所当時の面影は想像できないが、親しみのある顔形、温和な話しぶりはそのままだ。恐らく彼も私の変貌《へんぼう》ぶりにびっくりしたに違いない。
とにかく、こんな出会いから始まって、懐かしい思い出に花を咲かせた。そして「クラニシ中尉にぜひ会いたかった」と語気を強めた。フィリピンで捕虜となり、バターン死の行進で生き残り、乏しい食糧のなか、苦難の時を生き抜いて日本へ移送された彼。多奈川の収容所では、ある意味ではホッとしたともいう。しかし敵方の中での生活に緊張と疲労は増すばかりだった。そんな空気の中での倉西中尉 (多奈川分所長) との出会いは、彼に生きることの大切さを、しみじみと教えてくれた貴重なチャンスとなった。〝畏敬《いけい=おそれ敬う》すべき人生の師″との出会いだった。
「倉西さんは十六年前に心筋コウソクで他界されました。残念です。あなたとの再会を期待しておられたことでしょう」私は勇気を出してこう伝えた。「本当は倉西未亡人もいっしょにこの席でお会いする積もりでしたが、体が弱く老齢で不可能でした。未亡人もあなたの誠意に心から感謝され、よろしくとの伝言を託されました」とつづけた。
「本当に残念です。クラニシ中尉は、捕虜に対して憐《あわ》れみと暖かい同情、理解をもって接してくれました。本当に人間味豊かな軍人で、まさに〝仁の人〃、私の人生の師です。自分で英語をしゃべり、捕虜の希望を受け入れるためにベストをつくしてくれました。いつも故郷の肉身を思って健康を保ち、将来、無事に帰国するために頑張り通すよう励ましてくれました。忘れ得ない恩人です」ブロードウオーターさんのしんみりした口調は、倉西さんへの思慕と他界されたことへの無念さがにじみ出ていた。そして遺族の未亡人と娘さんを気遣っていろいろと私に尋ねた。
ひとしきり話したあと、もっとゆっくり話そうと、同じホテルの彼の泊っている部屋へ案内してくれた。私の身の上のことも心配して尋ねてくれた。「小さな輸出専門の商社を経営しているんです」と私がいうと「総合商社?」と日本語でオーム返しに彼がいうので大笑いとなった。
仕事の関係で日本の駐在も長かったというだけに、日本語をよく理解していたのには驚いた。
宗教や禅の心、茶華道、邦楽など、日本伝統の文化にも詳しく、日米文化交流の計画を披露して、手伝わないかと積極的にすすめてくれたことを思い出す。倉西所長を日本語で「仁の人」と呼んだのには驚かされた。
私は、未亡人から託された倉西中尉の当時の軍服姿で撮った写真を手渡した。「奥さまも、あなたがクラニシさんを懸命に捜していることを知ってとても感謝していました。夫に代って心からお礼をいっている旨、あなたに伝えてほしいとのメッセージを、いま伝言できたことは、私にとっても心の重荷がとれた感じです。もしクラニシさんがお元気ならいっしょにここへ来れたのですが‥・残念です」私のことばは、しめりがちだった。
「これです。いつも厳しい表情の中に、人間味あふれる態度、ことばで私たちに接してくれた。本当に悲しいですね。生きているうちに会いたかった」彼は、倉西中尉の写真をじ一つと、懐しそうに見つめていた。「クラニシさんは、文学や哲学、歴史、宗教などの英訳をたくさん差し入れて、自由に読ませてくれました。少しでもわれわれ捕虜生活の環境をよくしようと、努力されました。日本軍将校として発言に制約があったと思いますが、あの環境の中で、敵兵に見せた寛容と恩情は忘れることができません」当時をふり返る彼は、一語一語をかみしめるように語り、〝倉西中尉″を偲《しの》んでいた。
私は上京の翌日、七月二十七日にブロードウォーターさんとホテル・オークラで再会した。
私の到着を待ちかまえていた。特別に二人だけ会ってゆっくり話せるようにと、別室まで借りて待っていてくれた。TBSテレビやサンケイ新聞のはからいで、テレビカメラや報道関係者も来ていたのには驚いた。
どちらからともなく、ことばの前に手を差し出した。握手した。お互いにじ一つと見つめ合い、交わした握手に力が入ったが、彼に捕虜だったあのころの若々しい面影はみられない。もちろん、私も当時二十二、三歳、丸坊頭に戦闘帽、国民服の若者姿だったのが、いまや六十二歳。禿《は》げた白髪まじりの年輩になっている。お互い、小首をかしげ、見合わす顔には微笑みをたたえながらも、本人なのか、どうか確かめ合う風に見えた。二人の表情には走り寄って飛びつき、抱き合いたい衝動さえ感じられた。やっと三十七年ぶりに〝旧交″が蘇《よみがえ》ったのだから。嬉しかった。
「コバヤシさん、本当に久しぶりですね。元気で何よりです」
「この日を長い間、待って八方、手を尽くしていたんです。こんな形で会えるのが夢のようです。本当に嬉しい。ブロードウオーターさんもお元気で何よりです」
お互い、これだけいうのがやっとだった。昂奮《こうふん》がかえって口を閉ざしたのだろう。彼は、終戦後、同じ捕虜仲間だったオエル・ジョンソン中尉(OEL・J0HNSON)の紹介で、世界的に有名なコカ・コーラ(COCA・COIA)会社に就職した。世界各地の支店に勤務、上級副社長にまでなったのを最後にいまは引退、ジョージア州日米協会の専務理事に就任して日本とアメリカの文化、経済交流と協力に活躍。同時にアトランタ市を中心にしたジョージア州に住む日系人や日本人の生活向上と快適な暮らしのために奔走している。彼の落ち着いた口調には貫禄が感じられ、戦後に歩んだ経歴を象徴するようだった。均整のとれた知的な紳士からは、収容所当時の面影は想像できないが、親しみのある顔形、温和な話しぶりはそのままだ。恐らく彼も私の変貌《へんぼう》ぶりにびっくりしたに違いない。
とにかく、こんな出会いから始まって、懐かしい思い出に花を咲かせた。そして「クラニシ中尉にぜひ会いたかった」と語気を強めた。フィリピンで捕虜となり、バターン死の行進で生き残り、乏しい食糧のなか、苦難の時を生き抜いて日本へ移送された彼。多奈川の収容所では、ある意味ではホッとしたともいう。しかし敵方の中での生活に緊張と疲労は増すばかりだった。そんな空気の中での倉西中尉 (多奈川分所長) との出会いは、彼に生きることの大切さを、しみじみと教えてくれた貴重なチャンスとなった。〝畏敬《いけい=おそれ敬う》すべき人生の師″との出会いだった。
「倉西さんは十六年前に心筋コウソクで他界されました。残念です。あなたとの再会を期待しておられたことでしょう」私は勇気を出してこう伝えた。「本当は倉西未亡人もいっしょにこの席でお会いする積もりでしたが、体が弱く老齢で不可能でした。未亡人もあなたの誠意に心から感謝され、よろしくとの伝言を託されました」とつづけた。
「本当に残念です。クラニシ中尉は、捕虜に対して憐《あわ》れみと暖かい同情、理解をもって接してくれました。本当に人間味豊かな軍人で、まさに〝仁の人〃、私の人生の師です。自分で英語をしゃべり、捕虜の希望を受け入れるためにベストをつくしてくれました。いつも故郷の肉身を思って健康を保ち、将来、無事に帰国するために頑張り通すよう励ましてくれました。忘れ得ない恩人です」ブロードウオーターさんのしんみりした口調は、倉西さんへの思慕と他界されたことへの無念さがにじみ出ていた。そして遺族の未亡人と娘さんを気遣っていろいろと私に尋ねた。
ひとしきり話したあと、もっとゆっくり話そうと、同じホテルの彼の泊っている部屋へ案内してくれた。私の身の上のことも心配して尋ねてくれた。「小さな輸出専門の商社を経営しているんです」と私がいうと「総合商社?」と日本語でオーム返しに彼がいうので大笑いとなった。
仕事の関係で日本の駐在も長かったというだけに、日本語をよく理解していたのには驚いた。
宗教や禅の心、茶華道、邦楽など、日本伝統の文化にも詳しく、日米文化交流の計画を披露して、手伝わないかと積極的にすすめてくれたことを思い出す。倉西所長を日本語で「仁の人」と呼んだのには驚かされた。
私は、未亡人から託された倉西中尉の当時の軍服姿で撮った写真を手渡した。「奥さまも、あなたがクラニシさんを懸命に捜していることを知ってとても感謝していました。夫に代って心からお礼をいっている旨、あなたに伝えてほしいとのメッセージを、いま伝言できたことは、私にとっても心の重荷がとれた感じです。もしクラニシさんがお元気ならいっしょにここへ来れたのですが‥・残念です」私のことばは、しめりがちだった。
「これです。いつも厳しい表情の中に、人間味あふれる態度、ことばで私たちに接してくれた。本当に悲しいですね。生きているうちに会いたかった」彼は、倉西中尉の写真をじ一つと、懐しそうに見つめていた。「クラニシさんは、文学や哲学、歴史、宗教などの英訳をたくさん差し入れて、自由に読ませてくれました。少しでもわれわれ捕虜生活の環境をよくしようと、努力されました。日本軍将校として発言に制約があったと思いますが、あの環境の中で、敵兵に見せた寛容と恩情は忘れることができません」当時をふり返る彼は、一語一語をかみしめるように語り、〝倉西中尉″を偲《しの》んでいた。
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編集者 (代理投稿)
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居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
恩人を捜すアメリカ軍中尉との再会に涙して・3
私も〝倉西中尉″と師弟関係にあり、若い時代の進学、捕虜収容所への勤務など、すべてに〝倉西先生〟の指導と助言を受けたことを披露した。彼はその関係をよく知っていた。「あなたと私の共通の先生だったんですね(笑い)」彼のことばが返ってきた。当時の懐しい人びとの名前が、お互いの口から次々と飛び出した。峰本さんも彼には懐しい人だった。峰本さんが戦犯として巣鴨刑務所に服役したことを話すと、大きな驚きと悲しみをことばと表情でみせた。
しばらくして、私は倉西夫人からことづかった手づくりの「手まり」を渡し「夫人と娘さんの真心のこもる贈り物です」といった。彼は立ち上がって両手にしっかりと「手まり」をつかみ「ありがとうございます。いつまでも大切に保存します」と大喜びだった。そして、すぐ同じ部屋のバス・ルームから堺の倉西邸へ自分で電話をかけた。バス・ルームには同時通訳用の二台の電話器が臨時に設けられて、それを使って話した。倉西中尉の死を悼んだ《=人の死をかなしむ》あと、その人徳を讃え、プレゼントに感謝し、未亡人を慰め、励ました。未亡人も丁重な感謝の意を伝え、心温まる会話がつづいた。「この次はぜひ大阪市内で再会しましょう」二人ともこう約束し合って、会話を終った。彼にとっては、捜し求めた倉西中尉に再会できなかったのは残念だったに違いない。しかし、その遺族と話せたことで積年の希望が果たされ、満ち足りたことだろう。
私も、今回、彼と倉西未亡人との通訳を果たすことができ、嬉しかった。
その夜は、彼のつごうで、いったん、別れ、翌朝、ホテルで朝食をともにし、雑談した。
「私も、できるだけ多くの当時の人と接触したいと手を尽くしているんですが、思うようにいきません。アメリカ側の人と同じように、日本側の人の消息も知りたいのですが…。あのころ、いろいろと体験した貴重なことを、かつての友人、知人に会って確めたいとも思っています。これを機にあなたと連絡を密にし、お互いの情報を交換、収容所時代の友情の輪を広めたいと願っています」と私。
彼も「そうしよう。これを機に新しい目標が増えた気がします。お互い、年だからすべては迅速《=すばやい行動》に実行する必要がありますね」と、残されたホテル滞在時間を惜しむかのように、よくしやべった。
彼はその翌日に帰米するため、私との朝食が終れば荷物の整理をしなければならなかった。
私も手伝った。倉西夫人から贈られた「手まり」を他の荷物といっしょに郵送する準備や、滞日中のいろいろな書類のバッグ詰めなど、多忙な朝だった。
こうして、午前中にどうにか彼の出発準備を終えることができた。「コバヤシさんのおかげで、随分早く帰国準備ができました。今回はあなたに何かと助けられ、心から感謝します。彼は余程、嬉しかったのだろう。同じことを何度も繰り返し、上機嫌だった。
「クラニシ夫人に元気で暮らすようにと伝えて下さい。日米の絆《きずな》はもっとも大切です。私はその架け橋の一人として頑張ります。あなたもお元気で…ぜひ次はアトランタで会いましょう。アメリカに来て下さい」「健康に気をつけて…ぜひまた会いましょう」二人は固い握手を交わして三十七年ぶりの再会に別れを告げた。
帰阪の新幹線車中で、私はこの再会の喜びをしみじみとかみめ、もう一度、三十七年前の彼、いま別れたばかりの彼をダブラせながら思い出していた。そして人との出会い、運命、戦争の残したものなどについて、次から次へと回想が脳裏をめぐらした。私の心は本当にさわやかだった。
私も〝倉西中尉″と師弟関係にあり、若い時代の進学、捕虜収容所への勤務など、すべてに〝倉西先生〟の指導と助言を受けたことを披露した。彼はその関係をよく知っていた。「あなたと私の共通の先生だったんですね(笑い)」彼のことばが返ってきた。当時の懐しい人びとの名前が、お互いの口から次々と飛び出した。峰本さんも彼には懐しい人だった。峰本さんが戦犯として巣鴨刑務所に服役したことを話すと、大きな驚きと悲しみをことばと表情でみせた。
しばらくして、私は倉西夫人からことづかった手づくりの「手まり」を渡し「夫人と娘さんの真心のこもる贈り物です」といった。彼は立ち上がって両手にしっかりと「手まり」をつかみ「ありがとうございます。いつまでも大切に保存します」と大喜びだった。そして、すぐ同じ部屋のバス・ルームから堺の倉西邸へ自分で電話をかけた。バス・ルームには同時通訳用の二台の電話器が臨時に設けられて、それを使って話した。倉西中尉の死を悼んだ《=人の死をかなしむ》あと、その人徳を讃え、プレゼントに感謝し、未亡人を慰め、励ました。未亡人も丁重な感謝の意を伝え、心温まる会話がつづいた。「この次はぜひ大阪市内で再会しましょう」二人ともこう約束し合って、会話を終った。彼にとっては、捜し求めた倉西中尉に再会できなかったのは残念だったに違いない。しかし、その遺族と話せたことで積年の希望が果たされ、満ち足りたことだろう。
私も、今回、彼と倉西未亡人との通訳を果たすことができ、嬉しかった。
その夜は、彼のつごうで、いったん、別れ、翌朝、ホテルで朝食をともにし、雑談した。
「私も、できるだけ多くの当時の人と接触したいと手を尽くしているんですが、思うようにいきません。アメリカ側の人と同じように、日本側の人の消息も知りたいのですが…。あのころ、いろいろと体験した貴重なことを、かつての友人、知人に会って確めたいとも思っています。これを機にあなたと連絡を密にし、お互いの情報を交換、収容所時代の友情の輪を広めたいと願っています」と私。
彼も「そうしよう。これを機に新しい目標が増えた気がします。お互い、年だからすべては迅速《=すばやい行動》に実行する必要がありますね」と、残されたホテル滞在時間を惜しむかのように、よくしやべった。
彼はその翌日に帰米するため、私との朝食が終れば荷物の整理をしなければならなかった。
私も手伝った。倉西夫人から贈られた「手まり」を他の荷物といっしょに郵送する準備や、滞日中のいろいろな書類のバッグ詰めなど、多忙な朝だった。
こうして、午前中にどうにか彼の出発準備を終えることができた。「コバヤシさんのおかげで、随分早く帰国準備ができました。今回はあなたに何かと助けられ、心から感謝します。彼は余程、嬉しかったのだろう。同じことを何度も繰り返し、上機嫌だった。
「クラニシ夫人に元気で暮らすようにと伝えて下さい。日米の絆《きずな》はもっとも大切です。私はその架け橋の一人として頑張ります。あなたもお元気で…ぜひ次はアトランタで会いましょう。アメリカに来て下さい」「健康に気をつけて…ぜひまた会いましょう」二人は固い握手を交わして三十七年ぶりの再会に別れを告げた。
帰阪の新幹線車中で、私はこの再会の喜びをしみじみとかみめ、もう一度、三十七年前の彼、いま別れたばかりの彼をダブラせながら思い出していた。そして人との出会い、運命、戦争の残したものなどについて、次から次へと回想が脳裏をめぐらした。私の心は本当にさわやかだった。
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編集者 (代理投稿)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
恩人を捜すアメリカ軍中尉との再会に涙して・4
それから二か月ばかり経った九月下旬だった。彼から這の手紙が舞い込んだ。「多奈川の捕虜収容所時代に所内の管理責任者だった日本軍人の〝ミネモト〃さんが、戦後、戦犯裁判で刑を宣告され、長い間、巣鴨プリズンで苦しまれたことを知りました。摘虜虐待ということだそぅですが、本当にお気の毒で、残念です。確かにそれは裁判の誤りだと思います。あなたがそんな裁きを受けるようなことをした事実は思い出せません」こんな文章で始まる〝ミネモ卜″さん宛の手紙が同封され「戦犯という十字架を背負って生きているミネモトさんに早く手渡してください」とつけ加えられていた。
だが、その峰本さんがどこに住んでいるのか、私にはまったくわからない。途方に暮れながらも「新聞にこのニュースを報道してもらえれば、きっと反応がある。住所がわかるかも知れない」私は友人の知っている産経新聞社にさっそく連絡してもらい、大きく報道された。
反応はすぐ出た。記事が掲載されたその日に、峰本さんの友人がその新聞を見て彼に知らせた。産経新聞記者も彼を訪ねてきた。
〝ミネモト〃さんから私に電話がきた。明るいことばがはね返ってきた。懐しい声が響いてきた。
私は、ブロードウオーターさんと会った契機に始まって、収容所当時の思い出、関係者の所在を捜し求めていること、戦後のそれぞれの生活など、さまざまなことについて話し合ったことを伝えた。そして「あなたが戦犯として巣鴨で苦労されたことを残念がり、あなたは決してそんな罪刑に値いする行為はしていい。あなたに罪刑を課したあの裁判は誤りだった、というブロードウォーターさんからの手紙を預っている」と話した。
「私の無実を証明してくれたブロードウォーターさんにお礼をいいたい。ありがたい。もう過ぎ去ったことは仕方がないが、無実だったことを証言するアメリカ人が生きておられることは何よりも心強い。仏に会った気持ちです」峰本さんは、三十九年ぶりにえん罪が晴らされた喜びを、静かな口調の中に、力いっぱい表現しているようだった。
ブロードウオーターさんの手紙をつづけて読んだ。「思い出すのは、あなたの多くの親切な行為です。キャンプ農園をつくってくれたこと、タマネギの買い出しに連れていってくれたこと、それらが捕虜生活をどれだけ助けてくれたことでしょう。お互い、一度は軍人であり、敵味方に分かれていたが、いまはともに老人です。奇妙な境遇におかれたのも何かの運命だったと思います。いまは過去をふり返りつつも、お互い祖国のために犠牲になった過去を誇りに思い、あきらめましょう」「あの調べを受けた時、私自身が無実を訴え、さまざまな実例を挙げて説明しようと思ったが言葉が十分に通じず、なかば一方的に有罪を押しっけられたかっこうだった。情けなかったですね。私が受けたC級戦犯の汚名とその辛さは、神に誓って潔白だっただけに、誰にもわからない気がします。不当な裁判でした。それにしても収容所時代、ブロードウオーターさんらといっしょに町に買い物に行き憲兵に叱られたこともありました峰本さんの思い出は、電話口から、とどまることもなく吐き出された。
奈良市内に奥さんと平穏な日々を送る峰本さんは、戦後、大阪信用保証協会に勤務し、五十三年(-九七八)春、理事を最後に年金暮らしの身。電話連絡で詳細を知った峰本さんはその後、私の経営する大阪市南区の会社を訪れ、久しぶりに懐しい顔を拝見した。ブロードウオーター氏の手紙を渡した。
峰本さんは、四十六年(一九七一)秋、アメリカのベンチユラ・ダウンタウン・ライオンズクラブと日本の姉妹関係クラブとの会合が日本で行われた時にメンバーの一人として来日した、収容所時代の炊事班長エドワード・コイルさん(当時軍曹)=EDWARD・COYLE= と奈良ホテルで会っている。戦時中に交換した簡単な住所メモを頼りに、突然、「奈良にいる」との連絡があり会見が実現したという。対面後、峰本さんはコイルさん夫婦を大阪に招き、観光見物、手みやげを交換して旧交を暖めた。この久々の対面の模様は、ライオンズクラブ会合の取材で同行したベンチユラ・ダウンタウンの地元紙記者、ロバート・アラス氏(ROBERT・ARRAS)によって詳細に写真入りで報道され、後日、峰本さんにその掲載紙を送ってきた。
峰本さんも、できれば収容所時代の多くの人びととの友情を復活させたいと願っていたが、捜す手だてもなく困っていた。
こうしたことのあった直後、私は、コイルさんの消息を知りたいと、峰本さんとの対面を掲載したアメリカの新聞社に電話をした。彼はその新聞社に勤務していたが、すでに五年前に死亡し、遺族の行方も明らかでないということだった。遅すぎたが、ここでも歴史の足音の早さを痛感させられた。ぜひ会いたい一人だっただけに残念だった。心からご冥福をお祈りしたい。
ブロードウォーターさんからの手紙の中には峰本さん宛の手紙の他に、倉西未亡人宛の丁重なお悔みと遺族への激励のことばに満ちた手紙も同封されていた。
峰本さんと倉西先生の娘さん (新井ミネ子さん) は、今でも時々、ブロードウオーター氏と文通して旧交を温めているという。いつまでも〝善意の人間″としてのつながりを大切に持ちつづけ、友情を膨らませつづけたいと願っている。
それから二か月ばかり経った九月下旬だった。彼から這の手紙が舞い込んだ。「多奈川の捕虜収容所時代に所内の管理責任者だった日本軍人の〝ミネモト〃さんが、戦後、戦犯裁判で刑を宣告され、長い間、巣鴨プリズンで苦しまれたことを知りました。摘虜虐待ということだそぅですが、本当にお気の毒で、残念です。確かにそれは裁判の誤りだと思います。あなたがそんな裁きを受けるようなことをした事実は思い出せません」こんな文章で始まる〝ミネモ卜″さん宛の手紙が同封され「戦犯という十字架を背負って生きているミネモトさんに早く手渡してください」とつけ加えられていた。
だが、その峰本さんがどこに住んでいるのか、私にはまったくわからない。途方に暮れながらも「新聞にこのニュースを報道してもらえれば、きっと反応がある。住所がわかるかも知れない」私は友人の知っている産経新聞社にさっそく連絡してもらい、大きく報道された。
反応はすぐ出た。記事が掲載されたその日に、峰本さんの友人がその新聞を見て彼に知らせた。産経新聞記者も彼を訪ねてきた。
〝ミネモト〃さんから私に電話がきた。明るいことばがはね返ってきた。懐しい声が響いてきた。
私は、ブロードウオーターさんと会った契機に始まって、収容所当時の思い出、関係者の所在を捜し求めていること、戦後のそれぞれの生活など、さまざまなことについて話し合ったことを伝えた。そして「あなたが戦犯として巣鴨で苦労されたことを残念がり、あなたは決してそんな罪刑に値いする行為はしていい。あなたに罪刑を課したあの裁判は誤りだった、というブロードウォーターさんからの手紙を預っている」と話した。
「私の無実を証明してくれたブロードウォーターさんにお礼をいいたい。ありがたい。もう過ぎ去ったことは仕方がないが、無実だったことを証言するアメリカ人が生きておられることは何よりも心強い。仏に会った気持ちです」峰本さんは、三十九年ぶりにえん罪が晴らされた喜びを、静かな口調の中に、力いっぱい表現しているようだった。
ブロードウオーターさんの手紙をつづけて読んだ。「思い出すのは、あなたの多くの親切な行為です。キャンプ農園をつくってくれたこと、タマネギの買い出しに連れていってくれたこと、それらが捕虜生活をどれだけ助けてくれたことでしょう。お互い、一度は軍人であり、敵味方に分かれていたが、いまはともに老人です。奇妙な境遇におかれたのも何かの運命だったと思います。いまは過去をふり返りつつも、お互い祖国のために犠牲になった過去を誇りに思い、あきらめましょう」「あの調べを受けた時、私自身が無実を訴え、さまざまな実例を挙げて説明しようと思ったが言葉が十分に通じず、なかば一方的に有罪を押しっけられたかっこうだった。情けなかったですね。私が受けたC級戦犯の汚名とその辛さは、神に誓って潔白だっただけに、誰にもわからない気がします。不当な裁判でした。それにしても収容所時代、ブロードウオーターさんらといっしょに町に買い物に行き憲兵に叱られたこともありました峰本さんの思い出は、電話口から、とどまることもなく吐き出された。
奈良市内に奥さんと平穏な日々を送る峰本さんは、戦後、大阪信用保証協会に勤務し、五十三年(-九七八)春、理事を最後に年金暮らしの身。電話連絡で詳細を知った峰本さんはその後、私の経営する大阪市南区の会社を訪れ、久しぶりに懐しい顔を拝見した。ブロードウオーター氏の手紙を渡した。
峰本さんは、四十六年(一九七一)秋、アメリカのベンチユラ・ダウンタウン・ライオンズクラブと日本の姉妹関係クラブとの会合が日本で行われた時にメンバーの一人として来日した、収容所時代の炊事班長エドワード・コイルさん(当時軍曹)=EDWARD・COYLE= と奈良ホテルで会っている。戦時中に交換した簡単な住所メモを頼りに、突然、「奈良にいる」との連絡があり会見が実現したという。対面後、峰本さんはコイルさん夫婦を大阪に招き、観光見物、手みやげを交換して旧交を暖めた。この久々の対面の模様は、ライオンズクラブ会合の取材で同行したベンチユラ・ダウンタウンの地元紙記者、ロバート・アラス氏(ROBERT・ARRAS)によって詳細に写真入りで報道され、後日、峰本さんにその掲載紙を送ってきた。
峰本さんも、できれば収容所時代の多くの人びととの友情を復活させたいと願っていたが、捜す手だてもなく困っていた。
こうしたことのあった直後、私は、コイルさんの消息を知りたいと、峰本さんとの対面を掲載したアメリカの新聞社に電話をした。彼はその新聞社に勤務していたが、すでに五年前に死亡し、遺族の行方も明らかでないということだった。遅すぎたが、ここでも歴史の足音の早さを痛感させられた。ぜひ会いたい一人だっただけに残念だった。心からご冥福をお祈りしたい。
ブロードウォーターさんからの手紙の中には峰本さん宛の手紙の他に、倉西未亡人宛の丁重なお悔みと遺族への激励のことばに満ちた手紙も同封されていた。
峰本さんと倉西先生の娘さん (新井ミネ子さん) は、今でも時々、ブロードウオーター氏と文通して旧交を温めているという。いつまでも〝善意の人間″としてのつながりを大切に持ちつづけ、友情を膨らませつづけたいと願っている。
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編集者 (代理投稿)