捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・42
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恩人を捜すアメリカ軍中尉との再会に涙して・3
私も〝倉西中尉″と師弟関係にあり、若い時代の進学、捕虜収容所への勤務など、すべてに〝倉西先生〟の指導と助言を受けたことを披露した。彼はその関係をよく知っていた。「あなたと私の共通の先生だったんですね(笑い)」彼のことばが返ってきた。当時の懐しい人びとの名前が、お互いの口から次々と飛び出した。峰本さんも彼には懐しい人だった。峰本さんが戦犯として巣鴨刑務所に服役したことを話すと、大きな驚きと悲しみをことばと表情でみせた。
しばらくして、私は倉西夫人からことづかった手づくりの「手まり」を渡し「夫人と娘さんの真心のこもる贈り物です」といった。彼は立ち上がって両手にしっかりと「手まり」をつかみ「ありがとうございます。いつまでも大切に保存します」と大喜びだった。そして、すぐ同じ部屋のバス・ルームから堺の倉西邸へ自分で電話をかけた。バス・ルームには同時通訳用の二台の電話器が臨時に設けられて、それを使って話した。倉西中尉の死を悼んだ《=人の死をかなしむ》あと、その人徳を讃え、プレゼントに感謝し、未亡人を慰め、励ました。未亡人も丁重な感謝の意を伝え、心温まる会話がつづいた。「この次はぜひ大阪市内で再会しましょう」二人ともこう約束し合って、会話を終った。彼にとっては、捜し求めた倉西中尉に再会できなかったのは残念だったに違いない。しかし、その遺族と話せたことで積年の希望が果たされ、満ち足りたことだろう。
私も、今回、彼と倉西未亡人との通訳を果たすことができ、嬉しかった。
その夜は、彼のつごうで、いったん、別れ、翌朝、ホテルで朝食をともにし、雑談した。
「私も、できるだけ多くの当時の人と接触したいと手を尽くしているんですが、思うようにいきません。アメリカ側の人と同じように、日本側の人の消息も知りたいのですが…。あのころ、いろいろと体験した貴重なことを、かつての友人、知人に会って確めたいとも思っています。これを機にあなたと連絡を密にし、お互いの情報を交換、収容所時代の友情の輪を広めたいと願っています」と私。
彼も「そうしよう。これを機に新しい目標が増えた気がします。お互い、年だからすべては迅速《=すばやい行動》に実行する必要がありますね」と、残されたホテル滞在時間を惜しむかのように、よくしやべった。
彼はその翌日に帰米するため、私との朝食が終れば荷物の整理をしなければならなかった。
私も手伝った。倉西夫人から贈られた「手まり」を他の荷物といっしょに郵送する準備や、滞日中のいろいろな書類のバッグ詰めなど、多忙な朝だった。
こうして、午前中にどうにか彼の出発準備を終えることができた。「コバヤシさんのおかげで、随分早く帰国準備ができました。今回はあなたに何かと助けられ、心から感謝します。彼は余程、嬉しかったのだろう。同じことを何度も繰り返し、上機嫌だった。
「クラニシ夫人に元気で暮らすようにと伝えて下さい。日米の絆《きずな》はもっとも大切です。私はその架け橋の一人として頑張ります。あなたもお元気で…ぜひ次はアトランタで会いましょう。アメリカに来て下さい」「健康に気をつけて…ぜひまた会いましょう」二人は固い握手を交わして三十七年ぶりの再会に別れを告げた。
帰阪の新幹線車中で、私はこの再会の喜びをしみじみとかみめ、もう一度、三十七年前の彼、いま別れたばかりの彼をダブラせながら思い出していた。そして人との出会い、運命、戦争の残したものなどについて、次から次へと回想が脳裏をめぐらした。私の心は本当にさわやかだった。
私も〝倉西中尉″と師弟関係にあり、若い時代の進学、捕虜収容所への勤務など、すべてに〝倉西先生〟の指導と助言を受けたことを披露した。彼はその関係をよく知っていた。「あなたと私の共通の先生だったんですね(笑い)」彼のことばが返ってきた。当時の懐しい人びとの名前が、お互いの口から次々と飛び出した。峰本さんも彼には懐しい人だった。峰本さんが戦犯として巣鴨刑務所に服役したことを話すと、大きな驚きと悲しみをことばと表情でみせた。
しばらくして、私は倉西夫人からことづかった手づくりの「手まり」を渡し「夫人と娘さんの真心のこもる贈り物です」といった。彼は立ち上がって両手にしっかりと「手まり」をつかみ「ありがとうございます。いつまでも大切に保存します」と大喜びだった。そして、すぐ同じ部屋のバス・ルームから堺の倉西邸へ自分で電話をかけた。バス・ルームには同時通訳用の二台の電話器が臨時に設けられて、それを使って話した。倉西中尉の死を悼んだ《=人の死をかなしむ》あと、その人徳を讃え、プレゼントに感謝し、未亡人を慰め、励ました。未亡人も丁重な感謝の意を伝え、心温まる会話がつづいた。「この次はぜひ大阪市内で再会しましょう」二人ともこう約束し合って、会話を終った。彼にとっては、捜し求めた倉西中尉に再会できなかったのは残念だったに違いない。しかし、その遺族と話せたことで積年の希望が果たされ、満ち足りたことだろう。
私も、今回、彼と倉西未亡人との通訳を果たすことができ、嬉しかった。
その夜は、彼のつごうで、いったん、別れ、翌朝、ホテルで朝食をともにし、雑談した。
「私も、できるだけ多くの当時の人と接触したいと手を尽くしているんですが、思うようにいきません。アメリカ側の人と同じように、日本側の人の消息も知りたいのですが…。あのころ、いろいろと体験した貴重なことを、かつての友人、知人に会って確めたいとも思っています。これを機にあなたと連絡を密にし、お互いの情報を交換、収容所時代の友情の輪を広めたいと願っています」と私。
彼も「そうしよう。これを機に新しい目標が増えた気がします。お互い、年だからすべては迅速《=すばやい行動》に実行する必要がありますね」と、残されたホテル滞在時間を惜しむかのように、よくしやべった。
彼はその翌日に帰米するため、私との朝食が終れば荷物の整理をしなければならなかった。
私も手伝った。倉西夫人から贈られた「手まり」を他の荷物といっしょに郵送する準備や、滞日中のいろいろな書類のバッグ詰めなど、多忙な朝だった。
こうして、午前中にどうにか彼の出発準備を終えることができた。「コバヤシさんのおかげで、随分早く帰国準備ができました。今回はあなたに何かと助けられ、心から感謝します。彼は余程、嬉しかったのだろう。同じことを何度も繰り返し、上機嫌だった。
「クラニシ夫人に元気で暮らすようにと伝えて下さい。日米の絆《きずな》はもっとも大切です。私はその架け橋の一人として頑張ります。あなたもお元気で…ぜひ次はアトランタで会いましょう。アメリカに来て下さい」「健康に気をつけて…ぜひまた会いましょう」二人は固い握手を交わして三十七年ぶりの再会に別れを告げた。
帰阪の新幹線車中で、私はこの再会の喜びをしみじみとかみめ、もう一度、三十七年前の彼、いま別れたばかりの彼をダブラせながら思い出していた。そして人との出会い、運命、戦争の残したものなどについて、次から次へと回想が脳裏をめぐらした。私の心は本当にさわやかだった。
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編集者 (代理投稿)