兄の眠る国 11 山口周行
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
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十五 飢えと病気で敢闘
十一月八日は平成十九年度東部PNG慰霊巡拝の最終の日です。明日は合同追悼式が催されることになっています。
午前五時四十五分起床、支度を始めると六時頃突然停電しました。真っ暗で 不慣れな部屋のため様子がさっぱりわかりません。昨夜寝るとき、蚊取線香を つけたマッチを机の上に置いたのを思い出し、手探りでやっと明かりがとれて救われました。停電は頻繁にあるようです。
午前八時半出発に先立って、今夕午後六時半から花形駐PNG大使が慰霊巡拝団全員の帰国前夜までの労をねぎらい、このホテル食堂でご馳走してくださることが班長(厚労省随行)から知らされました。出発した車は海岸を行きます。打ち寄せる波は、六十余年前も今も、少しも変わらない営みでしょう。遥かな時空を越えた不可思議なご縁としか思えないここPNGウエワクの海岸沿道は、至る所濃紺の緑滴る天然動植物園がえんえんと続きます。ラム河、セピック河の大河が近くにあるからでしょう。湿地帯が多く、車外に展開する泥水やぬかるみの小川や沼には、ワニや噛まれたら五分で絶命するといわれる猛毒極彩色の蛇もいそうです。マングローブの気根は長く垂れ下がり、林となって道脇を埋めています。
午前九時過ぎ、日本海軍が最後まで立てこもったと言われるムシュ島が見えるウォーム岬に着きました。美しい静かな白い砂浜です。人っ子一人いません。みんなで急造の祭壇に手を合わせました。次に向かったのはウエワク半島で日本軍建設の中飛行場(他に東、西二つの飛行場があった)跡でした。連日猛攻撃に曝されていたことを知らされました。午前十時半、洋展台慰霊塔に到着しました。一九四七年慰霊巡拝された方の揮毫?「つわものがうえしかぼちゃの いきてさく」と書かれた木碑が一基淋しく私たちを出迎えてくださいました。胸に迫りくる悲痛やる方ない思いの中での、お参りとなりました。十一時半、お参りがすむとすぐ帰途に向かいました。ここも、ものすごくひどい道路としか表現できない悪路です。突如すぐ目の前に水深三、四〇 センチ位の河が横切ります。
なんら臆することなく、車は川の中を突っ走ります。エンジンが水に漬かってとまりはしないか、もしここで帰れなくなったらどうなってしまうのか;?不安が頭をよぎります。
午後二時頃、小休止していると、六・七人の子どもたちがこっちに向かって歩いてきます。通訳の見形さんに尋ねてもらえば、学校に行くとのことです。
学制はどうなっているのか、知りたくなります。どの子もみんな笑顔で、口々に大きな喚声で応えてくれました。
出発すると、道路はますます狭く厳しくなってきます。私の目蓋には、この深いジャングルを全く補給なく、飢えた身で、はたまたマラリアによる高熱に冒されながら、更には風土病を敵に回し、勇猛果敢に敢闘する日本兵士、そしてわが兄の惨めで悲しい姿が、遣る瀬無く浮かんでは消えていきます。このような奥地の山道でも、すれ違う人たちは大声を出し、体全体で笑顔の歓迎をしてくれ、沈みがちな私の心に灯火を点してくれました。車中でこの間の感想をメモしたつもりでしたが、改めて手帳を見直してみますと、いろいろ記入されてはいても何が書いてあるかさっぱり分かりません。自分で書いた自分の手帳なのに情けないことです。やっぱりここは黄泉の国だからなのでしょうか。
二時三十五分、英霊碑と思しき碑が見受けられましたが、余裕時間なく、心の中で手を合わせ、発車しました。この時間では予定していたブーツとアイタベまでは到底いけず、行けば帰れなくなってしまうとのことで、それらの地での慰霊巡拝を諦め、三時、急遽ブーツ飛行場跡の長い茅(ちがや)が生い茂る中に、焼け爛れた日本飛行機エンジン?横の平地で草を踏み、祭壇を設け、全員でお参りしました。走行中、三時四十分頃同じブーツ内の開けたところで大和合同慰霊碑と揮毫された石碑を発見し、全員下車一礼して先を急ぎました。
何とか予定の時刻までにホテルに着くことができ、午後六時三十分一・二班全員で花形大使と清澤二等書記官のお二人をお迎えすることができました。各自の席で居住まいを正し、全員が拍手でお二人に謝意を表して、お迎えしました。
開宴に当り、花形大使が挨拶されました。冒頭、「この国で亡くなられた方々は、飢えと病気に代表されます。…」と声を詰まらせ目をしばたかれました。そしてポケットから白いハンカチを取り出されて涙を拭かれました。暫し沈黙が続きました。後の言葉は大使に背を向けた席に座っている私には殆ど聞き取れませんでした。私は自分なりに想像して「祖国のため、勇猛果敢に戦って散華されました」と、勝手に補足しながら、大使のお声に耳を傾けました。
優しく温かで人間性豊かな大使のお人柄に触れ、長兄も私も大使と一緒に涙を共有することができました。そして、言い知れぬ感謝の念が私を包み込んでくれました。さらには巡拝ができた喜びがこみ上げてきました。胸がいっぱいで何を飲んだのか、なにを食べたのかまったく思い出せません。私はその国にある遺骨や遺品は文化財保護の観点から、国際間の移動は禁止されていると聞いていましたが、大使が私の席の隣にこられたので意を決してお願いしました。「大使、ご無理なお願いでしょうが、一刻も早く小さなお骨の一片たりとも日本へ返してあげてください」と。大使は私たちの気持ちを察し「はい、分かりました」と短く答えてくださいました。なんという思い遣りのこもったご返事であることでしょう。どんなものにも優るご馳走をいっぱい頂くことのできた有難い夕餉でありました。