捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・43
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編集者
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恩人を捜すアメリカ軍中尉との再会に涙して・4
それから二か月ばかり経った九月下旬だった。彼から這の手紙が舞い込んだ。「多奈川の捕虜収容所時代に所内の管理責任者だった日本軍人の〝ミネモト〃さんが、戦後、戦犯裁判で刑を宣告され、長い間、巣鴨プリズンで苦しまれたことを知りました。摘虜虐待ということだそぅですが、本当にお気の毒で、残念です。確かにそれは裁判の誤りだと思います。あなたがそんな裁きを受けるようなことをした事実は思い出せません」こんな文章で始まる〝ミネモ卜″さん宛の手紙が同封され「戦犯という十字架を背負って生きているミネモトさんに早く手渡してください」とつけ加えられていた。
だが、その峰本さんがどこに住んでいるのか、私にはまったくわからない。途方に暮れながらも「新聞にこのニュースを報道してもらえれば、きっと反応がある。住所がわかるかも知れない」私は友人の知っている産経新聞社にさっそく連絡してもらい、大きく報道された。
反応はすぐ出た。記事が掲載されたその日に、峰本さんの友人がその新聞を見て彼に知らせた。産経新聞記者も彼を訪ねてきた。
〝ミネモト〃さんから私に電話がきた。明るいことばがはね返ってきた。懐しい声が響いてきた。
私は、ブロードウオーターさんと会った契機に始まって、収容所当時の思い出、関係者の所在を捜し求めていること、戦後のそれぞれの生活など、さまざまなことについて話し合ったことを伝えた。そして「あなたが戦犯として巣鴨で苦労されたことを残念がり、あなたは決してそんな罪刑に値いする行為はしていい。あなたに罪刑を課したあの裁判は誤りだった、というブロードウォーターさんからの手紙を預っている」と話した。
「私の無実を証明してくれたブロードウォーターさんにお礼をいいたい。ありがたい。もう過ぎ去ったことは仕方がないが、無実だったことを証言するアメリカ人が生きておられることは何よりも心強い。仏に会った気持ちです」峰本さんは、三十九年ぶりにえん罪が晴らされた喜びを、静かな口調の中に、力いっぱい表現しているようだった。
ブロードウオーターさんの手紙をつづけて読んだ。「思い出すのは、あなたの多くの親切な行為です。キャンプ農園をつくってくれたこと、タマネギの買い出しに連れていってくれたこと、それらが捕虜生活をどれだけ助けてくれたことでしょう。お互い、一度は軍人であり、敵味方に分かれていたが、いまはともに老人です。奇妙な境遇におかれたのも何かの運命だったと思います。いまは過去をふり返りつつも、お互い祖国のために犠牲になった過去を誇りに思い、あきらめましょう」「あの調べを受けた時、私自身が無実を訴え、さまざまな実例を挙げて説明しようと思ったが言葉が十分に通じず、なかば一方的に有罪を押しっけられたかっこうだった。情けなかったですね。私が受けたC級戦犯の汚名とその辛さは、神に誓って潔白だっただけに、誰にもわからない気がします。不当な裁判でした。それにしても収容所時代、ブロードウオーターさんらといっしょに町に買い物に行き憲兵に叱られたこともありました峰本さんの思い出は、電話口から、とどまることもなく吐き出された。
奈良市内に奥さんと平穏な日々を送る峰本さんは、戦後、大阪信用保証協会に勤務し、五十三年(-九七八)春、理事を最後に年金暮らしの身。電話連絡で詳細を知った峰本さんはその後、私の経営する大阪市南区の会社を訪れ、久しぶりに懐しい顔を拝見した。ブロードウオーター氏の手紙を渡した。
峰本さんは、四十六年(一九七一)秋、アメリカのベンチユラ・ダウンタウン・ライオンズクラブと日本の姉妹関係クラブとの会合が日本で行われた時にメンバーの一人として来日した、収容所時代の炊事班長エドワード・コイルさん(当時軍曹)=EDWARD・COYLE= と奈良ホテルで会っている。戦時中に交換した簡単な住所メモを頼りに、突然、「奈良にいる」との連絡があり会見が実現したという。対面後、峰本さんはコイルさん夫婦を大阪に招き、観光見物、手みやげを交換して旧交を暖めた。この久々の対面の模様は、ライオンズクラブ会合の取材で同行したベンチユラ・ダウンタウンの地元紙記者、ロバート・アラス氏(ROBERT・ARRAS)によって詳細に写真入りで報道され、後日、峰本さんにその掲載紙を送ってきた。
峰本さんも、できれば収容所時代の多くの人びととの友情を復活させたいと願っていたが、捜す手だてもなく困っていた。
こうしたことのあった直後、私は、コイルさんの消息を知りたいと、峰本さんとの対面を掲載したアメリカの新聞社に電話をした。彼はその新聞社に勤務していたが、すでに五年前に死亡し、遺族の行方も明らかでないということだった。遅すぎたが、ここでも歴史の足音の早さを痛感させられた。ぜひ会いたい一人だっただけに残念だった。心からご冥福をお祈りしたい。
ブロードウォーターさんからの手紙の中には峰本さん宛の手紙の他に、倉西未亡人宛の丁重なお悔みと遺族への激励のことばに満ちた手紙も同封されていた。
峰本さんと倉西先生の娘さん (新井ミネ子さん) は、今でも時々、ブロードウオーター氏と文通して旧交を温めているという。いつまでも〝善意の人間″としてのつながりを大切に持ちつづけ、友情を膨らませつづけたいと願っている。
それから二か月ばかり経った九月下旬だった。彼から這の手紙が舞い込んだ。「多奈川の捕虜収容所時代に所内の管理責任者だった日本軍人の〝ミネモト〃さんが、戦後、戦犯裁判で刑を宣告され、長い間、巣鴨プリズンで苦しまれたことを知りました。摘虜虐待ということだそぅですが、本当にお気の毒で、残念です。確かにそれは裁判の誤りだと思います。あなたがそんな裁きを受けるようなことをした事実は思い出せません」こんな文章で始まる〝ミネモ卜″さん宛の手紙が同封され「戦犯という十字架を背負って生きているミネモトさんに早く手渡してください」とつけ加えられていた。
だが、その峰本さんがどこに住んでいるのか、私にはまったくわからない。途方に暮れながらも「新聞にこのニュースを報道してもらえれば、きっと反応がある。住所がわかるかも知れない」私は友人の知っている産経新聞社にさっそく連絡してもらい、大きく報道された。
反応はすぐ出た。記事が掲載されたその日に、峰本さんの友人がその新聞を見て彼に知らせた。産経新聞記者も彼を訪ねてきた。
〝ミネモト〃さんから私に電話がきた。明るいことばがはね返ってきた。懐しい声が響いてきた。
私は、ブロードウオーターさんと会った契機に始まって、収容所当時の思い出、関係者の所在を捜し求めていること、戦後のそれぞれの生活など、さまざまなことについて話し合ったことを伝えた。そして「あなたが戦犯として巣鴨で苦労されたことを残念がり、あなたは決してそんな罪刑に値いする行為はしていい。あなたに罪刑を課したあの裁判は誤りだった、というブロードウォーターさんからの手紙を預っている」と話した。
「私の無実を証明してくれたブロードウォーターさんにお礼をいいたい。ありがたい。もう過ぎ去ったことは仕方がないが、無実だったことを証言するアメリカ人が生きておられることは何よりも心強い。仏に会った気持ちです」峰本さんは、三十九年ぶりにえん罪が晴らされた喜びを、静かな口調の中に、力いっぱい表現しているようだった。
ブロードウオーターさんの手紙をつづけて読んだ。「思い出すのは、あなたの多くの親切な行為です。キャンプ農園をつくってくれたこと、タマネギの買い出しに連れていってくれたこと、それらが捕虜生活をどれだけ助けてくれたことでしょう。お互い、一度は軍人であり、敵味方に分かれていたが、いまはともに老人です。奇妙な境遇におかれたのも何かの運命だったと思います。いまは過去をふり返りつつも、お互い祖国のために犠牲になった過去を誇りに思い、あきらめましょう」「あの調べを受けた時、私自身が無実を訴え、さまざまな実例を挙げて説明しようと思ったが言葉が十分に通じず、なかば一方的に有罪を押しっけられたかっこうだった。情けなかったですね。私が受けたC級戦犯の汚名とその辛さは、神に誓って潔白だっただけに、誰にもわからない気がします。不当な裁判でした。それにしても収容所時代、ブロードウオーターさんらといっしょに町に買い物に行き憲兵に叱られたこともありました峰本さんの思い出は、電話口から、とどまることもなく吐き出された。
奈良市内に奥さんと平穏な日々を送る峰本さんは、戦後、大阪信用保証協会に勤務し、五十三年(-九七八)春、理事を最後に年金暮らしの身。電話連絡で詳細を知った峰本さんはその後、私の経営する大阪市南区の会社を訪れ、久しぶりに懐しい顔を拝見した。ブロードウオーター氏の手紙を渡した。
峰本さんは、四十六年(一九七一)秋、アメリカのベンチユラ・ダウンタウン・ライオンズクラブと日本の姉妹関係クラブとの会合が日本で行われた時にメンバーの一人として来日した、収容所時代の炊事班長エドワード・コイルさん(当時軍曹)=EDWARD・COYLE= と奈良ホテルで会っている。戦時中に交換した簡単な住所メモを頼りに、突然、「奈良にいる」との連絡があり会見が実現したという。対面後、峰本さんはコイルさん夫婦を大阪に招き、観光見物、手みやげを交換して旧交を暖めた。この久々の対面の模様は、ライオンズクラブ会合の取材で同行したベンチユラ・ダウンタウンの地元紙記者、ロバート・アラス氏(ROBERT・ARRAS)によって詳細に写真入りで報道され、後日、峰本さんにその掲載紙を送ってきた。
峰本さんも、できれば収容所時代の多くの人びととの友情を復活させたいと願っていたが、捜す手だてもなく困っていた。
こうしたことのあった直後、私は、コイルさんの消息を知りたいと、峰本さんとの対面を掲載したアメリカの新聞社に電話をした。彼はその新聞社に勤務していたが、すでに五年前に死亡し、遺族の行方も明らかでないということだった。遅すぎたが、ここでも歴史の足音の早さを痛感させられた。ぜひ会いたい一人だっただけに残念だった。心からご冥福をお祈りしたい。
ブロードウォーターさんからの手紙の中には峰本さん宛の手紙の他に、倉西未亡人宛の丁重なお悔みと遺族への激励のことばに満ちた手紙も同封されていた。
峰本さんと倉西先生の娘さん (新井ミネ子さん) は、今でも時々、ブロードウオーター氏と文通して旧交を温めているという。いつまでも〝善意の人間″としてのつながりを大切に持ちつづけ、友情を膨らませつづけたいと願っている。
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編集者 (代理投稿)