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特攻インタビュー(第4回)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/4/6 7:46
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 --------でも、当時の写真を見ても本当に、皆さん、キリッとした顔をされていますね。

 久貫‥そうですか。

 --------出撃前の写真を見ると、顔つきというか目つきが、全然、今の若者と違うなという感じがします。

 久貢‥だから、明治維新が……あの大業が成ったなんていうのも、あの頃の人たちはみんな、命懸けでやったんでしょうね。だから、そういうことが必要なんでしょうね。ま、生命が保障されているようにみえて、毎日のように殺人事件がおきてますよね。だから、なにか異常なんですよね。やっぱり教育なんじゃないでしょうかね。教育っていうと、そういうものを直に教えるっていう教育を考えるだろうけども……私たち、操縦教育を受けてね、国のために死ねとか何とかって言われたことがないような気がしますけどね。大体、飛行機に乗って空を飛ぶのには、自分がちょっとへマすると、自分が死ぬんだということだけは確実なんですよね。だから、自分で自分の責任を取るんだっていうことがありますからね。だから、その点だけは、大丈夫なんだとは思うんですけどね。

 考えてみると、昔のように刀を持って斬りあいやる方が厳しさが出るのかもしれませんけどね。そういう厳しさもいいけどね、そういうことなしに厳しさが出来ないとね。だから、今の憲法論争でも、憲法外すと武装する、と、戦争始まるっていう。すぐそうなっちゃうでしょ。そうじゃないんですけどね。途中下車があるんですけどね。

 久貫‥戦後、死んだ戦友の分まで祖国復興に頑張ろうと考えました。20年近く市役所に勤めて出した結論は、宇宙のビックバンから現代に至るまでの自然の成り行きの中にチャンとした結論があるということでした。行政改革をやって働き方を改めた時のモデルは人体でした。それがヒントで結論だけ見出しました。退職後、学校に行き研究をと思いましたが、あまりに大きな問題でとても無理と判断してやめました。最近は子供を殺す親が多くなりましたね。動物は教育を受けなくても子供を大切に育てていますのにね。

 --------今日は貴重なお話をありがとうございました。

 (……了……)









前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/4/8 9:23
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 ※注1・「遺された声 ~録音盤が語る太平洋戦争~」 N H K制作 2004年放送

 編成された「と三一」「と三二」「と三九」「と四一」の隊員全員が第二航空軍司令部に集まり、新京放送局員たちによって故郷に伝えたい、声を録音した。その録音盤が中国で発見されたが、かなり傷んでいたので聞き取れないところもあり、NHKからの依頼で、「と四一(誠四一)」飛行隊の生き残りである上村、菊田、久貫の三氏が久貫宅に集まって録音を聞き、不明のところを助言した。当時、久貰さんも録音したが、残念ながらその録音盤は発見されなかったという。


久貫 兼資(誠四一飛行隊)軍歴

 1926年(大正15年)2月

  北海道根室市で生まれる。

 1943年(昭和18年)10月

  逓信省航空局古河地方航空機乗員養成所入所(14期操縦生徒)。

 1944年(昭和19年)3月

  仙台地方航空機乗員養成所へ転属。

 1944年(昭和19年)7月21日

  養成所卒業。同日、乙種予備候補生に採用。陸軍上等兵。

 1944年(昭和19年)8月

  第二四教育飛行隊転属。

 1944年(昭和19年)12月

  第二六教育飛行隊転属。

 1945年(昭和20年)1月20日

  任陸軍軍曹。

 1945年(昭和20年)2月6日

  第八飛行師団に転属。同日、「と号第四一飛行隊」附となる。
 
 1945年(昭和20年)3月11日

  新京第二航空司令部で「と号隊」編成。

 1945年(昭和20年)3月

  奉天から京城を経由して太刀洗に到着。その後、新田原へ。

 1945年(昭和20年)3月27日

  知覧に前進。沖縄周辺の敵艦攻撃を命じられる。

 1945年(昭和20年)3月28日

  知覧を離陸するが、エンジントラブルのため口之島に不時着。
  
 1945年(昭和20年)6月

  海軍の監視艇に便乗し鹿児島着。その後、別府陸軍病院に転院。

 1945年(昭和20年)10月31日

  福岡から臨時東京第1陸軍病院に転送。

 1946年(昭和21年)10月1日

  臨時東京第1陸軍病院を退院。


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