捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・41
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編集者
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恩人を捜すアメリカ軍中尉との再会に涙して・2
私は上京の翌日、七月二十七日にブロードウォーターさんとホテル・オークラで再会した。
私の到着を待ちかまえていた。特別に二人だけ会ってゆっくり話せるようにと、別室まで借りて待っていてくれた。TBSテレビやサンケイ新聞のはからいで、テレビカメラや報道関係者も来ていたのには驚いた。
どちらからともなく、ことばの前に手を差し出した。握手した。お互いにじ一つと見つめ合い、交わした握手に力が入ったが、彼に捕虜だったあのころの若々しい面影はみられない。もちろん、私も当時二十二、三歳、丸坊頭に戦闘帽、国民服の若者姿だったのが、いまや六十二歳。禿《は》げた白髪まじりの年輩になっている。お互い、小首をかしげ、見合わす顔には微笑みをたたえながらも、本人なのか、どうか確かめ合う風に見えた。二人の表情には走り寄って飛びつき、抱き合いたい衝動さえ感じられた。やっと三十七年ぶりに〝旧交″が蘇《よみがえ》ったのだから。嬉しかった。
「コバヤシさん、本当に久しぶりですね。元気で何よりです」
「この日を長い間、待って八方、手を尽くしていたんです。こんな形で会えるのが夢のようです。本当に嬉しい。ブロードウオーターさんもお元気で何よりです」
お互い、これだけいうのがやっとだった。昂奮《こうふん》がかえって口を閉ざしたのだろう。彼は、終戦後、同じ捕虜仲間だったオエル・ジョンソン中尉(OEL・J0HNSON)の紹介で、世界的に有名なコカ・コーラ(COCA・COIA)会社に就職した。世界各地の支店に勤務、上級副社長にまでなったのを最後にいまは引退、ジョージア州日米協会の専務理事に就任して日本とアメリカの文化、経済交流と協力に活躍。同時にアトランタ市を中心にしたジョージア州に住む日系人や日本人の生活向上と快適な暮らしのために奔走している。彼の落ち着いた口調には貫禄が感じられ、戦後に歩んだ経歴を象徴するようだった。均整のとれた知的な紳士からは、収容所当時の面影は想像できないが、親しみのある顔形、温和な話しぶりはそのままだ。恐らく彼も私の変貌《へんぼう》ぶりにびっくりしたに違いない。
とにかく、こんな出会いから始まって、懐かしい思い出に花を咲かせた。そして「クラニシ中尉にぜひ会いたかった」と語気を強めた。フィリピンで捕虜となり、バターン死の行進で生き残り、乏しい食糧のなか、苦難の時を生き抜いて日本へ移送された彼。多奈川の収容所では、ある意味ではホッとしたともいう。しかし敵方の中での生活に緊張と疲労は増すばかりだった。そんな空気の中での倉西中尉 (多奈川分所長) との出会いは、彼に生きることの大切さを、しみじみと教えてくれた貴重なチャンスとなった。〝畏敬《いけい=おそれ敬う》すべき人生の師″との出会いだった。
「倉西さんは十六年前に心筋コウソクで他界されました。残念です。あなたとの再会を期待しておられたことでしょう」私は勇気を出してこう伝えた。「本当は倉西未亡人もいっしょにこの席でお会いする積もりでしたが、体が弱く老齢で不可能でした。未亡人もあなたの誠意に心から感謝され、よろしくとの伝言を託されました」とつづけた。
「本当に残念です。クラニシ中尉は、捕虜に対して憐《あわ》れみと暖かい同情、理解をもって接してくれました。本当に人間味豊かな軍人で、まさに〝仁の人〃、私の人生の師です。自分で英語をしゃべり、捕虜の希望を受け入れるためにベストをつくしてくれました。いつも故郷の肉身を思って健康を保ち、将来、無事に帰国するために頑張り通すよう励ましてくれました。忘れ得ない恩人です」ブロードウオーターさんのしんみりした口調は、倉西さんへの思慕と他界されたことへの無念さがにじみ出ていた。そして遺族の未亡人と娘さんを気遣っていろいろと私に尋ねた。
ひとしきり話したあと、もっとゆっくり話そうと、同じホテルの彼の泊っている部屋へ案内してくれた。私の身の上のことも心配して尋ねてくれた。「小さな輸出専門の商社を経営しているんです」と私がいうと「総合商社?」と日本語でオーム返しに彼がいうので大笑いとなった。
仕事の関係で日本の駐在も長かったというだけに、日本語をよく理解していたのには驚いた。
宗教や禅の心、茶華道、邦楽など、日本伝統の文化にも詳しく、日米文化交流の計画を披露して、手伝わないかと積極的にすすめてくれたことを思い出す。倉西所長を日本語で「仁の人」と呼んだのには驚かされた。
私は、未亡人から託された倉西中尉の当時の軍服姿で撮った写真を手渡した。「奥さまも、あなたがクラニシさんを懸命に捜していることを知ってとても感謝していました。夫に代って心からお礼をいっている旨、あなたに伝えてほしいとのメッセージを、いま伝言できたことは、私にとっても心の重荷がとれた感じです。もしクラニシさんがお元気ならいっしょにここへ来れたのですが‥・残念です」私のことばは、しめりがちだった。
「これです。いつも厳しい表情の中に、人間味あふれる態度、ことばで私たちに接してくれた。本当に悲しいですね。生きているうちに会いたかった」彼は、倉西中尉の写真をじ一つと、懐しそうに見つめていた。「クラニシさんは、文学や哲学、歴史、宗教などの英訳をたくさん差し入れて、自由に読ませてくれました。少しでもわれわれ捕虜生活の環境をよくしようと、努力されました。日本軍将校として発言に制約があったと思いますが、あの環境の中で、敵兵に見せた寛容と恩情は忘れることができません」当時をふり返る彼は、一語一語をかみしめるように語り、〝倉西中尉″を偲《しの》んでいた。
私は上京の翌日、七月二十七日にブロードウォーターさんとホテル・オークラで再会した。
私の到着を待ちかまえていた。特別に二人だけ会ってゆっくり話せるようにと、別室まで借りて待っていてくれた。TBSテレビやサンケイ新聞のはからいで、テレビカメラや報道関係者も来ていたのには驚いた。
どちらからともなく、ことばの前に手を差し出した。握手した。お互いにじ一つと見つめ合い、交わした握手に力が入ったが、彼に捕虜だったあのころの若々しい面影はみられない。もちろん、私も当時二十二、三歳、丸坊頭に戦闘帽、国民服の若者姿だったのが、いまや六十二歳。禿《は》げた白髪まじりの年輩になっている。お互い、小首をかしげ、見合わす顔には微笑みをたたえながらも、本人なのか、どうか確かめ合う風に見えた。二人の表情には走り寄って飛びつき、抱き合いたい衝動さえ感じられた。やっと三十七年ぶりに〝旧交″が蘇《よみがえ》ったのだから。嬉しかった。
「コバヤシさん、本当に久しぶりですね。元気で何よりです」
「この日を長い間、待って八方、手を尽くしていたんです。こんな形で会えるのが夢のようです。本当に嬉しい。ブロードウオーターさんもお元気で何よりです」
お互い、これだけいうのがやっとだった。昂奮《こうふん》がかえって口を閉ざしたのだろう。彼は、終戦後、同じ捕虜仲間だったオエル・ジョンソン中尉(OEL・J0HNSON)の紹介で、世界的に有名なコカ・コーラ(COCA・COIA)会社に就職した。世界各地の支店に勤務、上級副社長にまでなったのを最後にいまは引退、ジョージア州日米協会の専務理事に就任して日本とアメリカの文化、経済交流と協力に活躍。同時にアトランタ市を中心にしたジョージア州に住む日系人や日本人の生活向上と快適な暮らしのために奔走している。彼の落ち着いた口調には貫禄が感じられ、戦後に歩んだ経歴を象徴するようだった。均整のとれた知的な紳士からは、収容所当時の面影は想像できないが、親しみのある顔形、温和な話しぶりはそのままだ。恐らく彼も私の変貌《へんぼう》ぶりにびっくりしたに違いない。
とにかく、こんな出会いから始まって、懐かしい思い出に花を咲かせた。そして「クラニシ中尉にぜひ会いたかった」と語気を強めた。フィリピンで捕虜となり、バターン死の行進で生き残り、乏しい食糧のなか、苦難の時を生き抜いて日本へ移送された彼。多奈川の収容所では、ある意味ではホッとしたともいう。しかし敵方の中での生活に緊張と疲労は増すばかりだった。そんな空気の中での倉西中尉 (多奈川分所長) との出会いは、彼に生きることの大切さを、しみじみと教えてくれた貴重なチャンスとなった。〝畏敬《いけい=おそれ敬う》すべき人生の師″との出会いだった。
「倉西さんは十六年前に心筋コウソクで他界されました。残念です。あなたとの再会を期待しておられたことでしょう」私は勇気を出してこう伝えた。「本当は倉西未亡人もいっしょにこの席でお会いする積もりでしたが、体が弱く老齢で不可能でした。未亡人もあなたの誠意に心から感謝され、よろしくとの伝言を託されました」とつづけた。
「本当に残念です。クラニシ中尉は、捕虜に対して憐《あわ》れみと暖かい同情、理解をもって接してくれました。本当に人間味豊かな軍人で、まさに〝仁の人〃、私の人生の師です。自分で英語をしゃべり、捕虜の希望を受け入れるためにベストをつくしてくれました。いつも故郷の肉身を思って健康を保ち、将来、無事に帰国するために頑張り通すよう励ましてくれました。忘れ得ない恩人です」ブロードウオーターさんのしんみりした口調は、倉西さんへの思慕と他界されたことへの無念さがにじみ出ていた。そして遺族の未亡人と娘さんを気遣っていろいろと私に尋ねた。
ひとしきり話したあと、もっとゆっくり話そうと、同じホテルの彼の泊っている部屋へ案内してくれた。私の身の上のことも心配して尋ねてくれた。「小さな輸出専門の商社を経営しているんです」と私がいうと「総合商社?」と日本語でオーム返しに彼がいうので大笑いとなった。
仕事の関係で日本の駐在も長かったというだけに、日本語をよく理解していたのには驚いた。
宗教や禅の心、茶華道、邦楽など、日本伝統の文化にも詳しく、日米文化交流の計画を披露して、手伝わないかと積極的にすすめてくれたことを思い出す。倉西所長を日本語で「仁の人」と呼んだのには驚かされた。
私は、未亡人から託された倉西中尉の当時の軍服姿で撮った写真を手渡した。「奥さまも、あなたがクラニシさんを懸命に捜していることを知ってとても感謝していました。夫に代って心からお礼をいっている旨、あなたに伝えてほしいとのメッセージを、いま伝言できたことは、私にとっても心の重荷がとれた感じです。もしクラニシさんがお元気ならいっしょにここへ来れたのですが‥・残念です」私のことばは、しめりがちだった。
「これです。いつも厳しい表情の中に、人間味あふれる態度、ことばで私たちに接してくれた。本当に悲しいですね。生きているうちに会いたかった」彼は、倉西中尉の写真をじ一つと、懐しそうに見つめていた。「クラニシさんは、文学や哲学、歴史、宗教などの英訳をたくさん差し入れて、自由に読ませてくれました。少しでもわれわれ捕虜生活の環境をよくしようと、努力されました。日本軍将校として発言に制約があったと思いますが、あの環境の中で、敵兵に見せた寛容と恩情は忘れることができません」当時をふり返る彼は、一語一語をかみしめるように語り、〝倉西中尉″を偲《しの》んでいた。
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編集者 (代理投稿)