兄の眠る国 山口周行
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- 兄の眠る国 11 山口周行 (編集者, 2010/7/9 9:03)
- 兄の眠る国 12 山口周行 (編集者, 2010/7/12 8:19)
編集者
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十五 飢えと病気で敢闘
十一月八日は平成十九年度東部PNG慰霊巡拝の最終の日です。明日は合同追悼式が催されることになっています。
午前五時四十五分起床、支度を始めると六時頃突然停電しました。真っ暗で 不慣れな部屋のため様子がさっぱりわかりません。昨夜寝るとき、蚊取線香を つけたマッチを机の上に置いたのを思い出し、手探りでやっと明かりがとれて救われました。停電は頻繁にあるようです。
午前八時半出発に先立って、今夕午後六時半から花形駐PNG大使が慰霊巡拝団全員の帰国前夜までの労をねぎらい、このホテル食堂でご馳走してくださることが班長(厚労省随行)から知らされました。出発した車は海岸を行きます。打ち寄せる波は、六十余年前も今も、少しも変わらない営みでしょう。遥かな時空を越えた不可思議なご縁としか思えないここPNGウエワクの海岸沿道は、至る所濃紺の緑滴る天然動植物園がえんえんと続きます。ラム河、セピック河の大河が近くにあるからでしょう。湿地帯が多く、車外に展開する泥水やぬかるみの小川や沼には、ワニや噛まれたら五分で絶命するといわれる猛毒極彩色の蛇もいそうです。マングローブの気根は長く垂れ下がり、林となって道脇を埋めています。
午前九時過ぎ、日本海軍が最後まで立てこもったと言われるムシュ島が見えるウォーム岬に着きました。美しい静かな白い砂浜です。人っ子一人いません。みんなで急造の祭壇に手を合わせました。次に向かったのはウエワク半島で日本軍建設の中飛行場(他に東、西二つの飛行場があった)跡でした。連日猛攻撃に曝されていたことを知らされました。午前十時半、洋展台慰霊塔に到着しました。一九四七年慰霊巡拝された方の揮毫?「つわものがうえしかぼちゃの いきてさく」と書かれた木碑が一基淋しく私たちを出迎えてくださいました。胸に迫りくる悲痛やる方ない思いの中での、お参りとなりました。十一時半、お参りがすむとすぐ帰途に向かいました。ここも、ものすごくひどい道路としか表現できない悪路です。突如すぐ目の前に水深三、四〇 センチ位の河が横切ります。
なんら臆することなく、車は川の中を突っ走ります。エンジンが水に漬かってとまりはしないか、もしここで帰れなくなったらどうなってしまうのか;?不安が頭をよぎります。
午後二時頃、小休止していると、六・七人の子どもたちがこっちに向かって歩いてきます。通訳の見形さんに尋ねてもらえば、学校に行くとのことです。
学制はどうなっているのか、知りたくなります。どの子もみんな笑顔で、口々に大きな喚声で応えてくれました。
出発すると、道路はますます狭く厳しくなってきます。私の目蓋には、この深いジャングルを全く補給なく、飢えた身で、はたまたマラリアによる高熱に冒されながら、更には風土病を敵に回し、勇猛果敢に敢闘する日本兵士、そしてわが兄の惨めで悲しい姿が、遣る瀬無く浮かんでは消えていきます。このような奥地の山道でも、すれ違う人たちは大声を出し、体全体で笑顔の歓迎をしてくれ、沈みがちな私の心に灯火を点してくれました。車中でこの間の感想をメモしたつもりでしたが、改めて手帳を見直してみますと、いろいろ記入されてはいても何が書いてあるかさっぱり分かりません。自分で書いた自分の手帳なのに情けないことです。やっぱりここは黄泉の国だからなのでしょうか。
二時三十五分、英霊碑と思しき碑が見受けられましたが、余裕時間なく、心の中で手を合わせ、発車しました。この時間では予定していたブーツとアイタベまでは到底いけず、行けば帰れなくなってしまうとのことで、それらの地での慰霊巡拝を諦め、三時、急遽ブーツ飛行場跡の長い茅(ちがや)が生い茂る中に、焼け爛れた日本飛行機エンジン?横の平地で草を踏み、祭壇を設け、全員でお参りしました。走行中、三時四十分頃同じブーツ内の開けたところで大和合同慰霊碑と揮毫された石碑を発見し、全員下車一礼して先を急ぎました。
何とか予定の時刻までにホテルに着くことができ、午後六時三十分一・二班全員で花形大使と清澤二等書記官のお二人をお迎えすることができました。各自の席で居住まいを正し、全員が拍手でお二人に謝意を表して、お迎えしました。
開宴に当り、花形大使が挨拶されました。冒頭、「この国で亡くなられた方々は、飢えと病気に代表されます。…」と声を詰まらせ目をしばたかれました。そしてポケットから白いハンカチを取り出されて涙を拭かれました。暫し沈黙が続きました。後の言葉は大使に背を向けた席に座っている私には殆ど聞き取れませんでした。私は自分なりに想像して「祖国のため、勇猛果敢に戦って散華されました」と、勝手に補足しながら、大使のお声に耳を傾けました。
優しく温かで人間性豊かな大使のお人柄に触れ、長兄も私も大使と一緒に涙を共有することができました。そして、言い知れぬ感謝の念が私を包み込んでくれました。さらには巡拝ができた喜びがこみ上げてきました。胸がいっぱいで何を飲んだのか、なにを食べたのかまったく思い出せません。私はその国にある遺骨や遺品は文化財保護の観点から、国際間の移動は禁止されていると聞いていましたが、大使が私の席の隣にこられたので意を決してお願いしました。「大使、ご無理なお願いでしょうが、一刻も早く小さなお骨の一片たりとも日本へ返してあげてください」と。大使は私たちの気持ちを察し「はい、分かりました」と短く答えてくださいました。なんという思い遣りのこもったご返事であることでしょう。どんなものにも優るご馳走をいっぱい頂くことのできた有難い夕餉でありました。
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十六 涙雨降りしきる合同追悼式
十一月九日、東部PNG慰霊巡拝最後の日になりました。この日はウエワ ク・ウインドジャマーホテルから歩いて二十分ほどの距離にある東セピック州 ウエワク市の「ニューギニア戦没者の碑」前で合同追悼式が挙行されます。
午前九時三十分、ホテルに全員集合し、十時三十分から式が始まります。式場は敷地凡そ約六千㎡(縦百m、横六十m)の中に昭和五十六年九月PNG国政府の協力によりニューギニア地域と周辺海域で戦没されたすべての方々の霊を慰めるために、日本国政府が建設した施設であります。
慰霊碑は敷地の北側(海側)に配置され、現地の材料を取り入れた民家の素朴な造詣をモチーフとして、簡素で重々しい雰囲気のあずま屋に安置されていました。あずま屋は四本柱で壁がなく寄せ棟造りです。あずま屋の前面は蓮の ような水生植物の生える池で囲まれています。あずま屋と休憩所、野外ステージ等のある広場(二十七m四方)へ行く通路は池の中央を通って行くことができるようになっていました。
この休憩所や屋外ステージ等は、東部ニューギニア戦友会ならびに社団法人PNG友好協会からの寄付で作られたとのことです。
碑文には、次の言葉が彫り刻まれていました。
ニューギニア戦没者の碑
先の大戦においてニューギニアおよびその周辺海域で戦没した人々をしのび平和への思いを込めてこの碑を建立する
竣工昭和五十六年九月十六日日本国政府
協力パプア・ニューギニア政府
開式のころになると雨が降り始めました。雨は次第に強くなってきます。私たちが当地へ来て七日間、全く雨に遭うことがなかっただけに追悼式でのこの雨はこの地に眠るすべての方々と私ども全員の万感胸に迫っての感涙に違いありません。
私たち台湾友愛桜の会全員が四年前台湾先端にあるバシー海峡を望む潮音寺で戦没者慰霊の折、全員君が代を合掌(合唱)し始めると突然はい然と強い雨が降ってきました。その時、私は慟哭の雨降る潮音寺と表現しましたがまたしても、ここPNG慰霊巡拝最後の日の今、はい然と雨が降ってきたのです。私には偶然の降雨とはとても思えません。
追悼碑の前のあずま屋を覆うビニールシートに雨が溜まり垂れ下がったシート上の雨は溢れ、起立して黙祷する私たちを慟哭の雨がぬらしました。
式典は厚生労働省の青木氏の司会によって進められました。
①開式の辞 司会者
②全員が起立して黙祷。心に深くしみる沈黙でした。
③追悼の辞 政府派遣、厚生労働省柿原団長、来賓として花形大使、遺族代表、諸隈氏によって述べられました。どの方も異口同音に、言語を絶する戦闘、日本の安泰と永遠の繁栄、飢えと病魔との闘い、万感胸に迫る思い等々の言葉が続きました。降りしきる雨と同じように、参加者全員の目からも涙が溢れました。同時に「良くぞ戦ってくださいました。心から厚く厚く御礼申し上げます」が私の口をついて出ました。
④日章旗前の献花台には既に九都道府県知事からの花輪が飾られています。献花は団長、来賓、遺族の順で行われ、
⑤司会者によって閉式の辞となりました。
この合同追悼式で主な東部ニューギニア慰霊巡拝はすべて終わりました。お参りすることができ、大きな感謝と達成感は与えていただきましたが、戦後から今日まで放置してきた私の心にある罪悪感は今なお払拭できていません。この度の慰霊巡礼を振り返って、私は平成二十年の年頭賀詞を次のように記しました。
終生一度の長兄、鎮魂慰霊の巡拝は熱帯雨林東部パプアニューギニア(PNG)
兄さん、散華された十二万七千有余の御柱申し訳ありませんでした。お許しください
周行がやっときました。ごめんなさい
飢えと病気、打つ弾なく惨苦凝縮地獄の戦場望郷の思いは日に何度祖国を見つめたことか
そこの道にも日本の兵隊さんが眠っています
一行の前で話す昔酋長?のカエムシアン老人
彼は日本の歌を教えた兵士を偲んで歌った
夕焼け小焼け 船頭小唄 酋長の娘 を正確に
昼間も暗いジャングルのずっと奥地の山の中
学校も勉強も、全く知らない現地の人たちに
死闘の傍ら、学校を作り子供に教えた兵士たち
彼らはPNGの明日の国づくりを熱く説いた
そこで学んだ八歳のマイケル・ソマレ少年
独立運動に投じ現在三期目の現PNG首相
帰国前夜。私は駐PNG花形大使に願い出た
一刻も早くお骨を日本へ帰してあげて:と
御霊の大恩を忘れた日本人に平和はない
平成二十年 元旦
参考文献
◎ 秘録大東亜戦争マレー・太平洋島嶼篇
昭和28年9月発行
富士書苑 田村吉雄編集
◎台湾高砂義勇隊
平成六年一月発行
あけぼの会 編者 門脇朝秀
◎ ニューギニア地獄の戦場
平成四年八月発行
徳間書店 著者 御田重宝
◎ 太平洋戦跡紀行ニューギニア
平成十八年九月発行
(株)光人社 著者 西村 誠
◎ 東部ニューギニア慰霊巡拝のしおり
平成十九年十一月
厚生労働省社会援護局
◎http:imperialarmy.hp.intoseen.co.jp/general/yasukuni/adachi.html20
08/09
フリー百科事典「ウィキペディア」安達二十三
◎http:www.goroku,gr,jp/junpai/doc2.html 2007/11/02
解説東部ニューギニア
著者 山 口 周 行
〒 474‐0026
愛知県大府市桃山町三丁目二七九
電話 〇五六二(四六)〇一〇七
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